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「詩の日本語」 (大岡信)[古典文学]
投稿日時:2014/05/09(金) 09:45
「詩の日本語」 (大岡信)(その1)
CATEGORY/その他の趣味
「詩の日本語」 大岡信 著
中央公論社 1980年 初版
中公文庫 2001年 初版
詩の日本語
1972年から1980年にかけて発表された解説、論文をまとめたものです。
それぞれが加筆されまとめられているので、流れのある本になっています。
大岡氏の言葉で表せば、いままで考え悩んだことの「決算報告」であり、16の章からなる「なぜ」を抱え込んだまままの「自問自答集」になっています。
俊成、芭蕉、子規が命をかけてきた詩歌の厳しい世界にも、挑もうとされる大岡氏の執念にも気圧されます。
詩歌の鑑賞、読み込みの深さは、もちろん尊敬しますが、それがあまりにも手の届かないところにおられることに意気阻喪しているのも正直な気持ちです。
中学生の頃、朝日新聞に連載されていた「折々の歌」は、当時どれほども分かっていなかったのでしょうが、スクラップにして繰り返し読んでいました(2年間くらいですが)。
詩歌に何かを感じていたのかもしれません。
この本であらためて、詩歌には日本人の言語観、色彩観、自然観を解く鍵があり、美術や音楽を含めた文化を最も表していることを感じさせてもらいました。
いま読み終えたばかりで、打ちのめされた衝撃も加わりちょっと熱くなっていのが分かります。
ボードレールの「アルバトロス」(1859)の日本語訳として、上田敏の「信天翁(おきのたいふ)」(1905)、三好達治の「「信天翁(あほうどり)」(1935頃)、福永武彦の「あほう鳥」(1963頃)が比較され、近代日本にあらわれた日本語の激烈な変化が示されます。
この言葉の変化・流動化こそが日本語の本質であり、日本人の言語観を次のように言われています。
言葉を堅固な構造と法則性を持ったものというのではなく、むしろ社会構造の変化につれていつのまにか変わってゆく部分を多く持った、ある種の流動性を本質とする生ものとみなし、その流行の側面に一層敏感であろうとする態度・・・・
この精神の根は、1000年の昔に遡ることができ、「うつろい」の相によってこの生をみるという態度は、民族的な特性ともいえる。
そもそも、「言葉」という言葉は、「こと」に「端」がくっついたもので、「端」によって「こと」に命が与えられると思われていたようです。
「てにをは」こそ、日本語の総体の中で最も敏感に、事や物の変容、すなわち乾坤の変の微妙な細部を写しとることのできる部分にほかならない・・・
日本語においては、「言」の「端」においてこそ、霊妙な「ことば」の命が結晶して乾坤の変化とともにうちふるえる姿が最も鮮やかに見てとられる
「乾坤」というものを「変」の姿においてとらえることをもって風雅の要諦とする思想につうじていた
古来より日本の詩歌は、「動き」や「変化」を重要な要素としていましたし、芭蕉は「てにをは」の霊妙な働きを強調していました。
男と女の恋愛や情事を表す言葉で「色恋」という言葉がありますが、王朝の頃より恋愛感情を色に例え歌が詠まれました。
「色」という言葉は、植物による染色では色を安定させるのが難しく、また望み通りの一定の色を得ることが容易でないことから、恋の難しさを表現するのにふさわしい言葉だったのでしょう。
古来日本には、色彩を表す形容詞は「白い」「黒い」「赤い」「青い」の四つしかもっていませんでした。
しかし、例えば淡紅色を表す色として、撫子、桃、桜、葵、牡丹、合歓木、蓼・・・・といくつももっています。
色の数は、事物の数と同じだけあります。
この色彩感覚は研ぎ澄まされてゆき、色に「染まる」から「染む」「しみる」という感覚をもつようになります。
風に色を見るということは、もはや視覚の領域の問題ではない。心の眼の問題である。風のなかに色をみる「心」があるのだ。・・・・・現実界の色を拒絶することによって、無色のもののなかに色を見る一種の透視的な眼を獲得しようとして、彼らは骨身をけずった。
日本の詩歌というものが、現実生活のなかのさまざまな事物を即座に色として感じとっていた物心一体の境から、しだいに個々の「事物の色」を離れ、「心の色」を積極的に定立していこうとする姿がはっきりしてくるといえるだろう。
一言でいえば、ここに日本の詩歌の反俗主義があり、一見華麗なもの優美なものを豊かにもっているとみえながら、日本の詩歌が全体として「ひえさびた」境地へとたえず磁針を合わせてきた理由も、この反俗主義の現実的あらわれとしての禁欲主義によるだろう。
色ある世界にあって、いかに色を透脱するかということに、日本の詩歌は思いをこらし、反俗の「まこと」をそこにかけてきたといってよい。
先ほどの「しみる」という感覚は、男女の間の接触によって生まれるものですが、恋愛を歌った歌を西洋のものと比較すると、その違いには改めて驚かされます。
これは、詩の成り立ちの違いとともに、人間観の違いを表しているようです。
「月や太陽さえも彼女の髪に吊るされ、その額には星が冠のようにつらなる」(セバスタツィ)といったような女性讃美の詩とは、まったく異なった世界に日本の歌人たちは生きてきました。
おびただしい数歌われた恋の歌からは、おおむね自己中心的な特徴をみられていましたが、これは意外でした。
たしかに、「ひとり寝」の侘しさを歌うのは、相手へではなく自分への優しさからですね。
日本の恋歌の動機は、相手を精神的存在としてではなく、性的な接触・離反の対象としてとらえていたところに、おおむねは発していた・・・・
肌と肌の直接的接触からの距離の多少によって、ある時には「ひとり寝」の嘆きの歌となり、別の時には「後朝(きぬぎぬ)」の嘆きの歌となり、また「ながめ」(眺め/長雨)の嘆きの歌となった。
「大和物語」は、「伊勢物語」に比べ拙劣で世俗的であるという評価がありますが、その異端性こそ自由に「物語る」精神の翼がひろげられて姿ととらえる見方も興味深かったです。
「さ月」ときたら「郭公」、「花橘」なら「昔の人」(かつての恋の思い出)、「月」なら「かなし」と繋がるのは、確かに調和的な世界といえますが、作者の際立った個性が無視された姿は、「万葉集」の作者のものとは対象的です。
貫之が「土佐日記」を仮名文字で書いたことで、「古今集」的美意識に立脚しながらも、その内側から日本詩歌史を展開していこうという自覚があったとされています。
実はこの伝統と創造の問題は、和歌の問題に留まらす、日本の文学ひいては日本の芸術の問題と重なっています。
「歌道は風月延年の飾りなれば、もつともこれを用ふべし。」
これは、世阿弥が「風姿花伝」で「風月延年(=申楽)を美ならしめているのは歌道である」という意味で述べた言葉です。
「古今和歌集」仮名序の冒頭部には、次のようにあります。
「やまとうたは、人のこころを種として、よろづの言の葉とぞなりける。
・・・・・力をもいれずして、天地(あめつち)をうがかし、目に見える鬼神をもあはれとおもはせ、男女(おとこおんあ)のなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは歌なり。
この歌、天地のひらけはじまりける時よりいできにけり。」
言葉のもつ呪力は、日本に限られたことではなく、世界中の民族にみられることでした。
それでも、「歌の徳といふものは、日本では誠に神怪不可思議なもの」(柳田国男)があるとすれば、それはどういうものなのでしょう。
これは、和歌と漢詩を比べてみると見えてきそうです。
日本語の特徴である「てにをは」に、霊妙な命が凝縮されていて、これが歌に呪術的性格をもたらしているようです。
中国の南北朝時代に、劉勰(りゅうきょう)が著した文学理論書「文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう)」(499~501年完成)がありますが、
(劉勰の認識は)、天地の心が息づけば言葉が現われ、言語が現われて文章が姿を明らかにする、といっているが、それと同時に、それ以上に重要だったのは、人間こそこの天地の中心であり、・・・・・
というものでした。
強烈な人間中心主義の思想ですが、これは自然性からの「超越」ではなく、自然との同一化、重ね合わせていこうとする日本の諸芸能とは対象的です。
中世和歌の主導的な理念あるいはその展開の姿について考えてみると、象徴主義的な性質がそこに多分に認められる
当時、中国の文化は模倣すべきものであったにも拘らず、日本の詩歌はかなり対照的な道を進んでいきます。
日本の芸術に浸透していった思想に、「幽玄」というものがあります。
美しさを測る尺度でありながら、客観的な測定を許さない不思議な言葉です。
能勢朝次氏は、「幽玄論」のなかで、
「この語は、美の性質や色彩を表現する点に特色がなくて、美の深度や高度を示す所に特色を持って居る
無限に縹緲と拡がって行く余情美、無限に深く深くと深まっていく沈潜美、・・・を示す言葉」
であると語っておられます。
この美の高さと深さは、心の深浅に応じて、対象の美は深くも浅くもなるものと考えられ、
詩人たちは、主として諸感覚の驚くべき練磨を通じ、言葉の世界における「色からの脱」、「色離れ」の中に、「幽玄」の原義である深遠、窕冥の境地をめざしたのだった。
美意識の深化、純化の問題は「古今和歌集」と「新古今和歌集」の対比がその手がかりとなりそうです。
これらの成立した時代背景は全く違っていて、それが色濃く反映されています。
世の中が乱れ、朝廷の力が衰退していく中で、無常観であれ醒めた認識者の悲しみが歌われてゆきます。
藤原定家が源実朝に贈った歌論「近代秀歌」には、「昔、貫之、歌の心巧みに、たけ及び難く、詞強く、姿おもしろきさまを好みて、余情妖艶の躰をよまず」
とあります。
「晴」的な歌風を遠ざけ、「褻(け)」的な歌風に現代的な重要性を見
優美艶麗さにおいてさえ常に正面向いてみえを切っているような歌は、もはやわれわれのものではない
こうして、日本の詩歌は「優艶美から冷厳美への質的な転換」を遂げてゆきます。
そしてそこにもうひとつ、日本の詩歌、日本の文学全体に深く影響を及ぼしたものがあります。
「歌合せ」です。
後鳥羽院は、自身の回想録「御口伝」に、歌合せの判定をする定家の折り合いの悪さや執着心の強さにあきれたと書きとどめています。
この歌への執念こそ彼の秀歌の源泉でしたし、集団での制作という手法は、「連歌」「俳諧」にも受け継がれた日本の文芸の主流を占めていたものでした。
「制作」と「批判」の密接に関わりについて、大岡氏はかなり厳しいことを書かれています。
これは、くりかえすが、単なる古い時代の詩歌の話ではない。私の念頭には、現代文学、現代詩歌における実作と批評の問題が、二重映しのものとして浮んでいる。
今日、上等な小説や詩歌の作者が、同時に上等な批評家であるということは比較的に困難なことに属している。
単に知的な怠け者にすぎないという資格において「実作者」であるにすぎない実作者までが、自作の批評もろくに出来ないくせに、批評という精神の動き一般を軽んじてとくとくとしているという喜劇的な事態が、ひろく一般化している。こういう現象は、歴史を振返ってみれば、まだ百年にも満たない最近の現象であって、明治時代という近代においても、そういうことはまだ到底生じてはいなかった。
日本の詩歌が「集団制作」とそれと重複する「批判」によって、鍛え上げられてきたわけですが、和歌、俳諧、近代詩という流れだけでない、もっと様々な流れがありました。
(長くなりましたので、ちょっと休憩、続きは明日に)
「詩の日本語」 (大岡信)(その2)
CATEGORY/その他の趣味
昨日の続きです。
私たちが日本の詩歌というとき、和歌、俳諧、近代詩という道筋で考えることは、限定的な見方であるというところからはじめます。
大河「平清盛」でも毎回流れていた「遊びをせむと~」の「梁塵秘抄」など歌謡は、近代までほとんど触れられることがありませんでした。
残念なことに私たちの目にすることのできる「梁塵秘抄」は、原本のうちの1割程度であるということからも、その不当な扱いが想像されます。
実はこの「梁塵秘抄」を、北原白秋、斎藤茂吉、佐藤春夫、芥川龍之介らが興味らが興味をそそられ読み込んでいたというのは面白い話でした。
岡倉天心も大の愛好家で、多くの俗謡をのこしています。
谷中(やなか)、うぐいす、初音(はつね)の血に染む紅梅花、堂々男子は死んでもよい。
奇骨侠骨、開落栄枯は何のため、堂々男子は死んでもよい。
これは、東京谷中の初音町に東京美術院が開設された時の歌で、(3・4)(4.3)(3.4)(5) 都都逸の形式を踏んでいます。
和讃というものがあります。
大和言葉で、仏や菩薩の徳を讃嘆し、仏教の教理を歌謡の形でわかりやすく展開した歌で、七五調で句を重ねてゆき、4句をひと塊をなします。
一遍の「百利口語」のように192句を重ねた長編もあります。
ここには、現実世界の枠組みをやすやすと超え、非現実的な世界に張り出していく場があるといわれます。
このような場は、われわれが「詩」と呼んでいるものが生きて働く場として、最も密度の濃い場の、少なくとも一つである
おそらく現代の詩人宮沢賢治も、このような場に自由に出没する呼吸を心得ていた人だったろう
この和讃に関し、興味深い発見をされています。
同じ七五調でも短歌が太い線のような印象を受けるのに対し、和讃は軽快に繋がっていく面のような印象だと説明されています。
この違いを、壁画と絵巻の違い、唐絵と大和絵の違いと言われていました。
絵巻についてそれほど考えたことはありませんでしたが、45度の角度から俯瞰し、屋根・天井を取り払う「吹抜屋台」の描法をとりいれることと合わせて、次々と展開する進行形の物語は実にユニークなものだし、「うつろい」に美を見出す日本人の感性に合ったものだったのですね。
「古今集」「伊勢物語」の成立、仮名の発明、これらと同時に生まれた大和絵は、文学的、物語的人間を描くことに関心をはらい、大きな影響を受けたはずの中国の山水画や故実を描くことに興味を示さなかったという指摘もおもしろいです。
日本の絵は、人間の生活する場を尺度として森羅万象を見ようとする態度を、実に鮮明にかかげた。
人間が画面構成の中心になる以上、鑑賞者にとっては、近接し位置でしげしげと見入ることのできる絵が好ましいことはいうまではない。
こうして、天地が狭く横に延びてゆく絵巻の形式は、一見窮屈な形態的制約ゆえに、かえって自由奔放に、人間界の物語を語ってゆくことができた。
話を戻しますが、和讃はその口調の軽快さが弱点になりました。
明治30年代、日露戦争前後という時代背景がありましたが、詩人たちはこの七五調を使って、史詩、譚詩、劇詩の試みに熱中します。
与謝野鉄幹、蒲原有明、岩野泡鳴、伊良子清白、坪内逍遥、森鴎外らです。
明治36~37年に、この叙事詩の波は一気にひき、抒情詩の圧倒的優勢の時代に入っていきます。
ここで、長い歴史をもった和讃は詩歌としての終局を迎えます。
そうして日本の詩歌は「言文一致」の問題にとりくんでゆきますが、これは話し言葉と書き言葉という問題以上に、深いものがありました。
先蹤を離れ、詩歌というものをもっと直接に自分たちの若い心に近づけようとした藤村の詩にも、王朝和歌の余韻が認められる。
感情をその通念的様相の奥にまで分け入って、独自な様態において把握しようとしたのは、藤村ではなくて、彼に続く蒲原有明だった。その意味で、厳密には、日本の近代詩は、有明においてはじめて新しい時代の新しい詩の姿をとるに至ったといえるかもしれない。しかし、皮肉にも、それと同時に早くも近代詩の孤立化の道も始まったというのが、実情であった。
言文一致を「実情をありのままに描写」することと捉えるのなら、江戸時代後期の狂歌のなかにも、その精神は見出せます。
銅脈先生の「豆腐」「蕎麦」、大田南畝の「屁臭い」「野雪隠に至りて」などはあまりのリアルさに思わず噴出してしまいそうな作品です。
幸田露伴は、言文一致について「続芭蕉俳句研究(共著)」(大正11年)で書かれていたのは、
古歌古詩を十分に踏まえて、その上に立っておのれ自身を自由に表現してゆくとき、たとえ用いる言葉は言文一致でなくとも、精神はまさに言文一致の精神なのだということがいえる。
ということであり、
「言」と「文」が形式的に一致していたところで、根本の精神に創造的活力が欠けているなら、要するにそこには何もありはしないのだ
ということです。
最初に問題とすべきは「真」ということだった。
子規は、言文一致を完成させたといわれていますが、 初めのうちは、懸詞こそ排したけれど、枕詞は晩年にいたってむしろ多く愛用していて、彼の長歌の独特な味わいは、枕詞の巧みさによる点が多いといわれています。
彼は語の新旧、雅俗にはとらわれず、必要なら古語でも雅語でも俗語でも自由に用いようとしました。
衰えを自覚し、死の予感を感じた子規の晩年の歌は、幸田露伴の「言葉のやすらかなるは極めてよし、言葉の確(しか)と実際に協(かな)ひたるは、ひときはよきなり」(~「雲のいろいろ」明治30年)の言葉によって説明されていたように思います。
身近なものすべてへのかぎりないいとおしみ、惜別の情で溢れています。
藤の歌十首の詞書には、
艶にもうつくしきかなとひとりごちつゝそゞろに物語の昔などしぬばるゝにつけてあやしくも歌心なん催されける。
そして、山吹きの花十首の終わりには、
吾は只歌のやすやすと口に乗りくるがうれしくて
とあります。
明治34年の子規の歌の透明な気品は、創造的精神がなしうる戦いの限界にいどみつづけてきた子規に対して贈られた、天のたまものといった感じさえある。
何よりも心うたれるのは、これらの歌で、子規が草花のひとつひとつを、明日はこの世にいなくなる人の眼で見、愛惜していることである。それは、いわば花のひとつひとつのために碑銘をきざんでやる行為に似ていた。そしてそれは、子規自身の、なお生きてこの世に活動している精神の、最も充実した頂点の姿を、一瞬一瞬において永遠に刻みつけることでもあった。
このときの子規の歌は、詠まれている花とともに言葉が呼吸をしています。
言文一致とは、精神の自由が獲得できたかどうか、なんですね。
それにしても、大岡氏の詩歌の読み込む力には驚かされます。
知識が前提であることは間違いありませんが、やはり最後は感性でしょうか。
俊成、芭蕉、子規らの生き方をみて、「何がそこまで彼らをかきたてるのか」と疑問をもちつつも、彼らの生き方に憧れる気持ちがあります。
そういえば、西行については全く触れられていませんでした。
CATEGORY/その他の趣味
「詩の日本語」 大岡信 著
中央公論社 1980年 初版
中公文庫 2001年 初版
詩の日本語
1972年から1980年にかけて発表された解説、論文をまとめたものです。
それぞれが加筆されまとめられているので、流れのある本になっています。
大岡氏の言葉で表せば、いままで考え悩んだことの「決算報告」であり、16の章からなる「なぜ」を抱え込んだまままの「自問自答集」になっています。
俊成、芭蕉、子規が命をかけてきた詩歌の厳しい世界にも、挑もうとされる大岡氏の執念にも気圧されます。
詩歌の鑑賞、読み込みの深さは、もちろん尊敬しますが、それがあまりにも手の届かないところにおられることに意気阻喪しているのも正直な気持ちです。
中学生の頃、朝日新聞に連載されていた「折々の歌」は、当時どれほども分かっていなかったのでしょうが、スクラップにして繰り返し読んでいました(2年間くらいですが)。
詩歌に何かを感じていたのかもしれません。
この本であらためて、詩歌には日本人の言語観、色彩観、自然観を解く鍵があり、美術や音楽を含めた文化を最も表していることを感じさせてもらいました。
いま読み終えたばかりで、打ちのめされた衝撃も加わりちょっと熱くなっていのが分かります。
ボードレールの「アルバトロス」(1859)の日本語訳として、上田敏の「信天翁(おきのたいふ)」(1905)、三好達治の「「信天翁(あほうどり)」(1935頃)、福永武彦の「あほう鳥」(1963頃)が比較され、近代日本にあらわれた日本語の激烈な変化が示されます。
この言葉の変化・流動化こそが日本語の本質であり、日本人の言語観を次のように言われています。
言葉を堅固な構造と法則性を持ったものというのではなく、むしろ社会構造の変化につれていつのまにか変わってゆく部分を多く持った、ある種の流動性を本質とする生ものとみなし、その流行の側面に一層敏感であろうとする態度・・・・
この精神の根は、1000年の昔に遡ることができ、「うつろい」の相によってこの生をみるという態度は、民族的な特性ともいえる。
そもそも、「言葉」という言葉は、「こと」に「端」がくっついたもので、「端」によって「こと」に命が与えられると思われていたようです。
「てにをは」こそ、日本語の総体の中で最も敏感に、事や物の変容、すなわち乾坤の変の微妙な細部を写しとることのできる部分にほかならない・・・
日本語においては、「言」の「端」においてこそ、霊妙な「ことば」の命が結晶して乾坤の変化とともにうちふるえる姿が最も鮮やかに見てとられる
「乾坤」というものを「変」の姿においてとらえることをもって風雅の要諦とする思想につうじていた
古来より日本の詩歌は、「動き」や「変化」を重要な要素としていましたし、芭蕉は「てにをは」の霊妙な働きを強調していました。
男と女の恋愛や情事を表す言葉で「色恋」という言葉がありますが、王朝の頃より恋愛感情を色に例え歌が詠まれました。
「色」という言葉は、植物による染色では色を安定させるのが難しく、また望み通りの一定の色を得ることが容易でないことから、恋の難しさを表現するのにふさわしい言葉だったのでしょう。
古来日本には、色彩を表す形容詞は「白い」「黒い」「赤い」「青い」の四つしかもっていませんでした。
しかし、例えば淡紅色を表す色として、撫子、桃、桜、葵、牡丹、合歓木、蓼・・・・といくつももっています。
色の数は、事物の数と同じだけあります。
この色彩感覚は研ぎ澄まされてゆき、色に「染まる」から「染む」「しみる」という感覚をもつようになります。
風に色を見るということは、もはや視覚の領域の問題ではない。心の眼の問題である。風のなかに色をみる「心」があるのだ。・・・・・現実界の色を拒絶することによって、無色のもののなかに色を見る一種の透視的な眼を獲得しようとして、彼らは骨身をけずった。
日本の詩歌というものが、現実生活のなかのさまざまな事物を即座に色として感じとっていた物心一体の境から、しだいに個々の「事物の色」を離れ、「心の色」を積極的に定立していこうとする姿がはっきりしてくるといえるだろう。
一言でいえば、ここに日本の詩歌の反俗主義があり、一見華麗なもの優美なものを豊かにもっているとみえながら、日本の詩歌が全体として「ひえさびた」境地へとたえず磁針を合わせてきた理由も、この反俗主義の現実的あらわれとしての禁欲主義によるだろう。
色ある世界にあって、いかに色を透脱するかということに、日本の詩歌は思いをこらし、反俗の「まこと」をそこにかけてきたといってよい。
先ほどの「しみる」という感覚は、男女の間の接触によって生まれるものですが、恋愛を歌った歌を西洋のものと比較すると、その違いには改めて驚かされます。
これは、詩の成り立ちの違いとともに、人間観の違いを表しているようです。
「月や太陽さえも彼女の髪に吊るされ、その額には星が冠のようにつらなる」(セバスタツィ)といったような女性讃美の詩とは、まったく異なった世界に日本の歌人たちは生きてきました。
おびただしい数歌われた恋の歌からは、おおむね自己中心的な特徴をみられていましたが、これは意外でした。
たしかに、「ひとり寝」の侘しさを歌うのは、相手へではなく自分への優しさからですね。
日本の恋歌の動機は、相手を精神的存在としてではなく、性的な接触・離反の対象としてとらえていたところに、おおむねは発していた・・・・
肌と肌の直接的接触からの距離の多少によって、ある時には「ひとり寝」の嘆きの歌となり、別の時には「後朝(きぬぎぬ)」の嘆きの歌となり、また「ながめ」(眺め/長雨)の嘆きの歌となった。
「大和物語」は、「伊勢物語」に比べ拙劣で世俗的であるという評価がありますが、その異端性こそ自由に「物語る」精神の翼がひろげられて姿ととらえる見方も興味深かったです。
「さ月」ときたら「郭公」、「花橘」なら「昔の人」(かつての恋の思い出)、「月」なら「かなし」と繋がるのは、確かに調和的な世界といえますが、作者の際立った個性が無視された姿は、「万葉集」の作者のものとは対象的です。
貫之が「土佐日記」を仮名文字で書いたことで、「古今集」的美意識に立脚しながらも、その内側から日本詩歌史を展開していこうという自覚があったとされています。
実はこの伝統と創造の問題は、和歌の問題に留まらす、日本の文学ひいては日本の芸術の問題と重なっています。
「歌道は風月延年の飾りなれば、もつともこれを用ふべし。」
これは、世阿弥が「風姿花伝」で「風月延年(=申楽)を美ならしめているのは歌道である」という意味で述べた言葉です。
「古今和歌集」仮名序の冒頭部には、次のようにあります。
「やまとうたは、人のこころを種として、よろづの言の葉とぞなりける。
・・・・・力をもいれずして、天地(あめつち)をうがかし、目に見える鬼神をもあはれとおもはせ、男女(おとこおんあ)のなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは歌なり。
この歌、天地のひらけはじまりける時よりいできにけり。」
言葉のもつ呪力は、日本に限られたことではなく、世界中の民族にみられることでした。
それでも、「歌の徳といふものは、日本では誠に神怪不可思議なもの」(柳田国男)があるとすれば、それはどういうものなのでしょう。
これは、和歌と漢詩を比べてみると見えてきそうです。
日本語の特徴である「てにをは」に、霊妙な命が凝縮されていて、これが歌に呪術的性格をもたらしているようです。
中国の南北朝時代に、劉勰(りゅうきょう)が著した文学理論書「文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう)」(499~501年完成)がありますが、
(劉勰の認識は)、天地の心が息づけば言葉が現われ、言語が現われて文章が姿を明らかにする、といっているが、それと同時に、それ以上に重要だったのは、人間こそこの天地の中心であり、・・・・・
というものでした。
強烈な人間中心主義の思想ですが、これは自然性からの「超越」ではなく、自然との同一化、重ね合わせていこうとする日本の諸芸能とは対象的です。
中世和歌の主導的な理念あるいはその展開の姿について考えてみると、象徴主義的な性質がそこに多分に認められる
当時、中国の文化は模倣すべきものであったにも拘らず、日本の詩歌はかなり対照的な道を進んでいきます。
日本の芸術に浸透していった思想に、「幽玄」というものがあります。
美しさを測る尺度でありながら、客観的な測定を許さない不思議な言葉です。
能勢朝次氏は、「幽玄論」のなかで、
「この語は、美の性質や色彩を表現する点に特色がなくて、美の深度や高度を示す所に特色を持って居る
無限に縹緲と拡がって行く余情美、無限に深く深くと深まっていく沈潜美、・・・を示す言葉」
であると語っておられます。
この美の高さと深さは、心の深浅に応じて、対象の美は深くも浅くもなるものと考えられ、
詩人たちは、主として諸感覚の驚くべき練磨を通じ、言葉の世界における「色からの脱」、「色離れ」の中に、「幽玄」の原義である深遠、窕冥の境地をめざしたのだった。
美意識の深化、純化の問題は「古今和歌集」と「新古今和歌集」の対比がその手がかりとなりそうです。
これらの成立した時代背景は全く違っていて、それが色濃く反映されています。
世の中が乱れ、朝廷の力が衰退していく中で、無常観であれ醒めた認識者の悲しみが歌われてゆきます。
藤原定家が源実朝に贈った歌論「近代秀歌」には、「昔、貫之、歌の心巧みに、たけ及び難く、詞強く、姿おもしろきさまを好みて、余情妖艶の躰をよまず」
とあります。
「晴」的な歌風を遠ざけ、「褻(け)」的な歌風に現代的な重要性を見
優美艶麗さにおいてさえ常に正面向いてみえを切っているような歌は、もはやわれわれのものではない
こうして、日本の詩歌は「優艶美から冷厳美への質的な転換」を遂げてゆきます。
そしてそこにもうひとつ、日本の詩歌、日本の文学全体に深く影響を及ぼしたものがあります。
「歌合せ」です。
後鳥羽院は、自身の回想録「御口伝」に、歌合せの判定をする定家の折り合いの悪さや執着心の強さにあきれたと書きとどめています。
この歌への執念こそ彼の秀歌の源泉でしたし、集団での制作という手法は、「連歌」「俳諧」にも受け継がれた日本の文芸の主流を占めていたものでした。
「制作」と「批判」の密接に関わりについて、大岡氏はかなり厳しいことを書かれています。
これは、くりかえすが、単なる古い時代の詩歌の話ではない。私の念頭には、現代文学、現代詩歌における実作と批評の問題が、二重映しのものとして浮んでいる。
今日、上等な小説や詩歌の作者が、同時に上等な批評家であるということは比較的に困難なことに属している。
単に知的な怠け者にすぎないという資格において「実作者」であるにすぎない実作者までが、自作の批評もろくに出来ないくせに、批評という精神の動き一般を軽んじてとくとくとしているという喜劇的な事態が、ひろく一般化している。こういう現象は、歴史を振返ってみれば、まだ百年にも満たない最近の現象であって、明治時代という近代においても、そういうことはまだ到底生じてはいなかった。
日本の詩歌が「集団制作」とそれと重複する「批判」によって、鍛え上げられてきたわけですが、和歌、俳諧、近代詩という流れだけでない、もっと様々な流れがありました。
(長くなりましたので、ちょっと休憩、続きは明日に)
「詩の日本語」 (大岡信)(その2)
CATEGORY/その他の趣味
昨日の続きです。
私たちが日本の詩歌というとき、和歌、俳諧、近代詩という道筋で考えることは、限定的な見方であるというところからはじめます。
大河「平清盛」でも毎回流れていた「遊びをせむと~」の「梁塵秘抄」など歌謡は、近代までほとんど触れられることがありませんでした。
残念なことに私たちの目にすることのできる「梁塵秘抄」は、原本のうちの1割程度であるということからも、その不当な扱いが想像されます。
実はこの「梁塵秘抄」を、北原白秋、斎藤茂吉、佐藤春夫、芥川龍之介らが興味らが興味をそそられ読み込んでいたというのは面白い話でした。
岡倉天心も大の愛好家で、多くの俗謡をのこしています。
谷中(やなか)、うぐいす、初音(はつね)の血に染む紅梅花、堂々男子は死んでもよい。
奇骨侠骨、開落栄枯は何のため、堂々男子は死んでもよい。
これは、東京谷中の初音町に東京美術院が開設された時の歌で、(3・4)(4.3)(3.4)(5) 都都逸の形式を踏んでいます。
和讃というものがあります。
大和言葉で、仏や菩薩の徳を讃嘆し、仏教の教理を歌謡の形でわかりやすく展開した歌で、七五調で句を重ねてゆき、4句をひと塊をなします。
一遍の「百利口語」のように192句を重ねた長編もあります。
ここには、現実世界の枠組みをやすやすと超え、非現実的な世界に張り出していく場があるといわれます。
このような場は、われわれが「詩」と呼んでいるものが生きて働く場として、最も密度の濃い場の、少なくとも一つである
おそらく現代の詩人宮沢賢治も、このような場に自由に出没する呼吸を心得ていた人だったろう
この和讃に関し、興味深い発見をされています。
同じ七五調でも短歌が太い線のような印象を受けるのに対し、和讃は軽快に繋がっていく面のような印象だと説明されています。
この違いを、壁画と絵巻の違い、唐絵と大和絵の違いと言われていました。
絵巻についてそれほど考えたことはありませんでしたが、45度の角度から俯瞰し、屋根・天井を取り払う「吹抜屋台」の描法をとりいれることと合わせて、次々と展開する進行形の物語は実にユニークなものだし、「うつろい」に美を見出す日本人の感性に合ったものだったのですね。
「古今集」「伊勢物語」の成立、仮名の発明、これらと同時に生まれた大和絵は、文学的、物語的人間を描くことに関心をはらい、大きな影響を受けたはずの中国の山水画や故実を描くことに興味を示さなかったという指摘もおもしろいです。
日本の絵は、人間の生活する場を尺度として森羅万象を見ようとする態度を、実に鮮明にかかげた。
人間が画面構成の中心になる以上、鑑賞者にとっては、近接し位置でしげしげと見入ることのできる絵が好ましいことはいうまではない。
こうして、天地が狭く横に延びてゆく絵巻の形式は、一見窮屈な形態的制約ゆえに、かえって自由奔放に、人間界の物語を語ってゆくことができた。
話を戻しますが、和讃はその口調の軽快さが弱点になりました。
明治30年代、日露戦争前後という時代背景がありましたが、詩人たちはこの七五調を使って、史詩、譚詩、劇詩の試みに熱中します。
与謝野鉄幹、蒲原有明、岩野泡鳴、伊良子清白、坪内逍遥、森鴎外らです。
明治36~37年に、この叙事詩の波は一気にひき、抒情詩の圧倒的優勢の時代に入っていきます。
ここで、長い歴史をもった和讃は詩歌としての終局を迎えます。
そうして日本の詩歌は「言文一致」の問題にとりくんでゆきますが、これは話し言葉と書き言葉という問題以上に、深いものがありました。
先蹤を離れ、詩歌というものをもっと直接に自分たちの若い心に近づけようとした藤村の詩にも、王朝和歌の余韻が認められる。
感情をその通念的様相の奥にまで分け入って、独自な様態において把握しようとしたのは、藤村ではなくて、彼に続く蒲原有明だった。その意味で、厳密には、日本の近代詩は、有明においてはじめて新しい時代の新しい詩の姿をとるに至ったといえるかもしれない。しかし、皮肉にも、それと同時に早くも近代詩の孤立化の道も始まったというのが、実情であった。
言文一致を「実情をありのままに描写」することと捉えるのなら、江戸時代後期の狂歌のなかにも、その精神は見出せます。
銅脈先生の「豆腐」「蕎麦」、大田南畝の「屁臭い」「野雪隠に至りて」などはあまりのリアルさに思わず噴出してしまいそうな作品です。
幸田露伴は、言文一致について「続芭蕉俳句研究(共著)」(大正11年)で書かれていたのは、
古歌古詩を十分に踏まえて、その上に立っておのれ自身を自由に表現してゆくとき、たとえ用いる言葉は言文一致でなくとも、精神はまさに言文一致の精神なのだということがいえる。
ということであり、
「言」と「文」が形式的に一致していたところで、根本の精神に創造的活力が欠けているなら、要するにそこには何もありはしないのだ
ということです。
最初に問題とすべきは「真」ということだった。
子規は、言文一致を完成させたといわれていますが、 初めのうちは、懸詞こそ排したけれど、枕詞は晩年にいたってむしろ多く愛用していて、彼の長歌の独特な味わいは、枕詞の巧みさによる点が多いといわれています。
彼は語の新旧、雅俗にはとらわれず、必要なら古語でも雅語でも俗語でも自由に用いようとしました。
衰えを自覚し、死の予感を感じた子規の晩年の歌は、幸田露伴の「言葉のやすらかなるは極めてよし、言葉の確(しか)と実際に協(かな)ひたるは、ひときはよきなり」(~「雲のいろいろ」明治30年)の言葉によって説明されていたように思います。
身近なものすべてへのかぎりないいとおしみ、惜別の情で溢れています。
藤の歌十首の詞書には、
艶にもうつくしきかなとひとりごちつゝそゞろに物語の昔などしぬばるゝにつけてあやしくも歌心なん催されける。
そして、山吹きの花十首の終わりには、
吾は只歌のやすやすと口に乗りくるがうれしくて
とあります。
明治34年の子規の歌の透明な気品は、創造的精神がなしうる戦いの限界にいどみつづけてきた子規に対して贈られた、天のたまものといった感じさえある。
何よりも心うたれるのは、これらの歌で、子規が草花のひとつひとつを、明日はこの世にいなくなる人の眼で見、愛惜していることである。それは、いわば花のひとつひとつのために碑銘をきざんでやる行為に似ていた。そしてそれは、子規自身の、なお生きてこの世に活動している精神の、最も充実した頂点の姿を、一瞬一瞬において永遠に刻みつけることでもあった。
このときの子規の歌は、詠まれている花とともに言葉が呼吸をしています。
言文一致とは、精神の自由が獲得できたかどうか、なんですね。
それにしても、大岡氏の詩歌の読み込む力には驚かされます。
知識が前提であることは間違いありませんが、やはり最後は感性でしょうか。
俊成、芭蕉、子規らの生き方をみて、「何がそこまで彼らをかきたてるのか」と疑問をもちつつも、彼らの生き方に憧れる気持ちがあります。
そういえば、西行については全く触れられていませんでした。
日本における中国白話小説の受容[古典文学]
投稿日時:2014/05/09(金) 09:34
日本における中国白話小説の受容
日本に影響した中国文学といえば、「敦煌変文」がその起源と言われる「白話小説」が思い当たる。白話小説とは、いわゆる中国通俗文学のこと。「三国演義」、「水滸伝」、「西遊記」、「金瓶梅」など、有名なものは全てこのジャンルに属する。(管理人はこれらの作品が全て好きvvV)このページでは、日本文学への“白話小説”の影響を取り上げてみようと思う。
白話小説が日本でも読まれるようになるのは、江戸時代中期ごろだ。そこで、まずは中国思想と江戸時代の日本思想の関係を、“古文辞学派”の始祖である荻生徂徠にまで遡って見てみることにしよう。
荻生徂徠は、性即理(格物窮理)の朱子学を“内面の心理はおろか現実さえ包括できないものだ”と批判して、彼独自の実際的道徳論と経世論を説いた。そこでは、思想の規範を朱子学のように道徳・性理には求めずに、古代の聖人たちが陶冶した礼楽刑政を規範とし(とりわけ論語の影響を強く受ける)、これを「道」とよんだ。この「道」を押し出す徂徠の擬古主義的な見方が、江戸文学に「義理人情」を追いかけさせることになったのである。聖人の道とは人情に適ったものと解釈されたからだ。“聖人の人情”というのは、甚だ理解しにくいもののようだが(中国的であって、半ば日本的なのだ)、これは当時の見方からすれば、唐詩に表現されているような、不遇の自己を越えて高い格調でもって世界を表現し続けるような、そんな立場を指していたのだろう。 ところが、不遇の自己を越えて格調に走るという立場とはいささか違って、そうした自分をつくった社会を憤激し、風刺する立場というものも有り得たのである。これが京儒や上方の文人たちにしばしば典型した「狂者の意識」というもので(上田秋成も晩年の自分を「狂蕩」とよぶ)、この反徂徠学ともいうべき動向が陽明学をとりこみ、特に当時の文人たちを『水滸伝』などに流れる反逆の思想に傾倒させた。ここにおいて江戸文芸は、徂徠の思想よりも上方ふうの狂文狂詩を巧みに獲得する方へと流れていった。そして、銅脈先生こと畠中観斎や寝惚先生こと太田南畝を、さらには来山人こと平賀源内などを輩出することになった。これが“穿ち”の登場である。そうして“穿ち”はやがて「通」になっていく。
さてこの時期、こちらもやはり荻生徂徠を源流として、中国の白話小説が日本に流れこんできた。荻生徂徠の学派は「論語の教えを直に知るべし」ということで中国語習得を推奨した為、知識人の間で唐和学が盛んになる。知識人たちによる唐話学の学習は、その教科書として使用された白話小説を流行らせることになるのだ。当時の書籍目録「新増書籍目録」を見てみると、1764年(宝暦4年)初出の“小説”というジャンルが白話文学に相当するわけだが、ここでは白話文学が漢文で書かれているという理由から、いわゆる「真面目な本」の系統に分類されているのが興味深い。そして、この漢文の白話は、日本に無いストーリーの面白さを買われて、読本として和語に翻訳翻案(=日本を舞台に作り変えること)されるようになる。まず、長崎の唐通詞・岡島冠山(=荻生徂徠の師匠)や岡白駒らが出て白話小説の翻訳・翻案を試み、『水滸伝』の新解釈を生む。それまでは反権力的な部分が切り捨てられて紹介されていた『水滸伝』は、日本に入ってきた李卓吾の解釈に随った新しい翻案のスタイルに切り替えられたのだ。そしてその形式は建部綾足の『本朝水滸伝』において結実した。そして建部綾足は次いで『西山物語』を発表した。この手法を継承した者に、かの上田秋成がいる。 上田秋成は享保期の大坂に生まれた。代表作『雨月物語』の裏には、『水滸伝』があると言われている。このことには都賀庭鐘(つがていしょう)なる人物の影響が濃い。都賀庭鐘は医術に明るい大坂の人で、その一方で中国語も堪能であり、白話小説の翻案を20~30篇も書いたという。また彼は『英草紙』『繁野話』という読本の先駆的作品を書いた文章家でもあった。『英草紙』は“奇談”というジャンルをベースに据えて白話小説の翻案をミックスした作品で、“茶話+志”という精神圏をも意識した視点で新文体の創造を試みた。『英草紙』の内容の方を少し紹介しておくとしよう。第一話は「後醍醐の帝三たび藤房の諫めを折く話」といい、これは白話小説集『警世通言』所収の「王安石三難蘇学士」の翻案である。翻案の方法としては、時代を『太平記』の世界へと置き換えてある。人物は荊公を後醍醐天皇に、そして蘇東坡を万里小路藤房に置き換えてある。結末部分は、原話においては王安石の博識ぶりを賞賛する印象が強いが、都賀のほうはむしろ才知に驕る天皇像が批判的に描かれている。将軍綱吉を風刺しているという説もあるくらいだ。隠遁する藤房=隠逸思想こそが都賀の歴史観であると見てよいだろう。このような歴史上の人物に評価を語らせるという姿勢は、のちの上田秋成や読本へと引き継がれることになる。
さて、都賀庭鐘に次いで建部綾足が『西山物語』を発表する。彼の作品に上田秋成は大いにインスパイヤされたという。こうして秋成は、中国の白話小説を片っ端から渉猟したという。『雨月物語』という作品は、その趣向を巧みに日本の舞台に移したものだが、むろん単に換骨奪胎をしたわけではない。都賀などの作品に残存していた談義本臭さ(=教訓を平易に説く)を完全に消し去り、“循環する物語”という形式をその文章構成において実現しているのだ。 しかし、最後に注意しておきたいのは、中国白話小説から日本の“読本”というジャンルが生まれたのではないということだ。日本の文学に“読本”というジャンルの流れがもとからあり、その中に白話小説に大いに影響を受けた作品が出現した、ということなのだ。
以上が、今回調べたことである。江戸時代にこんなにも中国通俗文学がブームになっていたとは、あまり知らなかった。このように調べてみて、日本文学への白話小説の影響の大きいことには驚いた。
<参考文献>
◆「新日本古典文学全集巻78」(小学館、1995年)
英草紙 / [都賀庭鐘著] ; 中村幸彦校注・訳
西山物語 / [建部綾足著] ; 高田衛校注・訳
雨月物語 / [上田秋成著] ; 高田衛校注・訳
春雨物語 / [上田秋成著] ; 中村博保校注・訳
◆「日本思想体系36―荻生徂徠―」吉川幸次郎著(岩波書店、1973年)
◆「日本古典文学大系94―近世文学論集」(岩波書店、1966年)
徂徠先生答問書(抄) / [荻生徂徠著] ; 中村幸彦校・注
◆「明和九年刊書籍目録所載「奇談」書の研究 」 飯倉洋一ほか著
(大阪大学文学部研究課、2002年)
「西遊記とかが好きだから…」って理由で、ここまで調べちゃいました♪こんな面白くも無い論文を最後まで読んでくださった方なんて、果たして何人いなさるのでしょうか??とりあえず、有り難う御座いました♪
日本に影響した中国文学といえば、「敦煌変文」がその起源と言われる「白話小説」が思い当たる。白話小説とは、いわゆる中国通俗文学のこと。「三国演義」、「水滸伝」、「西遊記」、「金瓶梅」など、有名なものは全てこのジャンルに属する。(管理人はこれらの作品が全て好きvvV)このページでは、日本文学への“白話小説”の影響を取り上げてみようと思う。
白話小説が日本でも読まれるようになるのは、江戸時代中期ごろだ。そこで、まずは中国思想と江戸時代の日本思想の関係を、“古文辞学派”の始祖である荻生徂徠にまで遡って見てみることにしよう。
荻生徂徠は、性即理(格物窮理)の朱子学を“内面の心理はおろか現実さえ包括できないものだ”と批判して、彼独自の実際的道徳論と経世論を説いた。そこでは、思想の規範を朱子学のように道徳・性理には求めずに、古代の聖人たちが陶冶した礼楽刑政を規範とし(とりわけ論語の影響を強く受ける)、これを「道」とよんだ。この「道」を押し出す徂徠の擬古主義的な見方が、江戸文学に「義理人情」を追いかけさせることになったのである。聖人の道とは人情に適ったものと解釈されたからだ。“聖人の人情”というのは、甚だ理解しにくいもののようだが(中国的であって、半ば日本的なのだ)、これは当時の見方からすれば、唐詩に表現されているような、不遇の自己を越えて高い格調でもって世界を表現し続けるような、そんな立場を指していたのだろう。 ところが、不遇の自己を越えて格調に走るという立場とはいささか違って、そうした自分をつくった社会を憤激し、風刺する立場というものも有り得たのである。これが京儒や上方の文人たちにしばしば典型した「狂者の意識」というもので(上田秋成も晩年の自分を「狂蕩」とよぶ)、この反徂徠学ともいうべき動向が陽明学をとりこみ、特に当時の文人たちを『水滸伝』などに流れる反逆の思想に傾倒させた。ここにおいて江戸文芸は、徂徠の思想よりも上方ふうの狂文狂詩を巧みに獲得する方へと流れていった。そして、銅脈先生こと畠中観斎や寝惚先生こと太田南畝を、さらには来山人こと平賀源内などを輩出することになった。これが“穿ち”の登場である。そうして“穿ち”はやがて「通」になっていく。
さてこの時期、こちらもやはり荻生徂徠を源流として、中国の白話小説が日本に流れこんできた。荻生徂徠の学派は「論語の教えを直に知るべし」ということで中国語習得を推奨した為、知識人の間で唐和学が盛んになる。知識人たちによる唐話学の学習は、その教科書として使用された白話小説を流行らせることになるのだ。当時の書籍目録「新増書籍目録」を見てみると、1764年(宝暦4年)初出の“小説”というジャンルが白話文学に相当するわけだが、ここでは白話文学が漢文で書かれているという理由から、いわゆる「真面目な本」の系統に分類されているのが興味深い。そして、この漢文の白話は、日本に無いストーリーの面白さを買われて、読本として和語に翻訳翻案(=日本を舞台に作り変えること)されるようになる。まず、長崎の唐通詞・岡島冠山(=荻生徂徠の師匠)や岡白駒らが出て白話小説の翻訳・翻案を試み、『水滸伝』の新解釈を生む。それまでは反権力的な部分が切り捨てられて紹介されていた『水滸伝』は、日本に入ってきた李卓吾の解釈に随った新しい翻案のスタイルに切り替えられたのだ。そしてその形式は建部綾足の『本朝水滸伝』において結実した。そして建部綾足は次いで『西山物語』を発表した。この手法を継承した者に、かの上田秋成がいる。 上田秋成は享保期の大坂に生まれた。代表作『雨月物語』の裏には、『水滸伝』があると言われている。このことには都賀庭鐘(つがていしょう)なる人物の影響が濃い。都賀庭鐘は医術に明るい大坂の人で、その一方で中国語も堪能であり、白話小説の翻案を20~30篇も書いたという。また彼は『英草紙』『繁野話』という読本の先駆的作品を書いた文章家でもあった。『英草紙』は“奇談”というジャンルをベースに据えて白話小説の翻案をミックスした作品で、“茶話+志”という精神圏をも意識した視点で新文体の創造を試みた。『英草紙』の内容の方を少し紹介しておくとしよう。第一話は「後醍醐の帝三たび藤房の諫めを折く話」といい、これは白話小説集『警世通言』所収の「王安石三難蘇学士」の翻案である。翻案の方法としては、時代を『太平記』の世界へと置き換えてある。人物は荊公を後醍醐天皇に、そして蘇東坡を万里小路藤房に置き換えてある。結末部分は、原話においては王安石の博識ぶりを賞賛する印象が強いが、都賀のほうはむしろ才知に驕る天皇像が批判的に描かれている。将軍綱吉を風刺しているという説もあるくらいだ。隠遁する藤房=隠逸思想こそが都賀の歴史観であると見てよいだろう。このような歴史上の人物に評価を語らせるという姿勢は、のちの上田秋成や読本へと引き継がれることになる。
さて、都賀庭鐘に次いで建部綾足が『西山物語』を発表する。彼の作品に上田秋成は大いにインスパイヤされたという。こうして秋成は、中国の白話小説を片っ端から渉猟したという。『雨月物語』という作品は、その趣向を巧みに日本の舞台に移したものだが、むろん単に換骨奪胎をしたわけではない。都賀などの作品に残存していた談義本臭さ(=教訓を平易に説く)を完全に消し去り、“循環する物語”という形式をその文章構成において実現しているのだ。 しかし、最後に注意しておきたいのは、中国白話小説から日本の“読本”というジャンルが生まれたのではないということだ。日本の文学に“読本”というジャンルの流れがもとからあり、その中に白話小説に大いに影響を受けた作品が出現した、ということなのだ。
以上が、今回調べたことである。江戸時代にこんなにも中国通俗文学がブームになっていたとは、あまり知らなかった。このように調べてみて、日本文学への白話小説の影響の大きいことには驚いた。
<参考文献>
◆「新日本古典文学全集巻78」(小学館、1995年)
英草紙 / [都賀庭鐘著] ; 中村幸彦校注・訳
西山物語 / [建部綾足著] ; 高田衛校注・訳
雨月物語 / [上田秋成著] ; 高田衛校注・訳
春雨物語 / [上田秋成著] ; 中村博保校注・訳
◆「日本思想体系36―荻生徂徠―」吉川幸次郎著(岩波書店、1973年)
◆「日本古典文学大系94―近世文学論集」(岩波書店、1966年)
徂徠先生答問書(抄) / [荻生徂徠著] ; 中村幸彦校・注
◆「明和九年刊書籍目録所載「奇談」書の研究 」 飯倉洋一ほか著
(大阪大学文学部研究課、2002年)
「西遊記とかが好きだから…」って理由で、ここまで調べちゃいました♪こんな面白くも無い論文を最後まで読んでくださった方なんて、果たして何人いなさるのでしょうか??とりあえず、有り難う御座いました♪
狂詩狂歌[古典文学]
投稿日時:2014/05/09(金) 09:23
狂詩狂歌
人に滑稽趣味の必要なのは、一日のうちに欠伸《あくぴ》の必要なるがごとく必要である。傍
目《わきめ》も振らず勤労を続けた後、開口一番天を仰いで欠伸一両度、すなわち退屈の神疲労
の魔も、たちまちにして逃げ失せて行く。かくも欠伸は元気回復の良法であって、ま
た人間の健康上自然の調節である。滑稽趣味がちょうどそれで、人生自然の調節であ
り、人間元気の源泉である。で、その滑稽趣味が文芸化したものが、我に在りてはす
なわち狂詩狂歌および戯文ではあるまいか。
蜀山人《しよくさんじん》はたれにでも知られておるが、銅脈先生はさほど一般に知られておらぬ。
それは前者が狂歌と狂詩の両道に秀でた、言はば上戸にして下戸を兼ね得た猛者であ
ったに反して、銅脈先生が専ら狂詩の大家たるに止まるの所以《ゆえ》に因るかも知れぬ。し
かし天明ごろの狂詩壇では、蜀山と銅脈とは止しく東西の両大関で、江戸の蜀山人の
狂詩に対立し得る者は、当時独り京都の銅脈先生畠中観斎があったのみだ。特に狂詩
の方は、あるいは江戸よりも上方の方が、優っていたのではなかろうかと私は思う。
すなわち狂歌は江戸において発達し、狂詩は上方において一時繁昌を見たのではなか
ろうか。すなわち左の三句のごときは、対句の妙を得たるものとして有名である。
「八坂五重塔、三条六角堂」
「小僧参…北野→大仏在南都ご
「桜東山地主、梅北野天神」
そのいずれもが、京畿地方を謡ったものであるに見ても、上方における盛況の一斑
が窺える。
狂歌に至っては江戸の粋といってよかろうし、いわゆる文政風に比して天明風の風
格の高いのが、真に天下一品の観がある。時代は違うが上方の鯛屋風などは、見劣り
がするように感ぜられる。『千紫万紅』『万紅千紫』の中に、狂歌狂詩文の相交って、
珠玉を連ねた趣のあるのを見ると、蜀山こそは古今独歩だ。「ほととぎすなきつる片
身初がつお春と夏との入相の鐘」辞世すらこれほどである。
しかし狂詩に至っては平灰《ひようそく》こそシナ伝来であるが、用字の上においては音訓併用、
特にその併用上に一種の面白味を存しておる点は、明らかに我国特有のものと誇り得
るであろう。「頻食餅菓子又東《ひんしよくすもちがしまたひがし》」と干菓子に利かしたところなどがそれである。私
は少しばかり狂詩に関する古本を蒐めておるが、銅脈先生の『太平遺響』『太平楽府』
などはいささか珍たるを失わぬ。その他愚仏先生の『太平詩集』というのもあるが、
昨今庶民詩、市民詩などいう言葉が流行《はや》るところからすると、狂詩を太平詩と呼ぶも
また一興であろう。寛政ごろに至って同好の間に編まれたものに、寝惚《ねぽけ》銅脈東西二大
家の贈答狂詩集がある。寝惚先生から「聖護院辺君已聖、牛籠門前我如牛」と言って
やると、銅脈先生から「応生祠古祇園外、物沢楼高江戸中」と酬《むく》いるという風であっ
た。物沢楼《ぶつたくろう》は言うまでもない蜀山の阿房宮である。そこでこの東西の両先生はとうと
う会う機会がなく、蜀山門下の問屋酒船《といやのさかふね》、腹唐秋人《はらからのあきうど》両人が五十三次を股にかけて、
京へ上って銅脈先生と相見た。かくて天明東西の二大家が、奇才を韻字に訴えて、相
応酬したさまがよく看取される。「暮春十日書、卯月五日届」という句があるところ
から見ても、数篇の応酬に数旬を要したのであろう。一生に一度ぐらいは、寝惚気分
になって見たいものである。
人に滑稽趣味の必要なのは、一日のうちに欠伸《あくぴ》の必要なるがごとく必要である。傍
目《わきめ》も振らず勤労を続けた後、開口一番天を仰いで欠伸一両度、すなわち退屈の神疲労
の魔も、たちまちにして逃げ失せて行く。かくも欠伸は元気回復の良法であって、ま
た人間の健康上自然の調節である。滑稽趣味がちょうどそれで、人生自然の調節であ
り、人間元気の源泉である。で、その滑稽趣味が文芸化したものが、我に在りてはす
なわち狂詩狂歌および戯文ではあるまいか。
蜀山人《しよくさんじん》はたれにでも知られておるが、銅脈先生はさほど一般に知られておらぬ。
それは前者が狂歌と狂詩の両道に秀でた、言はば上戸にして下戸を兼ね得た猛者であ
ったに反して、銅脈先生が専ら狂詩の大家たるに止まるの所以《ゆえ》に因るかも知れぬ。し
かし天明ごろの狂詩壇では、蜀山と銅脈とは止しく東西の両大関で、江戸の蜀山人の
狂詩に対立し得る者は、当時独り京都の銅脈先生畠中観斎があったのみだ。特に狂詩
の方は、あるいは江戸よりも上方の方が、優っていたのではなかろうかと私は思う。
すなわち狂歌は江戸において発達し、狂詩は上方において一時繁昌を見たのではなか
ろうか。すなわち左の三句のごときは、対句の妙を得たるものとして有名である。
「八坂五重塔、三条六角堂」
「小僧参…北野→大仏在南都ご
「桜東山地主、梅北野天神」
そのいずれもが、京畿地方を謡ったものであるに見ても、上方における盛況の一斑
が窺える。
狂歌に至っては江戸の粋といってよかろうし、いわゆる文政風に比して天明風の風
格の高いのが、真に天下一品の観がある。時代は違うが上方の鯛屋風などは、見劣り
がするように感ぜられる。『千紫万紅』『万紅千紫』の中に、狂歌狂詩文の相交って、
珠玉を連ねた趣のあるのを見ると、蜀山こそは古今独歩だ。「ほととぎすなきつる片
身初がつお春と夏との入相の鐘」辞世すらこれほどである。
しかし狂詩に至っては平灰《ひようそく》こそシナ伝来であるが、用字の上においては音訓併用、
特にその併用上に一種の面白味を存しておる点は、明らかに我国特有のものと誇り得
るであろう。「頻食餅菓子又東《ひんしよくすもちがしまたひがし》」と干菓子に利かしたところなどがそれである。私
は少しばかり狂詩に関する古本を蒐めておるが、銅脈先生の『太平遺響』『太平楽府』
などはいささか珍たるを失わぬ。その他愚仏先生の『太平詩集』というのもあるが、
昨今庶民詩、市民詩などいう言葉が流行《はや》るところからすると、狂詩を太平詩と呼ぶも
また一興であろう。寛政ごろに至って同好の間に編まれたものに、寝惚《ねぽけ》銅脈東西二大
家の贈答狂詩集がある。寝惚先生から「聖護院辺君已聖、牛籠門前我如牛」と言って
やると、銅脈先生から「応生祠古祇園外、物沢楼高江戸中」と酬《むく》いるという風であっ
た。物沢楼《ぶつたくろう》は言うまでもない蜀山の阿房宮である。そこでこの東西の両先生はとうと
う会う機会がなく、蜀山門下の問屋酒船《といやのさかふね》、腹唐秋人《はらからのあきうど》両人が五十三次を股にかけて、
京へ上って銅脈先生と相見た。かくて天明東西の二大家が、奇才を韻字に訴えて、相
応酬したさまがよく看取される。「暮春十日書、卯月五日届」という句があるところ
から見ても、数篇の応酬に数旬を要したのであろう。一生に一度ぐらいは、寝惚気分
になって見たいものである。
『太平楽府他 江戸狂詩の世界』[古典文学]
投稿日時:2014/05/09(金) 09:13
『太平楽府他 江戸狂詩の世界』(日野龍夫・高橋圭一編)
2011/04/28
これぞ最高レベルの笑い? 自身の教養が
試される、江戸時代の狂詩ワールド。
日頃、冗談がすべりまくっている私は、「周囲の笑いのレベルが合わないんだ」と言い訳にもならぬ愚痴をこぼしているのだが、冗談でなく実際、「笑いのレベル」というものはあるんじゃないか、というのが今回の話。
映画で泣く。卒業式で泣く。……と「涙」はとかく共感しやすいのだが、「笑い」はそうじゃない。単純な笑いを別として、一般に「笑い」を支えているのは、「共通の教養」だ。例えば、パロディが成立するには、その大本を皆が知っていることが前提となる。
江戸の文化が、後世になっても評価され続けるのは、この「笑いの教養」レベルが高いからではないだろうか。滑稽本に洒落本しかり。どの新聞も欄を設ける「川柳」も、江戸時代に興ったものだ。その中でも「おぬし、やるなぁ」と私が唸ってしまうのが、「狂詩」である。何せこちらは、漢詩が母体だ。韻を踏んだり何だりと制約は極めて多く、かつ漢詩に親しんでいなければ、パロディにすらならない。
「狂詩」がメジャーになったのは、1767(明和4)年、江戸で寝惚先生(大田南畝)の『寝惚先生文集』が出たことによる。2年後には京都で銅脈先生(畠中観斎)が『太平楽府(たいへいがふ)』を刊行し、この両名は、〈天明・寛政期(1781~1801)まで東西の両大家として活動した〉(ジャパンナレッジ「ニッポニカ」)という。驚くべきは、この2人、当時まだ10代だった! 漢文という当時の公式文体を使って、「笑い」を持ち込む。いやはや恐るべき10代だ。
ではどんな調子なのか。銅脈先生「太平楽府」より。
〈弘法も筆の謬(あやま)り 猿も樹から落つ
吾も娼婦(おやま)に投(はま)って 多く銭(ぜに)を棄てたり
頭(こうべ)を回(めぐ)らせば 家財 残る物無し
今更籌(かぞ)え難し 死んだ子の年〉
「死んだ子の年を数える」とは諺で、取り返しのつかないことを未練たらしく振り返るという意味。この詩は「太平楽府」の締めくくりの作品で、当時、18歳の銅脈先生は、わが人生失敗だらけ、と自らを笑い飛ばしたのだ。
江戸時代に隆盛を極めた「詩」のパロディだが、狂歌(和歌)、狂詩(漢詩)、川柳(俳句)の中で、結局残ったのは川柳だけ。前二者は、作り手にとっては教養のハードルが高すぎたのか。実際、半可山人『半可山人詩鈔』や穴八先生『太平新書』も収められている狂詩集『太平楽府他』の質の高さに、正直、打ちのめされましたよ。
「笑い」を生み出すのはかくも難しい。仕方ない、皆からそのアホさを笑われるだけで、ヨシとしますか。
2011/04/28
これぞ最高レベルの笑い? 自身の教養が
試される、江戸時代の狂詩ワールド。
日頃、冗談がすべりまくっている私は、「周囲の笑いのレベルが合わないんだ」と言い訳にもならぬ愚痴をこぼしているのだが、冗談でなく実際、「笑いのレベル」というものはあるんじゃないか、というのが今回の話。
映画で泣く。卒業式で泣く。……と「涙」はとかく共感しやすいのだが、「笑い」はそうじゃない。単純な笑いを別として、一般に「笑い」を支えているのは、「共通の教養」だ。例えば、パロディが成立するには、その大本を皆が知っていることが前提となる。
江戸の文化が、後世になっても評価され続けるのは、この「笑いの教養」レベルが高いからではないだろうか。滑稽本に洒落本しかり。どの新聞も欄を設ける「川柳」も、江戸時代に興ったものだ。その中でも「おぬし、やるなぁ」と私が唸ってしまうのが、「狂詩」である。何せこちらは、漢詩が母体だ。韻を踏んだり何だりと制約は極めて多く、かつ漢詩に親しんでいなければ、パロディにすらならない。
「狂詩」がメジャーになったのは、1767(明和4)年、江戸で寝惚先生(大田南畝)の『寝惚先生文集』が出たことによる。2年後には京都で銅脈先生(畠中観斎)が『太平楽府(たいへいがふ)』を刊行し、この両名は、〈天明・寛政期(1781~1801)まで東西の両大家として活動した〉(ジャパンナレッジ「ニッポニカ」)という。驚くべきは、この2人、当時まだ10代だった! 漢文という当時の公式文体を使って、「笑い」を持ち込む。いやはや恐るべき10代だ。
ではどんな調子なのか。銅脈先生「太平楽府」より。
〈弘法も筆の謬(あやま)り 猿も樹から落つ
吾も娼婦(おやま)に投(はま)って 多く銭(ぜに)を棄てたり
頭(こうべ)を回(めぐ)らせば 家財 残る物無し
今更籌(かぞ)え難し 死んだ子の年〉
「死んだ子の年を数える」とは諺で、取り返しのつかないことを未練たらしく振り返るという意味。この詩は「太平楽府」の締めくくりの作品で、当時、18歳の銅脈先生は、わが人生失敗だらけ、と自らを笑い飛ばしたのだ。
江戸時代に隆盛を極めた「詩」のパロディだが、狂歌(和歌)、狂詩(漢詩)、川柳(俳句)の中で、結局残ったのは川柳だけ。前二者は、作り手にとっては教養のハードルが高すぎたのか。実際、半可山人『半可山人詩鈔』や穴八先生『太平新書』も収められている狂詩集『太平楽府他』の質の高さに、正直、打ちのめされましたよ。
「笑い」を生み出すのはかくも難しい。仕方ない、皆からそのアホさを笑われるだけで、ヨシとしますか。
関宿 銅脈先生[古典文学]
投稿日時:2014/05/09(金) 09:09
東海道の昔の話(24)
関宿の旅人模様 愛知厚顔 元会社員 2003/9/28投稿
関の宿場町は江戸期に最盛期をむかえた。
この町は東海道五十三次の中でも五本の指にはいる宿場として、参勤交代の殿様、伊勢参りの旅人,江戸と京阪神を行き来する商人、学僧などで物凄く繁盛した。記録では東と西のわずか半里(1,8km)の間に本陣、脇本陣が四軒、旅篭四十二、飲食店が九十九軒もあった。
いまこの町では熱心に町並み保存が図られている。往還を歩いてみると、電柱やTVアンテナの整理がすすみ、二階の壁面に虫籠窓のある家、ベンガラを塗装した見事な格子、馬をつないだ環金具が残る柱など、いずれも古い宿場町の名残を宿し、非常に貴重な建物群に、いまさらのように驚くのである。
広重の「関本陣早立の図」
通りの途中に川北本陣、伊藤本陣、西尾脇本陣がある。
歌川広重の描く「関本陣早立の図」は川北本陣がモデルだといわれるが、朝早く出立しようとしている慌しい様子がうかがえる。
浅井了意は「東海道名所図会」の中で
『馬士(うまかた)の挑み合ふは常にして、静かなる
を変態とす。かたわらに終日(ひねもす)労する馬は、
これを聞きながら眠りけるもまたおかし…』
馬引き人夫たちが大声で言い争っているのはいつものこと、静かなのはかえって変だ。その争いのそばでは馬は悠々と居眠りをしている。騒がしく賑わってている往還の情景がよくわかる。
この賑わいは享和三年(1803)には、百軒ちかくもの店が増えて軒を連ねた。飯盛女や宿女もだんだんと増え、遊女屋も賑わってくる。
幕府はなんども禁止令を出して、華奢遊戯の類を取り締まったようだが、実際はあまり効果が上がらなかった。
”関は千軒、女郎屋は估券、女郎屋なくては関たたん”
〔はやり歌〕
関の宿場は多くの家並みがあり、遊郭は繁盛していて倒産なし、 この遊郭がなかったら関の宿場は成り立たない。
この唄が本当の実態だったのかも知れない。 ウソか本当か、最盛期には客相手の商売女が二千人もいたという。
このころを詠まれた狂詩がある。
関宿 銅脈先生(畠中観斎)
関に泊まりて招嫖(オジャレ)を買う
地蔵も及ばず招嫖のよそほひ
買はんと欲して相談約束成る
寝るところ布団わずかに一枚
昨夜の幻妻いま見れば
目玉飛び出て頬、蟹のごとし
「おじゃれ」とは遊女のこと、化粧した遊女、夜の薄明かりではまるで関の地蔵様のような美女に見えた。薄い布団一枚で一夜を共にしたあと、朝になってよくよく見ると、目玉が飛び出て頬はまるで蟹のようだ。よくもまあ詠んだものである。
鈴鹿馬子唄に出てくる関の小万。彼女は仇討ちの列女なのだが、遊女だった別の小万も唄に出てくる。さらに近松門左衛門の浄瑠璃〔丹波与作待夜の小室節〕にも遊女小万が登場する。
与作思えば照る日も曇る
関の小万の涙雨
馬はいんだにお主は見えぬ
関の小万がとめたやら
とにかく彼女たちの猛烈な客引きと、商売熱心さには旅人もうんざりしただろう。
泊まれとて人を導くたはれ女の
笑みこそ関の地蔵顔なれ 吾吟我集
関寺の門前見ればいまとても
わら屋を立てて小町ありけり 石田未徳
関守る廓に空音の四つも打ち 柳多留
小万を寝せて実盛の物がたり 柳多留
『ほどなく関の地蔵に着く、この宿のならひとて、顔白くこ
しらへ、まことの地蔵顔したる女どもの錫杖にあらで、
杓子と云う物を手ごとに打ちふって
「旅人とまり給へ、とまり給へ、労扶むく
日の暮れぬ、これより先に里はなし、通すまじ」
と、声ごえに云ふ。
梓弓はるばる来ぬる旅人を
ここにて関の地蔵顔する 』
「元和元年(1615)東海紀行」より。
もう日暮れが近い。ここから先には泊まるところもないよ…、女たちは道に立ちふさがり、杓子を叩いて強引に客引きをしている。
また夫婦だけで営む小さな宿では、つぎのような情景がくり広げられた。
〔狂歌旅枕〕天和二年(1682)刊行の書物に出ている話。
『関に泊まり朝出立しようとしたところ、雨が降り出した
ので宿を出るのを躊躇して
今日の関せき止め給う石地蔵
いざ貸したまえ伊勢菅笠を
馬の刻より雨止ましまま出ん
馬の刻とは正午のこと、この句を聞くと宿の主人はむっと
した様子をしたので
雨止むにそなたが行こう追いやるは
天と地とほどに近いとぞ思う
と詠み直したところ、何と思ったのか彼は機嫌を直して作
り笑いをした。そこでまた一句
にこにこと笑い給うは所なる
お地蔵顔とて人も誉めなん 』
この人は結局雨が止むのを待って出立したので、かなり遅くなりつぎの坂下宿でも宿泊することになった。
『日が暮れて坂ノ下で泊まったところ、主人夫婦が二人で
接待してくれ、ご馳走や酒の相手をしてくれた。この夫婦
は共に酒をよく飲んだ。そこで
酒ふりの同じようなる夫婦おば
いとこにとこそ人は云うめれ
と詠んだ。この主人夫婦はまったく酒豪、あまりにもよく飲むので
坂ひがし北も南も見たけれど
かか(女房)ほど酒を飲む者はなし
と云ってやったところ、笑いながら女房が衣を脱ぐ。
取り外す かかの部屋こそ音高し
匂えば とと(亭主)は顔わきにする
夜が明けて出立しようとすると、女房が出てきて
「夕べのことが恥ずかしい」
と云うので
昔よりいまの世までも世話に言う
出もの腫れものところ嫌わず 』
じつにゆったりとした旅を楽しんでいる様子がよくわかる。昔の町並みが復活した関の町
いまの時間に追われて急ぐ旅のなんと空しいことだろうか。
昔の旅が実にうらやましく感じられる。そしてこの旅人の豊かな頓智と詩想は驚くばかりである。
参考文献 「狂歌旅枕」「俳諧五十三次」「東海紀行」
「東海道名所図会」
関宿の旅人模様 愛知厚顔 元会社員 2003/9/28投稿
関の宿場町は江戸期に最盛期をむかえた。
この町は東海道五十三次の中でも五本の指にはいる宿場として、参勤交代の殿様、伊勢参りの旅人,江戸と京阪神を行き来する商人、学僧などで物凄く繁盛した。記録では東と西のわずか半里(1,8km)の間に本陣、脇本陣が四軒、旅篭四十二、飲食店が九十九軒もあった。
いまこの町では熱心に町並み保存が図られている。往還を歩いてみると、電柱やTVアンテナの整理がすすみ、二階の壁面に虫籠窓のある家、ベンガラを塗装した見事な格子、馬をつないだ環金具が残る柱など、いずれも古い宿場町の名残を宿し、非常に貴重な建物群に、いまさらのように驚くのである。
広重の「関本陣早立の図」
通りの途中に川北本陣、伊藤本陣、西尾脇本陣がある。
歌川広重の描く「関本陣早立の図」は川北本陣がモデルだといわれるが、朝早く出立しようとしている慌しい様子がうかがえる。
浅井了意は「東海道名所図会」の中で
『馬士(うまかた)の挑み合ふは常にして、静かなる
を変態とす。かたわらに終日(ひねもす)労する馬は、
これを聞きながら眠りけるもまたおかし…』
馬引き人夫たちが大声で言い争っているのはいつものこと、静かなのはかえって変だ。その争いのそばでは馬は悠々と居眠りをしている。騒がしく賑わってている往還の情景がよくわかる。
この賑わいは享和三年(1803)には、百軒ちかくもの店が増えて軒を連ねた。飯盛女や宿女もだんだんと増え、遊女屋も賑わってくる。
幕府はなんども禁止令を出して、華奢遊戯の類を取り締まったようだが、実際はあまり効果が上がらなかった。
”関は千軒、女郎屋は估券、女郎屋なくては関たたん”
〔はやり歌〕
関の宿場は多くの家並みがあり、遊郭は繁盛していて倒産なし、 この遊郭がなかったら関の宿場は成り立たない。
この唄が本当の実態だったのかも知れない。 ウソか本当か、最盛期には客相手の商売女が二千人もいたという。
このころを詠まれた狂詩がある。
関宿 銅脈先生(畠中観斎)
関に泊まりて招嫖(オジャレ)を買う
地蔵も及ばず招嫖のよそほひ
買はんと欲して相談約束成る
寝るところ布団わずかに一枚
昨夜の幻妻いま見れば
目玉飛び出て頬、蟹のごとし
「おじゃれ」とは遊女のこと、化粧した遊女、夜の薄明かりではまるで関の地蔵様のような美女に見えた。薄い布団一枚で一夜を共にしたあと、朝になってよくよく見ると、目玉が飛び出て頬はまるで蟹のようだ。よくもまあ詠んだものである。
鈴鹿馬子唄に出てくる関の小万。彼女は仇討ちの列女なのだが、遊女だった別の小万も唄に出てくる。さらに近松門左衛門の浄瑠璃〔丹波与作待夜の小室節〕にも遊女小万が登場する。
与作思えば照る日も曇る
関の小万の涙雨
馬はいんだにお主は見えぬ
関の小万がとめたやら
とにかく彼女たちの猛烈な客引きと、商売熱心さには旅人もうんざりしただろう。
泊まれとて人を導くたはれ女の
笑みこそ関の地蔵顔なれ 吾吟我集
関寺の門前見ればいまとても
わら屋を立てて小町ありけり 石田未徳
関守る廓に空音の四つも打ち 柳多留
小万を寝せて実盛の物がたり 柳多留
『ほどなく関の地蔵に着く、この宿のならひとて、顔白くこ
しらへ、まことの地蔵顔したる女どもの錫杖にあらで、
杓子と云う物を手ごとに打ちふって
「旅人とまり給へ、とまり給へ、労扶むく
日の暮れぬ、これより先に里はなし、通すまじ」
と、声ごえに云ふ。
梓弓はるばる来ぬる旅人を
ここにて関の地蔵顔する 』
「元和元年(1615)東海紀行」より。
もう日暮れが近い。ここから先には泊まるところもないよ…、女たちは道に立ちふさがり、杓子を叩いて強引に客引きをしている。
また夫婦だけで営む小さな宿では、つぎのような情景がくり広げられた。
〔狂歌旅枕〕天和二年(1682)刊行の書物に出ている話。
『関に泊まり朝出立しようとしたところ、雨が降り出した
ので宿を出るのを躊躇して
今日の関せき止め給う石地蔵
いざ貸したまえ伊勢菅笠を
馬の刻より雨止ましまま出ん
馬の刻とは正午のこと、この句を聞くと宿の主人はむっと
した様子をしたので
雨止むにそなたが行こう追いやるは
天と地とほどに近いとぞ思う
と詠み直したところ、何と思ったのか彼は機嫌を直して作
り笑いをした。そこでまた一句
にこにこと笑い給うは所なる
お地蔵顔とて人も誉めなん 』
この人は結局雨が止むのを待って出立したので、かなり遅くなりつぎの坂下宿でも宿泊することになった。
『日が暮れて坂ノ下で泊まったところ、主人夫婦が二人で
接待してくれ、ご馳走や酒の相手をしてくれた。この夫婦
は共に酒をよく飲んだ。そこで
酒ふりの同じようなる夫婦おば
いとこにとこそ人は云うめれ
と詠んだ。この主人夫婦はまったく酒豪、あまりにもよく飲むので
坂ひがし北も南も見たけれど
かか(女房)ほど酒を飲む者はなし
と云ってやったところ、笑いながら女房が衣を脱ぐ。
取り外す かかの部屋こそ音高し
匂えば とと(亭主)は顔わきにする
夜が明けて出立しようとすると、女房が出てきて
「夕べのことが恥ずかしい」
と云うので
昔よりいまの世までも世話に言う
出もの腫れものところ嫌わず 』
じつにゆったりとした旅を楽しんでいる様子がよくわかる。昔の町並みが復活した関の町
いまの時間に追われて急ぐ旅のなんと空しいことだろうか。
昔の旅が実にうらやましく感じられる。そしてこの旅人の豊かな頓智と詩想は驚くばかりである。
参考文献 「狂歌旅枕」「俳諧五十三次」「東海紀行」
「東海道名所図会」
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