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古典文学

芥川 竜之介『老いたる素戔嗚尊』青空文庫から [古典文学]

投稿日時:2014/06/03(火) 06:41

老いたる素戔嗚尊

芥川龍之介

 

       一

 高志こし大蛇をろちを退治した素戔嗚すさのをは、櫛名田姫くしなだひめめとると同時に、足名椎あしなつちが治めてゐた部落のをさとなる事になつた。
 足名椎は彼等夫婦の為に、出雲いづもの須賀へ八広殿やひろどのを建てた。宮は千木ちぎ天雲あまぐもに隠れる程大きな建築であつた。
 彼は新しい妻と共に、静な朝夕を送り始めた。風の声も浪の水沫しぶきも、或は夜空の星の光も今はふたたび彼を誘つて、広漠とした太古の天地に、さまよはせる事は出来なくなつた。既に父とならうとしてゐた彼は、この宮の太い棟木むなぎの下に、――赤と白とに狩の図を描いた、彼の部屋の四壁の内に、高天原たかまがはらの国が与へなかつた炉辺の幸福を見出したのであつた。
 彼等は一しよに食事をしたり、未来の計画を話し合つたりした。時々は宮のまはりにある、柏の林に歩みを運んで、その小さな花房の地に落ちたのを踏みながら、夢のやうな小鳥の啼く声に、耳を傾ける事もあつた。彼は妻に優しかつた。声にも、身ぶりにも、眼の中にも、昔のやうな荒々しさは、二度と影さえも現さなかつた。
 しかし稀に夢の中では、暗黒くらやみうごめく怪物や、見えない手のふるつるぎの光が、もう一度彼を殺伐な争闘の心につれて行つた。が、何時も眼がさめると、彼はすぐ妻の事や部落の事を思ひ出す程、綺麗にその夢を忘れてゐた。
 間もなく彼等は父母になつた。彼はその生れた男の子に、八島士奴美やしまじぬみと云ふ名を与へた。八島士奴美は彼よりも、女親の櫛名田姫に似た、気立ての美しい男であつた。
 月日は川のやうに流れて行つた。
 その間に彼は何人かの妻をめとつて、更に多くの子の父になつた。それらの子は皆人となると、彼の命ずる儘に兵士を率ゐて、国々の部落を従へに行つた。
 彼の名は子孫の殖えると共に、次第に遠くまで伝はつて行つた。国々の部落は彼のもとへ、続々とみつぎを奉りに来た。それらの貢を運ぶ舟は、絹や毛革や玉と共に、須賀の宮を仰ぎに来る国々の民をも乗せてゐた。
 或日彼はさう云ふ民の中に、高天原の国から来た三人の若者を発見した。彼等は皆当年の彼のやうな、筋骨のたくましい男であつた。彼は彼等を宮に召して、手づから酒を飲ませてやつた。それは今まで何人なんぴとも、この勇猛な部落の長から、受けたことのない待遇であつた。若者たちも始めの内は、彼の意嚮いかうはかりかねて、多少の畏怖を抱いたらしかつた。しかし酒がまはり出すと、彼の所望する通り、みかの底を打ち鳴らして、高天原の国の歌を唱つた。
 彼等が宮を下る時、彼は一振の剣を取つて、
「これはおれが高志こし大蛇をろちを斬つた時、その尾の中にあつた剣だ。これをお前たちに預けるから、お前たちの故郷の女君をんなぎみに渡してくれい。」と云ひつけた。
 若者たちはその剣を捧げて、彼の前にひざまづきながら、死んでも彼の命令にそむかないと云ふ誓ひを立てた。
 彼はそれから独り海辺へ行つて、彼等を乗せた舟の帆が、だんだん荒い波の向うに、遠くなつて行くのを見送つた。帆は霧を破る日の光を受けて、丁度中空を行くやうに、たつた一つ閃いてゐた。

       二

 しかし死は素戔嗚夫婦をもゆるさなかつた。
 八島士奴美やしまじぬみがおとなしい若者になつた時、櫛名田姫はふと病にかかつて、一月ばかりの後に命をおとした。何人か妻があつたとは云へ、彼が彼自身のやうに愛してゐたのは、やはり彼女一人だけであつた。だから彼は喪屋もやが出来ると、まだ美しい妻の死骸の前に、七日七晩坐つた儘、黙然もくねんと涙を流してゐた。
 宮の中はその間、慟哭どうこくの声に溢れてゐた。殊に幼い須世理姫すせりひめが、しつきりなく歎き悲しむ声には、宮の外を通るものさえ、涙を落さずにはゐられなかつた。彼女は――この八島士奴美のたつた一人の妹は、兄が母に似てゐる通り、情熱の烈しい父に似た、男まさりの娘であつた。
 やがて櫛名田姫のがらは、生前彼女が用ひてゐた、玉や鏡や衣服と共に、須賀の宮から遠くない、小山の腹に埋められた。が、素戔嗚はその上に、黄泉路よみぢの彼女を慰むべく、今まで妻に仕へてゐた十一人の女たちをも、埋め殺す事を忘れなかつた。女たちは皆、装ひをらして、いそいそと死に急いで行つた。するとそれを見た部落の老人たちは、いづれも眉をひそめながら、ひそかに素戔嗚の暴挙を非難し合つた。
「十一人! みことは部落の旧習に全然無頓着で御出でなさる。第一のきさきが御なくなりなすつたのに、十一人しか黄泉よみの御供を御させ申さないと云ふ法があらうか? たつた皆で十一人!」
 はうむりが全く終つた後、素戔嗚は急に思ひ立つて、八島士奴美に世を譲つた。さうして彼自身は須世理姫と共に、遠い海の向うにある根堅洲国ねのがたすくにへ移り住んだ。
 其処は彼が流浪中に、最も風土の美しいのを愛した、四面海の無人島であつた。彼はこの島の南の小山に、茅葺かやぶきの宮を営ませて、安らかな余生を送る事にした。
 彼は既に髪の毛が、麻のやうな色に変つてゐた。が、老年もまだ彼の力を奪ひ去る事が出来ない事は、時々彼の眼に去来する、精悍せいかんな光にも明かであつた。いや、彼の顔はどうかすると、須賀の宮にゐた時より、更に野蛮な精彩を加へる事もないではなかつた。彼は彼自身気づかなかつたが、この島に移り住んで以来、今まで彼の中に眠つてゐた野性が、何時いつか又眼をさまして来たのであつた。
 彼は娘の須世理姫と共に、蜂や蛇を飼ひ馴らした。蜂は勿論蜜を取る為、蛇は征矢そややじりに塗るべき、劇烈な毒を得る為であつた。それから狩や漁の暇に、彼は彼の学んだ武芸や魔術を、一々須世理姫に教へ聞かせた。須世理姫はかう云ふ生活の中に、だんだん男にも負けないやうな、雄々しい女になつて行つた。しかし姿だけは依然として、櫛名田姫の面影を止めた、気高い美しさを失はなかつた。
 宮のまはりにあるむくの林は、何度となく芽を吹いて、何度となく又葉を落した。其度に彼はひげだらけの顔に、いよいよ皺の数を加へ、須世理姫は始終微笑ほほゑんだ瞳に、ますます涼しさを加へて行つた。

       三

 或日素戔嗚が宮の前の、椋の木の下に坐りながら、大きな牡鹿の皮をいでゐると、海へ水を浴びに行つた須世理姫が、見慣れない若者と一しよに帰つて来た。
「御父様、この方に唯今御目にかかりましたから、此処まで御伴おともして参りました。」
 須世理姫はかう云つて、やつと身を起した素戔嗚に、遠い国の若者を引き合はせた。
 若者は眉目の描いたやうな、肩幅の広い男であつた。それが赤や青の頸珠くびたまを飾つて、太い高麗剣こまつるぎいてゐる容子ようすは、殆ど年少時代そのものが目前に現れたやうに見えた。
 素戔嗚はうやうやしい若者の会釈ゑしやくを受けながら、
「御前の名は何と云ふ?」と、無躾ぶしつけな問をはふりつけた。
葦原醜男あしはらしこをと申します。」
「どうしてこの島へやつて来た?」
「食物や水が欲しかつたものですから、わざわざ舟をつけたのです。」
 若者は悪びれた顔もせずに、一々はつきり返事をした。
「さうか。ではあちらへ行つて、勝手に食事をするが好い。須世理姫、案内はお前に任せるから。」
 二人が宮の中にはいつた時、素戔嗚は又椋の木かげに、器用に刀子たうすを動かしながら、牡鹿の皮を剥ぎ始めた。が、彼の心は何時の間にか、妙な動揺を感じてゐた。それは丁度晴天の海に似た、今までの静な生活の空に、嵐を先触れる雲の影が、動かうとするやうな心もちであつた。
 鹿の皮を剥ぎ終つた彼が、宮の中へ帰つたのは、もう薄暗い時分であつた。彼は広い階段きざはしを上ると、何時もの通り何気なく、大広間の戸口に垂れてゐる、白いとばりを掲げて見た。すると須世理姫と葦原醜男とが、まるでねぐらを荒らされた、二羽のむつまじい小鳥のやうに、倉皇さうくわう菅畳すがだたみから身を起した。彼は苦い顔をしながら、のそのそ部屋の中へ歩を運んだが、やがて葦原醜男の顔へ、じろりと忌々いまいましさうな視線をやると、
「お前は今夜此処へ泊つて、舟旅の疲れを休めて行くが好い。」と、半ば命令的な言葉をかけた。
 葦原醜男は彼の言葉に、嬉しさうな会釈ゑしやくを返したが、それでもまだ何となく、間の悪げな気色けしきは隠せなかつた。
「ではすぐにあちらへ行つて、遠慮なく横になつてくれい。須世理姫――」
 素戔嗚は娘を振り返ると、突然あざけるやうな声を出した。
「この男を早速蜂のむろへつれて行つてやるが好い。」
 須世理姫は一瞬間、色を失つたやうであつた。
「早くしないか!」
 父親は彼女がためらふのを見ると、荒熊のやうにうなり出した。
「はい、ではあなた、どうかこちらへ。」
 葦原醜男はもう一度、叮嚀に素戔嗚へ礼をすると、須世理姫の後を追つて、いそいそと大広間を出て行つた。

       四

 大広間の外へ出ると、須世理姫は肩にかけた領巾ひれを取つて、葦原醜男の手に渡しながら囁くやうにかう云つた。
「蜂の室へ御はひりになつたら、これを三遍御振りなさいまし。さうすると蜂が刺しませんから。」
 葦原醜男は何の事だか、相手の言葉がのみこめなかつた。が、問ひ返す暇もなく、須世理姫は小さな扉を開いて、室の中へ彼を案内した。
 室の中はもうまつ暗であつた。葦原醜男は其処へはひると、手さぐりに彼女を捉へようとした。が、手は僅に彼女の髪へ、指の先が触れたばかりであつた。さうしてその次の瞬間には、あわただしく扉を閉ぢる音が聞えた。
 彼は領巾ひれをたまさぐりながら、茫然ばうぜんと室の中にたたずんでゐた。すると眼が慣れたせゐか、だんだんあたりが思つたより、薄明く見えるやうになつた。
 その薄明りにすかして見ると、室の天井からは幾つとなく、大樽程の蜂の巣が下つてゐた。しかもその又巣のまはりには、彼の腰に下げた高麗剣より、更に一かさ大きい蜂が、何匹も悠々と這ひまはつてゐた。
 彼は思はず身をひるがへして、扉の方へ飛んで行つた。が、いくらしても引いても、扉は開きさうな気色けしきさへなかつた。のみならずその時一匹の蜂は、斜に床の上へ舞ひ下ると、鈍い翅音はおとを起しながら、次第に彼の方へ這ひ寄つて来た。
 余りの事に度を失つた彼は、まだ蜂が足もとまで来ない内に、倉皇とそれを踏み殺さうとした。しかし蜂は其途端に、一層翅音を高くしながら、彼の頭上へ舞上つた。と同時に多くの蜂も、人のけはひに腹を立てたと見えて、まるで風を迎へた火矢のやうに、ばらばらと彼の上へ落ちかかつて来た。……
 須世理姫は広間へ帰つて来ると、壁に差した松明たいまつへ火をともした。火の光は赤々と、菅畳の上に寝ころんだ素戔嗚の姿を照らし出した。
「確に蜂の室へ入れて来たらうな?」
 素戔嗚は眼を娘の顔に注ぎながら、また忌々いまいましさうな声を出した。
「私は御父様の御云ひつけにそむいた事はございません。」
 須世理姫は父親の眼を避けて、広間の隅へ席を占めた。
「さうか? では勿論これからも、おれの云ひつけは背くまいな?」
 素戔嗚のかう云ふ言葉の中には、皮肉な調子が交つてゐた。須世理姫は頸珠を気にしながら、背くとも背かないとも答へなかつた。
「黙つてゐるのは背く気か?」
「いいえ。――御父様はどうしてそんな――」
「背かない気ならば、云ひ渡す事がある。おれはお前があの若者の妻になる事を許さないぞ。素戔嗚の娘は素戔嗚の目がねにかなつた夫を持たねばならぬ。好いか? これだけの事を忘れるな。」
 夜が既にけた後、素戔嗚はいびきをかいてゐたが、須世理姫は独り悄然せうぜんと、広間の窓にりかかりながら、赤い月が音もなく海に沈むのを見守つてゐた。

       五

 翌朝素戔嗚は何時いつもの通り、岩の多い海へ泳ぎに行つた。すると其処へ葦原醜男あしはらしこをが、意外にも彼の後を追つて、勢よく宮の方から下つて来た。
 彼は素戔嗚の姿を見ると、愉快さうな微笑を浮べながら、
「御早うございます。」と、会釈をした。
「どうだな、昨夕ゆうべはよく眠られたかな?」
 素戔嗚は岩角にたたずんだ儘、迂散うさんらしく相手の顔を見やつた。実際この元気の好い若者がどうして室の蜂に殺されなかつたか? それは全然彼自身の推測を超越してゐたのであつた。
「ええ、御かげでよく眠られました。」
 葦原醜男はかう答へながら、足もとに落ちてゐた岩のかけを拾つて、力一ぱい海の上へ抛り投げた。岩は長い弧線を描いて、雲の赤い空へ飛んで行つた。さうして素戔嗚が投げたにしても、届くまいと思はれる程、遠い沖の波の中に落ちた。
 素戔嗚は唇を噛みながら、ぢつとその岩の行く方を見つめてゐた。
 二人が海から帰つて来て、朝餉あさげの膳に向つた時、素戔嗚は苦い顔をして、鹿の片腿かたももかじりながら、彼と向ひ合つた葦原醜男に、
「この宮が気に入つたら、何日でも泊つて行くが好い。」と云つた。
 傍にゐた須世理姫は、この怪しい親切を辞せしむべく、そつと葦原醜男の方へ、意味ありげなまたたきを送つて見せた。が、彼は丁度その時、さらの魚に箸をつけてゐたせゐか、彼女の相図には気もつかずに、
難有ありがたうございます。ではもう二三日、御厄介になりませうか。」と、嬉しさうな返事をしてしまつた。
 しかし幸ひ午後になると、素戔嗚が昼寝をしてゐる暇に、二人の恋人は宮を抜け出て独木舟まるきぶねつないである、寂しい海辺の岩の間に、慌しい幸福をぬすむ事が出来た。須世理姫は香りの好い海草の上に横はりながら、暫くは唯夢のやうに、葦原醜男の顔を仰いでゐたが、やがて彼の腕を引き離すと、
「今夜も此処に御泊りなすつては、あなたの御命が危うございます。私の事なぞは御かまひなく、一刻も早く御逃げ下さいまし。」と、心配さうに促し立てた。
 しかし葦原醜男は笑ひながら、子供のやうに首を振つて見せた。
「あなたが此処にゐる間は、殺されても此処を去らない心算つもりです。」
「それでもあなたの御体に、万一の事でもあつた日には――」
「ではすぐにも私と一しよに、この島を逃げてくれますか?」
 須世理姫はためらつた。
「さもなければ私は何時までも、此処にゐる覚悟をきめてゐます。」
 葦原醜男はもう一度、無理に彼女を抱きよせようとした。が、彼女は彼を突きのけると急に海草の上から身を起して、
「御父様が呼んでゐます。」と、気づかはしさうな声を出した。さうして咄嗟とつさに岩の間を、若い鹿より身軽さうに、宮の方へ上つて行つた。
 後に残つた葦原醜男は、まだ微笑を浮べながら、須世理姫の姿を見送つた。と、彼女の寝てゐた所には、昨夕ゆうべ彼が貰つたやうな、領巾ひれがもう一枚落ちてゐた。

       六

 その夜素戔嗚は人手を借らず、蜂のむろと向ひ合つた、もう一つの室の中に、葦原醜男を抛りこんだ。
 室の中は昨日の通り、もう暗黒くらやみが拡がつてゐた。が、唯一つ昨日と違つて、その暗黒の其処此処には、まるで地の底に埋もれた無数の宝石の光のやうに、点々ときらめく物があつた。
 葦原醜男は心の中に、この光物ひかりものの正体を怪しみながら、暫くは眼が暗黒に慣れる時の来るのを待つてゐた。すると間もなく彼の周囲が、次第にうす明くなるにつれて、その星のやうな光物が、殆ど馬さへ呑みさうな、凄じい大蛇をろちの眼に変つた。しかも大蛇は何匹となく、或ははりに巻きついたり、或はたるきを伝はつたり、或は又床にとぐろを巻いたり、室一ぱいに気味悪く、うごめき合つてゐるのであつた。
 彼は思はず腰に下げた剣のつかに手をかけた。が、たとひ剣を抜いた所が、彼が一匹斬る内には、もう一匹が造作なく彼を巻き殺すのに違ひなかつた。いや、現に一匹の大蛇が、彼の顔を下から覗きこむと、それより更に大きい一匹は、梁に尾をからんだ儘、ずるりと宙に吊り下つて、丁度彼の肩の上へ、鎌首をさしのべてゐるのであつた。
 室の扉は勿論開かなかつた。のみならずその後には、あの白髪の素戔嗚が、皮肉な微笑を浮べながら、ぢつと扉の向うの容子に耳を傾けてゐるらしかつた。葦原醜男は懸命に剣の柄を握りながら、暫時は眼ばかり動かせてゐた。その内に彼の足もとの大蛇は、おもむろに山のやうなとぐろを解くと、一際ひときは高く鎌首を挙げて、今にも猛然と彼の喉へ噛みつきさうなけはひを示し出した。
 この時彼の心の中には、突然光がさしたやうな気がした。彼は昨夜室の蜂が、彼のまはりへ群がつて来た時、須世理姫に貰つた領巾ひれを振つて、危い命を救ふ事が出来た。してみればさつき須世理姫が、海辺の岩の上に残して行つた領巾にも、同じやうな奇特きどくがあるかも知れぬ。――さう思つた彼は咄嗟の間に、拾つて置いた領巾を取出して、三度ひらひらと振り廻して見た。……
 翌朝素戔嗚は又石の多い海のほとりで、いよいよ元気の好ささうな葦原醜男と顔を合せた。
「どうだな。昨夜ゆうべはよく眠られたかな?」
「ええ。御かげでよく眠られました。」
 素戔嗚は顔中に不快さうな色をみなぎらせて、じろりと相手を睨みつけたが、どう思つたかもう一度、何時もの冷静な調子に返つて、
「さうか。それはよかつた。ではこれからおれと一しよに、一泳ぎ水を浴びるが好い。」と隔意なささうな声をかけた。
 二人はすぐに裸になつて、波の荒い明け方の海を、沖へ沖へと泳ぎ出した。素戔嗚は高天原の国にゐた時から、並ぶもののない泳ぎ手であつた。が、葦原醜男は彼にも増して、殆ど海豚いるかにも劣らない程、自由自在に泳ぐ事が出来た。だから二人のみづらの頭は、黒白二羽のかもめのやうに、岩の屏風びやうぶを立てた岸から、見る見る内に隔たつてしまつた。

       七

 海は絶えずふくれ上つて、雪のやうな波の水沫しぶきを二人のまはりへみなぎらせた。素戔嗚はその水沫の中に、時々葦原醜男の方へ意地悪さうな視線を投げた。が、相手は悠々とどんなに高い波が来ても、乗り越え乗り越え進んでゐた。
 それが暫く続く内に、葦原醜男は少しづつ素戔嗚より先へ進み出した。素戔嗚はひそかきばを噛んで、一尺でも彼に遅れまいとした。しかし相手は大きな波が、二三度泡を撒き散らす間に、苦もなく素戔嗚を抜いてしまつた。さうして重なる波の向うに、何時の間にか姿を隠してしまつた。
「今度こそあの男を海に沈めて、邪魔を払はうと思つたのだが、――」
 さう思ふと素戔嗚は、いよいよ彼を殺さない内は、腹がえないやうな心もちになつた。
「畜生! あんな悪賢い浮浪人は、わににでも食はしてしまふが好い。」
 しかし程なく葦原醜男は、彼自身がまるで鰐のやうに、楽々とこちらへ返つて来た。
「もつと御泳ぎになりますか?」
 彼は波に揺られながら、日頃に変らない微笑を浮べて、遙に素戔嗚へ声をかけた。素戔嗚は如何に剛情を張つても、この上泳がうと云ふ気にはなれなかつた。……
 その日の午後素戔嗚は、更に葦原醜男をつれて、島の西に開いた荒野あらのへ、狐や兎を狩りに行つた。
 二人は荒野のはづれにある、小高い大岩の上へ登つた。荒野は目の及ぶ限り、二人の後から吹下す風に、枯草の波をなびかせてゐた。素戔嗚は少時しばらく黙然と、さう云ふ景色を見守つた後、弓に矢をつがへながら、葦原醜男を振り返つた。
「風があつて都合が悪いが、かくどちらの矢が遠く行くか、お前と弓勢ゆんぜいを比べて見よう。」
「ええ、比べて見ませう。」
 葦原醜男は弓矢を執つても、自信のあるらしい容子であつた。
「好いか? 同時に射るのだぞ。」
 二人は肩を並べながら、力一ぱい弓を引きしぼつて、さうして同時に切つて離した。矢は波立つた荒野の上へ、一文字に遠く飛んで行つた。が、どちらが先へ行つたともなく、唯一度日の光にきらりと矢羽根が光つた儘、たちまち風下の空に紛れて、二本とも一しよに消えてしまつた。
「勝負があつたか?」
「いいえ――もう一度やつて見ませうか?」
 素戔嗚は眉をひそめながら、苛立いらだたしさうに頭を振つた。
「何度やつても同じ事だ。それより面倒でも一走り、おれの矢を探しに行つてくれい。あれは高天原の国から来た、おれの大事な丹塗にぬりの矢だ。」
 葦原醜男は云ひつかつた通り、風に鳴る荒野へ飛びこんで行つた。すると素戔嗚はその後姿が、高い枯草に隠れるや否や、腰に下げた袋の中から、手早く火打鎌と石とを出して、岩の下の枯茨かれいばらへ火を放つた。

       八

 色のない焔はまたたく内に、濛々もうもうと黒煙を挙げ始めた。と同時にその煙の下から、茨や小篠をざさの焼ける音が、けたたましく耳をはじき出した。
「今度こそあの男を片づけたぞ。」
 素戔嗚は高い岩の上に、ぢつと弓杖ゆんづゑをつきながら、兇猛な微笑を浮べてゐた。
 火はますます燃え拡がつた。鳥は苦しさうに鳴きながら、何羽も赤黒い空へ舞ひ上つた。が、すぐに又煙に巻かれて、紛々と火の中へ落ちて行つた。それがまるで遠くからは、嵐に振はれた無数の木の実が、しつきりなくこぼれ飛ぶやうに見えた。
「今度こそあの男を片づけたぞ。」
 素戔嗚はかう心のうちに、もう一度満足の吐息を洩らすと、何故か云ひやうのない寂しさがかすかに湧いて来るやうな心もちがした。……
 その日の薄暮、勝ち誇つた彼は腕を組んで、宮の門に佇みながら、まだ煙の迷つてゐる荒野の空を眺めてゐた。すると其処へ須世理姫が、夕餉ゆふげの仕度の出来たことを気がなささうに報じに来た。彼女は近親のを弔ふやうに、何時の間にかまつ白なを夕明りの中に引きずつてゐた。
 素戔嗚はその姿を見ると、急に彼女の悲しさを踏みにじりたいやうな気がし出した。
「あの空を見ろ。葦原醜男は今時分――」
「存じて居ります。」
 須世理姫は眼を伏せてゐたが、思ひの外はつきりと、父親の言葉をさへぎつた。
「さうか? ではさぞかし悲しからうな?」
「悲しうございます。よしんば御父様が御歿おなくなりなすつても、これ程悲しくございますまい。」
 素戔嗚は色を変へて、須世理姫をにらみつけた。が、それ以上彼女をらす事は、どう云ふものか出来なかつた。
「悲しければ、勝手に泣くが好い。」
 彼は須世理姫に背を向けて、荒々しく門の内へはひつて行つた。さうして宮の階段きざはしを上りながら、忌々いまいましさうに舌を打つた。
「何時ものおれなら口も利かずに、打ちのめしてやる所なのだが……」
 須世理姫は彼の去つた後も、暫くは、暗く火照ほてつた空へ、涙ぐんだ眼を挙げてゐたが、やがて頭を垂れながら、悄然せうぜんと宮へ帰つて行つた。
 その夜素戔嗚は何時までも、眠に就く事が出来なかつた。それは葦原醜男を殺した事が、何となく彼の心の底へ毒をさしたやうな気がするからであつた。
「おれは今までにもあの男を何度殺さうと思つたかわからない。しかしまだ今夜のやうに、妙な気のした事はないのだが……」
 彼はこんな事を考へながら、青い匂のする菅畳の上に、幾度となく寝返りを打つた。眠はそれでも彼の上へ、容易に下らうとはしなかつた。
 その間に寂しい暁は早くも暗い海の向うに、うすら寒い色を拡げ出した。

       九

 翌朝もう朝日の光が、海一ぱいに当つてゐる頃であつた。まだ寝の足りない素戔嗚はまぶしさうに眉をひそめながら、のそのそ宮の戸口へ出かけて来た。すると其処の階段きざはしの上には、驚くまい事か、葦原醜男が、須世理姫と一しよに腰をかけて、何事か嬉しさうに話し合つてゐた。
 二人も素戔嗚の姿を見ると、吃驚びつくりしたらしい容子であつた。が、すぐに葦原醜男は不相変あひかはらず快活に身を起して、一筋の丹塗矢にぬりやをさし出しながら、
「幸ひ矢も見つかりました。」と云つた。
 素戔嗚はまだ驚きが止まなかつた。しかしその中にも何となく、無事な若者の顔を見るのが、よろこばしいやうな心もちもした。
「よく怪我をしなかつたな?」
「ええ。全く偶然助かりました。あの火事が燃えて来たのは、丁度私がこの丹塗矢を拾ひ上げた時だつたのです。私は煙の中をくぐりながら、兎も角火のつかない方へ、一生懸命に逃げて行きましたが、いくらあせつて見た所が、到底西風にあふられる火よりも早くは走られません。……」
 葦原醜男はちよいと言葉を切つて、彼の話に聞き入つてゐる親子の顔へ微笑を送つた。
「そこでもう今度は焼け死ぬに違ひないと、覚悟をきめた時でした。走つてゐる内にどうしたはずみか、急に足もとの土が崩れると、大きな穴の中へ落ちこんだのです。穴の中は最初まつ暗でしたが、ふちの枯草が燃えるやうになると、忽ち底まで明くなりました。見ると私のまはりには、何百匹とも知れない野鼠が、土の色も見えない程ひしめき合つてゐるのです……。」
「まあ、野鼠でよろしうございました。それがまむしででもございましたら……」
 須世理姫の眼の中には、涙と笑とが刹那せつなの間、同時に動いたやうであつた。
「いや、野鼠でも莫迦ばかにはなりません。この丹塗矢の羽根のないのは、その時みんな食はれたのです。が、仕合せと火事は何事もなく、穴の外を焼き通つてしまひました。」
 素戔嗚はこの話を聞いてゐる内に、だんだん又この幸運な若者を憎む心が動いて来た。のみならず、一度殺さうと思つた以上、どうしてもその目的を遂げない中は、昔から挫折した覚えのない意力の誇りが満足しなかつた。
「さうか。それは運が好かつたな。が、運と云ふものは、何時いつ風向きが変るかわからないものだ。……が、そんな事はどうでも好い。兎に角命が助つたのなら、おれと一しよにこちらへ来て、頭のしらみをとつてくれい。」
 葦原醜男と須世理姫とは、仕方なく彼の後について、朝日の光のさしこんでゐる、大広間の白いとばりをくぐつた。
 素戔嗚は広間のまん中に、不機嫌らしい大あぐらを組むと、みづらに結んだ髪を解いて、無造作に床の上に垂らした。素枯すがれた蘆の色をした髪は、殆ど川のやうに長かつた。
「おれの虱はちと手強てごはいぞ。」
 かう云ふ彼の言葉を聞き流しながら、葦原醜男はその白髪を分けて、見つけ次第虱をひねらうとした。が、髪の根にうごめいてゐるのは、小さな虱と思ひの外、毒々しい、銅色あかがねいろの、大きな百足むかでばかりであつた。

       十

 葦原醜男はためらつた。すると側にゐた須世理姫が、何時の間に忍ばせて持つて来たか、一握りのむくの実と赤土とをそつと彼の手へ渡した。彼はそこで歯を鳴らして、その椋の実を噛みつぶしながら、赤土も一しよに口へ含んで、さも百足をとつてゐるらしく、床の上へ吐き出し始めた。
 その内に素戔嗚は、昨夕ゆうべ寝なかつた疲れが出て、我知らずにうとうと眠にはひつた。
 ……高天原の国をはれた素戔嗚は、爪を剥がれた足に岩を踏んで、嶮しい山路を登つてゐた。岩むらの羊歯しだからすの声、それから冷たい鋼色はがねいろの空、――彼の眼に入る限りの風物は、ことごとく荒涼それ自身であつた。
「おれに何の罪があるか? おれは彼等よりも強かつた。が、強かつた事は罪ではない。罪はむしろ彼等にある。嫉妬心の深い、陰険な、男らしくもない彼等にある。」
 彼はかう憤りながら、暫く苦しい歩みを続けて行つた。と、路をさへぎつた、亀の背のやうな大岩の上に、六つの鈴のついてゐる、白銅鏡が一面のせてあつた。彼はその岩の前に足をとめると、何気なく鏡へ眼を落した。鏡はえ渡つたおもての上に、ありありと年若な顔を映した。が、それは彼の顔ではなく、彼が何度も殺さうとした、葦原醜男の顔であつた。……さう思ふと、急に夢がさめた。
 彼は大きな眼を開いて、広間の中を見廻した。広間には唯朝日の光が、うららかにさしてゐるばかりで、葦原醜男も須世理姫も、どうしたか姿が見えなかつた。のみならずふと気がついて見ると、彼の長い髪は三つに分けて、天井のたるきくくりつけてあつた。
だましをつたな!」
 咄嗟とつさに一切悟つた彼は、稜威いつたけびを発しながら、力一ぱいかしらを振つた。すると忽ち宮の屋根には、地震よりも凄まじい響が起つた。それは髪をくくりつけた、三本のたるきが三本とも一時にひしげ飛んだ響であつた。しかし素戔嗚は耳にもかけず、まづ右手をさし伸べて、太いあめ鹿児弓かごゆみを取つた。それから左手をさし伸べて、あめ羽羽矢はばやゆぎを取つた。最後に両足へ力を入れて、うんと一息に立ち上ると、三本の桷を引きずりながら、雲の峰の崩れるやうに、傲然と宮の外へ揺るぎ出した。
 宮のまはりの椋の林は、彼の足音に鳴りどよんだ。それは梢に巣食つた栗鼠りすも、ばらばらと大地に落ちる程であつた。彼はその椋の木の間を、嵐のやうに通り抜けた。
 林の外は切り岸の上、切り岸の下は海であつた。彼は其処に立ちはだかると、眉の上に手をやりながら、広い海を眺め渡した。海は高い浪の向うに、日輪さへかすかにあをませてゐた。その又浪の重なつた中には、見覚えのある独木舟まるきぶねが一艘、沖へ沖へと出る所だつた。
 素戔嗚は弓杖ゆんづゑをついたなり、ぢつとこの舟へ眼を注いだ。舟は彼をあざけるやうに、小さい筵帆むしろぼを光らせながら、軽々と浪[#「浪」は底本では「冫+良」]を乗り越えて行つた。のみならずともには葦原醜男、へさきには須世理姫の乗つてゐる容子も、手にとるやうに見る事が出来た。
 素戔嗚は天の鹿児弓に、しづしづと天の羽羽矢をつがへた。弓は見る見る引き絞られ、やじりは目の下の独木舟に向つた。が、矢は一文字に保たれた儘、容易につるを離れなかつた。その内に何時いつか彼の眼には、微笑に似たものが浮び出した。微笑に似た、――しかし其処には同時に又涙に似たものもないではなかつた。彼は肩をそびやかせた後、無造作に弓矢を抛り出した。それから、――さも堪へ兼ねたやうに、たきよりも大きい笑ひ声を放つた。
「おれはお前たちをことほぐぞ!」
 素戔嗚は高い切り岸の上から、遙かに二人をさし招いだ。
「おれよりももつと手力たぢからを養へ。おれよりももつと智慧ちゑを磨け。おれよりももつと、……」
 素戔嗚はちよいとためらつた後、底力のある声に祝ぎ続けた。
「おれよりももつと仕合せになれ!」
 彼の言葉は風と共に、海原の上へ響き渡つた。この時わが素戔嗚は、大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)おほひるめむちと争つた時より、高天原の国をはれた時より、高志こし大蛇をろちを斬つた時より、ずつと天上の神々に近い、悠々たる威厳に充ち満ちてゐた。
(大正九年)


 


底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房 
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月17日公開
2004年2月18日修正
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