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古典文学

狂詩狂歌

投稿日時:2014/05/09(金) 09:23

狂詩狂歌

 人に滑稽趣味の必要なのは、一日のうちに欠伸《あくぴ》の必要なるがごとく必要である。傍
目《わきめ》も振らず勤労を続けた後、開口一番天を仰いで欠伸一両度、すなわち退屈の神疲労
の魔も、たちまちにして逃げ失せて行く。かくも欠伸は元気回復の良法であって、ま
た人間の健康上自然の調節である。滑稽趣味がちょうどそれで、人生自然の調節であ
り、人間元気の源泉である。で、その滑稽趣味が文芸化したものが、我に在りてはす
なわち狂詩狂歌および戯文ではあるまいか。
 蜀山人《しよくさんじん》はたれにでも知られておるが、銅脈先生はさほど一般に知られておらぬ。
それは前者が狂歌と狂詩の両道に秀でた、言はば上戸にして下戸を兼ね得た猛者であ
ったに反して、銅脈先生が専ら狂詩の大家たるに止まるの所以《ゆえ》に因るかも知れぬ。し
かし天明ごろの狂詩壇では、蜀山と銅脈とは止しく東西の両大関で、江戸の蜀山人の
狂詩に対立し得る者は、当時独り京都の銅脈先生畠中観斎があったのみだ。特に狂詩
の方は、あるいは江戸よりも上方の方が、優っていたのではなかろうかと私は思う。
すなわち狂歌は江戸において発達し、狂詩は上方において一時繁昌を見たのではなか
ろうか。すなわち左の三句のごときは、対句の妙を得たるものとして有名である。
  「八坂五重塔、三条六角堂」
  「小僧参…北野→大仏在南都ご
  「桜東山地主、梅北野天神」
 そのいずれもが、京畿地方を謡ったものであるに見ても、上方における盛況の一斑
が窺える。
 狂歌に至っては江戸の粋といってよかろうし、いわゆる文政風に比して天明風の風
格の高いのが、真に天下一品の観がある。時代は違うが上方の鯛屋風などは、見劣り
がするように感ぜられる。『千紫万紅』『万紅千紫』の中に、狂歌狂詩文の相交って、
珠玉を連ねた趣のあるのを見ると、蜀山こそは古今独歩だ。「ほととぎすなきつる片
身初がつお春と夏との入相の鐘」辞世すらこれほどである。
 しかし狂詩に至っては平灰《ひようそく》こそシナ伝来であるが、用字の上においては音訓併用、
特にその併用上に一種の面白味を存しておる点は、明らかに我国特有のものと誇り得
るであろう。「頻食餅菓子又東《ひんしよくすもちがしまたひがし》」と干菓子に利かしたところなどがそれである。私
は少しばかり狂詩に関する古本を蒐めておるが、銅脈先生の『太平遺響』『太平楽府』
などはいささか珍たるを失わぬ。その他愚仏先生の『太平詩集』というのもあるが、
昨今庶民詩、市民詩などいう言葉が流行《はや》るところからすると、狂詩を太平詩と呼ぶも
また一興であろう。寛政ごろに至って同好の間に編まれたものに、寝惚《ねぽけ》銅脈東西二大
家の贈答狂詩集がある。寝惚先生から「聖護院辺君已聖、牛籠門前我如牛」と言って
やると、銅脈先生から「応生祠古祇園外、物沢楼高江戸中」と酬《むく》いるという風であっ
た。物沢楼《ぶつたくろう》は言うまでもない蜀山の阿房宮である。そこでこの東西の両先生はとうと
う会う機会がなく、蜀山門下の問屋酒船《といやのさかふね》、腹唐秋人《はらからのあきうど》両人が五十三次を股にかけて、
京へ上って銅脈先生と相見た。かくて天明東西の二大家が、奇才を韻字に訴えて、相
応酬したさまがよく看取される。「暮春十日書、卯月五日届」という句があるところ
から見ても、数篇の応酬に数旬を要したのであろう。一生に一度ぐらいは、寝惚気分
になって見たいものである。
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