古典文学
芥川 竜之介『老いたる素戔嗚尊』青空文庫から [古典文学]
投稿日時:2014/06/03(火) 06:41
老いたる素戔嗚尊
芥川龍之介
一
足名椎は彼等夫婦の為に、
彼は新しい妻と共に、静な朝夕を送り始めた。風の声も浪の
彼等は一しよに食事をしたり、未来の計画を話し合つたりした。時々は宮のまはりにある、柏の林に歩みを運んで、その小さな花房の地に落ちたのを踏みながら、夢のやうな小鳥の啼く声に、耳を傾ける事もあつた。彼は妻に優しかつた。声にも、身ぶりにも、眼の中にも、昔のやうな荒々しさは、二度と影さえも現さなかつた。
しかし稀に夢の中では、
間もなく彼等は父母になつた。彼はその生れた男の子に、
月日は川のやうに流れて行つた。
その間に彼は何人かの妻を
彼の名は子孫の殖えると共に、次第に遠くまで伝はつて行つた。国々の部落は彼のもとへ、続々と
或日彼はさう云ふ民の中に、高天原の国から来た三人の若者を発見した。彼等は皆当年の彼のやうな、筋骨の
彼等が宮を下る時、彼は一振の剣を取つて、
「これはおれが
若者たちはその剣を捧げて、彼の前に
彼はそれから独り海辺へ行つて、彼等を乗せた舟の帆が、だんだん荒い波の向うに、遠くなつて行くのを見送つた。帆は霧を破る日の光を受けて、丁度中空を行くやうに、たつた一つ閃いてゐた。
二
しかし死は素戔嗚夫婦をも
宮の中はその間、
やがて櫛名田姫の
「十一人!
其処は彼が流浪中に、最も風土の美しいのを愛した、四面海の無人島であつた。彼はこの島の南の小山に、
彼は既に髪の毛が、麻のやうな色に変つてゐた。が、老年もまだ彼の力を奪ひ去る事が出来ない事は、時々彼の眼に去来する、
彼は娘の須世理姫と共に、蜂や蛇を飼ひ馴らした。蜂は勿論蜜を取る為、蛇は
宮のまはりにある
三
或日素戔嗚が宮の前の、椋の木の下に坐りながら、大きな牡鹿の皮を
「御父様、この方に唯今御目にかかりましたから、此処まで
須世理姫はかう云つて、やつと身を起した素戔嗚に、遠い国の若者を引き合はせた。
若者は眉目の描いたやうな、肩幅の広い男であつた。それが赤や青の
素戔嗚は
「御前の名は何と云ふ?」と、
「
「どうしてこの島へやつて来た?」
「食物や水が欲しかつたものですから、わざわざ舟をつけたのです。」
若者は悪びれた顔もせずに、一々はつきり返事をした。
「さうか。ではあちらへ行つて、勝手に食事をするが好い。須世理姫、案内はお前に任せるから。」
二人が宮の中にはいつた時、素戔嗚は又椋の木かげに、器用に
鹿の皮を剥ぎ終つた彼が、宮の中へ帰つたのは、もう薄暗い時分であつた。彼は広い
「お前は今夜此処へ泊つて、舟旅の疲れを休めて行くが好い。」と、半ば命令的な言葉をかけた。
葦原醜男は彼の言葉に、嬉しさうな
「ではすぐにあちらへ行つて、遠慮なく横になつてくれい。須世理姫――」
素戔嗚は娘を振り返ると、突然
「この男を早速蜂の
須世理姫は一瞬間、色を失つたやうであつた。
「早くしないか!」
父親は彼女がためらふのを見ると、荒熊のやうに
「はい、ではあなた、どうかこちらへ。」
葦原醜男はもう一度、叮嚀に素戔嗚へ礼をすると、須世理姫の後を追つて、いそいそと大広間を出て行つた。
四
大広間の外へ出ると、須世理姫は肩にかけた
「蜂の室へ御はひりになつたら、これを三遍御振りなさいまし。さうすると蜂が刺しませんから。」
葦原醜男は何の事だか、相手の言葉がのみこめなかつた。が、問ひ返す暇もなく、須世理姫は小さな扉を開いて、室の中へ彼を案内した。
室の中はもうまつ暗であつた。葦原醜男は其処へはひると、手さぐりに彼女を捉へようとした。が、手は僅に彼女の髪へ、指の先が触れたばかりであつた。さうしてその次の瞬間には、
彼は
その薄明りに
彼は思はず身を
余りの事に度を失つた彼は、まだ蜂が足もとまで来ない内に、倉皇とそれを踏み殺さうとした。しかし蜂は其途端に、一層翅音を高くしながら、彼の頭上へ舞上つた。と同時に多くの蜂も、人のけはひに腹を立てたと見えて、まるで風を迎へた火矢のやうに、ばらばらと彼の上へ落ちかかつて来た。……
須世理姫は広間へ帰つて来ると、壁に差した
「確に蜂の室へ入れて来たらうな?」
素戔嗚は眼を娘の顔に注ぎながら、また
「私は御父様の御云ひつけに
須世理姫は父親の眼を避けて、広間の隅へ席を占めた。
「さうか? では勿論これからも、おれの云ひつけは背くまいな?」
素戔嗚のかう云ふ言葉の中には、皮肉な調子が交つてゐた。須世理姫は頸珠を気にしながら、背くとも背かないとも答へなかつた。
「黙つてゐるのは背く気か?」
「いいえ。――御父様はどうしてそんな――」
「背かない気ならば、云ひ渡す事がある。おれはお前があの若者の妻になる事を許さないぞ。素戔嗚の娘は素戔嗚の目がねにかなつた夫を持たねばならぬ。好いか? これだけの事を忘れるな。」
夜が既に
五
翌朝素戔嗚は
彼は素戔嗚の姿を見ると、愉快さうな微笑を浮べながら、
「御早うございます。」と、会釈をした。
「どうだな、
素戔嗚は岩角に
「ええ、御かげでよく眠られました。」
葦原醜男はかう答へながら、足もとに落ちてゐた岩のかけを拾つて、力一ぱい海の上へ抛り投げた。岩は長い弧線を描いて、雲の赤い空へ飛んで行つた。さうして素戔嗚が投げたにしても、届くまいと思はれる程、遠い沖の波の中に落ちた。
素戔嗚は唇を噛みながら、ぢつとその岩の行く方を見つめてゐた。
二人が海から帰つて来て、
「この宮が気に入つたら、何日でも泊つて行くが好い。」と云つた。
傍にゐた須世理姫は、この怪しい親切を辞せしむべく、そつと葦原醜男の方へ、意味ありげな
「
しかし幸ひ午後になると、素戔嗚が昼寝をしてゐる暇に、二人の恋人は宮を抜け出て
「今夜も此処に御泊りなすつては、あなたの御命が危うございます。私の事なぞは御かまひなく、一刻も早く御逃げ下さいまし。」と、心配さうに促し立てた。
しかし葦原醜男は笑ひながら、子供のやうに首を振つて見せた。
「あなたが此処にゐる間は、殺されても此処を去らない
「それでもあなたの御体に、万一の事でもあつた日には――」
「ではすぐにも私と一しよに、この島を逃げてくれますか?」
須世理姫はためらつた。
「さもなければ私は何時までも、此処にゐる覚悟をきめてゐます。」
葦原醜男はもう一度、無理に彼女を抱きよせようとした。が、彼女は彼を突きのけると急に海草の上から身を起して、
「御父様が呼んでゐます。」と、気づかはしさうな声を出した。さうして
後に残つた葦原醜男は、まだ微笑を浮べながら、須世理姫の姿を見送つた。と、彼女の寝てゐた所には、
六
その夜素戔嗚は人手を借らず、蜂の
室の中は昨日の通り、もう
葦原醜男は心の中に、この
彼は思はず腰に下げた剣の
室の扉は勿論開かなかつた。のみならずその後には、あの白髪の素戔嗚が、皮肉な微笑を浮べながら、ぢつと扉の向うの容子に耳を傾けてゐるらしかつた。葦原醜男は懸命に剣の柄を握りながら、暫時は眼ばかり動かせてゐた。その内に彼の足もとの大蛇は、
この時彼の心の中には、突然光がさしたやうな気がした。彼は昨夜室の蜂が、彼のまはりへ群がつて来た時、須世理姫に貰つた
翌朝素戔嗚は又石の多い海のほとりで、
「どうだな。
「ええ。御かげでよく眠られました。」
素戔嗚は顔中に不快さうな色を
「さうか。それはよかつた。ではこれからおれと一しよに、一泳ぎ水を浴びるが好い。」と隔意なささうな声をかけた。
二人はすぐに裸になつて、波の荒い明け方の海を、沖へ沖へと泳ぎ出した。素戔嗚は高天原の国にゐた時から、並ぶもののない泳ぎ手であつた。が、葦原醜男は彼にも増して、殆ど
七
海は絶えず
それが暫く続く内に、葦原醜男は少しづつ素戔嗚より先へ進み出した。素戔嗚は
「今度こそあの男を海に沈めて、邪魔を払はうと思つたのだが、――」
さう思ふと素戔嗚は、
「畜生! あんな悪賢い浮浪人は、
しかし程なく葦原醜男は、彼自身がまるで鰐のやうに、楽々とこちらへ返つて来た。
「もつと御泳ぎになりますか?」
彼は波に揺られながら、日頃に変らない微笑を浮べて、遙に素戔嗚へ声をかけた。素戔嗚は如何に剛情を張つても、この上泳がうと云ふ気にはなれなかつた。……
その日の午後素戔嗚は、更に葦原醜男をつれて、島の西に開いた
二人は荒野のはづれにある、小高い大岩の上へ登つた。荒野は目の及ぶ限り、二人の後から吹下す風に、枯草の波を
「風があつて都合が悪いが、
「ええ、比べて見ませう。」
葦原醜男は弓矢を執つても、自信のあるらしい容子であつた。
「好いか? 同時に射るのだぞ。」
二人は肩を並べながら、力一ぱい弓を引き
「勝負があつたか?」
「いいえ――もう一度やつて見ませうか?」
素戔嗚は眉をひそめながら、
「何度やつても同じ事だ。それより面倒でも一走り、おれの矢を探しに行つてくれい。あれは高天原の国から来た、おれの大事な
葦原醜男は云ひつかつた通り、風に鳴る荒野へ飛びこんで行つた。すると素戔嗚はその後姿が、高い枯草に隠れるや否や、腰に下げた袋の中から、手早く火打鎌と石とを出して、岩の下の
八
色のない焔は
「今度こそあの男を片づけたぞ。」
素戔嗚は高い岩の上に、ぢつと
火は
「今度こそあの男を片づけたぞ。」
素戔嗚はかう心の
その日の薄暮、勝ち誇つた彼は腕を組んで、宮の門に佇みながら、まだ煙の迷つてゐる荒野の空を眺めてゐた。すると其処へ須世理姫が、
素戔嗚はその姿を見ると、急に彼女の悲しさを踏みにじりたいやうな気がし出した。
「あの空を見ろ。葦原醜男は今時分――」
「存じて居ります。」
須世理姫は眼を伏せてゐたが、思ひの外はつきりと、父親の言葉を
「さうか? ではさぞかし悲しからうな?」
「悲しうございます。よしんば御父様が
素戔嗚は色を変へて、須世理姫を
「悲しければ、勝手に泣くが好い。」
彼は須世理姫に背を向けて、荒々しく門の内へはひつて行つた。さうして宮の
「何時ものおれなら口も利かずに、打ちのめしてやる所なのだが……」
須世理姫は彼の去つた後も、暫くは、暗く
その夜素戔嗚は何時までも、眠に就く事が出来なかつた。それは葦原醜男を殺した事が、何となく彼の心の底へ毒をさしたやうな気がするからであつた。
「おれは今までにもあの男を何度殺さうと思つたかわからない。しかしまだ今夜のやうに、妙な気のした事はないのだが……」
彼はこんな事を考へながら、青い匂のする菅畳の上に、幾度となく寝返りを打つた。眠はそれでも彼の上へ、容易に下らうとはしなかつた。
その間に寂しい暁は早くも暗い海の向うに、うすら寒い色を拡げ出した。
九
翌朝もう朝日の光が、海一ぱいに当つてゐる頃であつた。まだ寝の足りない素戔嗚は
二人も素戔嗚の姿を見ると、
「幸ひ矢も見つかりました。」と云つた。
素戔嗚はまだ驚きが止まなかつた。しかしその中にも何となく、無事な若者の顔を見るのが、
「よく怪我をしなかつたな?」
「ええ。全く偶然助かりました。あの火事が燃えて来たのは、丁度私がこの丹塗矢を拾ひ上げた時だつたのです。私は煙の中をくぐりながら、兎も角火のつかない方へ、一生懸命に逃げて行きましたが、いくらあせつて見た所が、到底西風に
葦原醜男はちよいと言葉を切つて、彼の話に聞き入つてゐる親子の顔へ微笑を送つた。
「そこでもう今度は焼け死ぬに違ひないと、覚悟をきめた時でした。走つてゐる内にどうしたはずみか、急に足もとの土が崩れると、大きな穴の中へ落ちこんだのです。穴の中は最初まつ暗でしたが、
「まあ、野鼠でよろしうございました。それが
須世理姫の眼の中には、涙と笑とが
「いや、野鼠でも
素戔嗚はこの話を聞いてゐる内に、だんだん又この幸運な若者を憎む心が動いて来た。のみならず、一度殺さうと思つた以上、どうしてもその目的を遂げない中は、昔から挫折した覚えのない意力の誇りが満足しなかつた。
「さうか。それは運が好かつたな。が、運と云ふものは、
葦原醜男と須世理姫とは、仕方なく彼の後について、朝日の光のさしこんでゐる、大広間の白い
素戔嗚は広間のまん中に、不機嫌らしい大あぐらを組むと、みづらに結んだ髪を解いて、無造作に床の上に垂らした。
「おれの虱はちと
かう云ふ彼の言葉を聞き流しながら、葦原醜男はその白髪を分けて、見つけ次第虱を
十
葦原醜男はためらつた。すると側にゐた須世理姫が、何時の間に忍ばせて持つて来たか、一握りの
その内に素戔嗚は、
……高天原の国を
「おれに何の罪があるか? おれは彼等よりも強かつた。が、強かつた事は罪ではない。罪は
彼はかう憤りながら、暫く苦しい歩みを続けて行つた。と、路を
彼は大きな眼を開いて、広間の中を見廻した。広間には唯朝日の光が、うららかにさしてゐるばかりで、葦原醜男も須世理姫も、どうしたか姿が見えなかつた。のみならずふと気がついて見ると、彼の長い髪は三つに分けて、天井の
「
宮のまはりの椋の林は、彼の足音に鳴りどよんだ。それは梢に巣食つた
林の外は切り岸の上、切り岸の下は海であつた。彼は其処に立ちはだかると、眉の上に手をやりながら、広い海を眺め渡した。海は高い浪の向うに、日輪さへかすかに
素戔嗚は
素戔嗚は天の鹿児弓に、しづしづと天の羽羽矢を
「おれはお前たちを
素戔嗚は高い切り岸の上から、遙かに二人をさし招いだ。
「おれよりももつと
素戔嗚はちよいとためらつた後、底力のある声に祝ぎ続けた。
「おれよりももつと仕合せになれ!」
彼の言葉は風と共に、海原の上へ響き渡つた。この時わが素戔嗚は、
(大正九年)
底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月17日公開
2004年2月18日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
ブログ最新記事
- 「訓読」論 : 東アジア漢文世界と日本語 (02/16 21:14)
- 関学2014秋期「日本文学特殊講義3」のシラバス (10/03 16:40)
- 芥川 竜之介 『竜』 青空文庫から (06/23 21:43)
- 芥川 竜之介『老いたる素戔嗚尊』青空文庫から (06/03 06:41)
- アダム・カバット著 柏書房 『妖怪草紙 くずし字入門』 (05/10 01:11)
- ーくずし字~美しい文明ーアダム・カバット先生 (05/10 01:01)
- お稽古「江戸の妖怪・化物」アダム・カバット (05/10 00:57)
- 『対談集 妖怪大談義』 (角川文庫) (05/10 00:42)
- 上田秋成 雨月物語 (05/09 10:01)
- 管説日本漢文學史略(明治以後) (05/09 09:49)
- 管説日本漢文學史略 (05/09 09:47)
- 「詩の日本語」 (大岡信) (05/09 09:45)
- 日本における中国白話小説の受容 (05/09 09:34)
- 狂詩狂歌 (05/09 09:23)
- 『太平楽府他 江戸狂詩の世界』 (05/09 09:13)
- 関宿 銅脈先生 (05/09 09:09)
- 漢詩にも狂詩というものがあり「寝惚先生文集」 (05/09 09:04)
- 狂詩集コレクション (05/09 08:53)
- 銅脈先生 (05/09 08:38)
- 江戸の漢詩 (05/09 08:26)
コメント