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古典文学

「詩の日本語」 (大岡信)

投稿日時:2014/05/09(金) 09:45

「詩の日本語」 (大岡信)(その1)
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「詩の日本語」 大岡信 著

中央公論社 1980年 初版
中公文庫  2001年 初版

詩の日本語

1972年から1980年にかけて発表された解説、論文をまとめたものです。
それぞれが加筆されまとめられているので、流れのある本になっています。
大岡氏の言葉で表せば、いままで考え悩んだことの「決算報告」であり、16の章からなる「なぜ」を抱え込んだまままの「自問自答集」になっています。

俊成、芭蕉、子規が命をかけてきた詩歌の厳しい世界にも、挑もうとされる大岡氏の執念にも気圧されます。
詩歌の鑑賞、読み込みの深さは、もちろん尊敬しますが、それがあまりにも手の届かないところにおられることに意気阻喪しているのも正直な気持ちです。

中学生の頃、朝日新聞に連載されていた「折々の歌」は、当時どれほども分かっていなかったのでしょうが、スクラップにして繰り返し読んでいました(2年間くらいですが)。
詩歌に何かを感じていたのかもしれません。

この本であらためて、詩歌には日本人の言語観、色彩観、自然観を解く鍵があり、美術や音楽を含めた文化を最も表していることを感じさせてもらいました。

いま読み終えたばかりで、打ちのめされた衝撃も加わりちょっと熱くなっていのが分かります。
ボードレールの「アルバトロス」(1859)の日本語訳として、上田敏の「信天翁(おきのたいふ)」(1905)、三好達治の「「信天翁(あほうどり)」(1935頃)、福永武彦の「あほう鳥」(1963頃)が比較され、近代日本にあらわれた日本語の激烈な変化が示されます。

この言葉の変化・流動化こそが日本語の本質であり、日本人の言語観を次のように言われています。

言葉を堅固な構造と法則性を持ったものというのではなく、むしろ社会構造の変化につれていつのまにか変わってゆく部分を多く持った、ある種の流動性を本質とする生ものとみなし、その流行の側面に一層敏感であろうとする態度・・・・

この精神の根は、1000年の昔に遡ることができ、「うつろい」の相によってこの生をみるという態度は、民族的な特性ともいえる。

そもそも、「言葉」という言葉は、「こと」に「端」がくっついたもので、「端」によって「こと」に命が与えられると思われていたようです。

「てにをは」こそ、日本語の総体の中で最も敏感に、事や物の変容、すなわち乾坤の変の微妙な細部を写しとることのできる部分にほかならない・・・

日本語においては、「言」の「端」においてこそ、霊妙な「ことば」の命が結晶して乾坤の変化とともにうちふるえる姿が最も鮮やかに見てとられる

「乾坤」というものを「変」の姿においてとらえることをもって風雅の要諦とする思想につうじていた

古来より日本の詩歌は、「動き」や「変化」を重要な要素としていましたし、芭蕉は「てにをは」の霊妙な働きを強調していました。

男と女の恋愛や情事を表す言葉で「色恋」という言葉がありますが、王朝の頃より恋愛感情を色に例え歌が詠まれました。
「色」という言葉は、植物による染色では色を安定させるのが難しく、また望み通りの一定の色を得ることが容易でないことから、恋の難しさを表現するのにふさわしい言葉だったのでしょう。

古来日本には、色彩を表す形容詞は「白い」「黒い」「赤い」「青い」の四つしかもっていませんでした。
しかし、例えば淡紅色を表す色として、撫子、桃、桜、葵、牡丹、合歓木、蓼・・・・といくつももっています。
色の数は、事物の数と同じだけあります。

この色彩感覚は研ぎ澄まされてゆき、色に「染まる」から「染む」「しみる」という感覚をもつようになります。

風に色を見るということは、もはや視覚の領域の問題ではない。心の眼の問題である。風のなかに色をみる「心」があるのだ。・・・・・現実界の色を拒絶することによって、無色のもののなかに色を見る一種の透視的な眼を獲得しようとして、彼らは骨身をけずった。
日本の詩歌というものが、現実生活のなかのさまざまな事物を即座に色として感じとっていた物心一体の境から、しだいに個々の「事物の色」を離れ、「心の色」を積極的に定立していこうとする姿がはっきりしてくるといえるだろう。
一言でいえば、ここに日本の詩歌の反俗主義があり、一見華麗なもの優美なものを豊かにもっているとみえながら、日本の詩歌が全体として「ひえさびた」境地へとたえず磁針を合わせてきた理由も、この反俗主義の現実的あらわれとしての禁欲主義によるだろう。

色ある世界にあって、いかに色を透脱するかということに、日本の詩歌は思いをこらし、反俗の「まこと」をそこにかけてきたといってよい。

先ほどの「しみる」という感覚は、男女の間の接触によって生まれるものですが、恋愛を歌った歌を西洋のものと比較すると、その違いには改めて驚かされます。
これは、詩の成り立ちの違いとともに、人間観の違いを表しているようです。

「月や太陽さえも彼女の髪に吊るされ、その額には星が冠のようにつらなる」(セバスタツィ)といったような女性讃美の詩とは、まったく異なった世界に日本の歌人たちは生きてきました。

おびただしい数歌われた恋の歌からは、おおむね自己中心的な特徴をみられていましたが、これは意外でした。
たしかに、「ひとり寝」の侘しさを歌うのは、相手へではなく自分への優しさからですね。

日本の恋歌の動機は、相手を精神的存在としてではなく、性的な接触・離反の対象としてとらえていたところに、おおむねは発していた・・・・

肌と肌の直接的接触からの距離の多少によって、ある時には「ひとり寝」の嘆きの歌となり、別の時には「後朝(きぬぎぬ)」の嘆きの歌となり、また「ながめ」(眺め/長雨)の嘆きの歌となった。

「大和物語」は、「伊勢物語」に比べ拙劣で世俗的であるという評価がありますが、その異端性こそ自由に「物語る」精神の翼がひろげられて姿ととらえる見方も興味深かったです。

「さ月」ときたら「郭公」、「花橘」なら「昔の人」(かつての恋の思い出)、「月」なら「かなし」と繋がるのは、確かに調和的な世界といえますが、作者の際立った個性が無視された姿は、「万葉集」の作者のものとは対象的です。

貫之が「土佐日記」を仮名文字で書いたことで、「古今集」的美意識に立脚しながらも、その内側から日本詩歌史を展開していこうという自覚があったとされています。

実はこの伝統と創造の問題は、和歌の問題に留まらす、日本の文学ひいては日本の芸術の問題と重なっています。

「歌道は風月延年の飾りなれば、もつともこれを用ふべし。」
これは、世阿弥が「風姿花伝」で「風月延年(=申楽)を美ならしめているのは歌道である」という意味で述べた言葉です。

「古今和歌集」仮名序の冒頭部には、次のようにあります。

「やまとうたは、人のこころを種として、よろづの言の葉とぞなりける。
・・・・・力をもいれずして、天地(あめつち)をうがかし、目に見える鬼神をもあはれとおもはせ、男女(おとこおんあ)のなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは歌なり。
この歌、天地のひらけはじまりける時よりいできにけり。」

言葉のもつ呪力は、日本に限られたことではなく、世界中の民族にみられることでした。
それでも、「歌の徳といふものは、日本では誠に神怪不可思議なもの」(柳田国男)があるとすれば、それはどういうものなのでしょう。

これは、和歌と漢詩を比べてみると見えてきそうです。
日本語の特徴である「てにをは」に、霊妙な命が凝縮されていて、これが歌に呪術的性格をもたらしているようです。

中国の南北朝時代に、劉勰(りゅうきょう)が著した文学理論書「文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう)」(499~501年完成)がありますが、
(劉勰の認識は)、天地の心が息づけば言葉が現われ、言語が現われて文章が姿を明らかにする、といっているが、それと同時に、それ以上に重要だったのは、人間こそこの天地の中心であり、・・・・・
というものでした。

強烈な人間中心主義の思想ですが、これは自然性からの「超越」ではなく、自然との同一化、重ね合わせていこうとする日本の諸芸能とは対象的です。

中世和歌の主導的な理念あるいはその展開の姿について考えてみると、象徴主義的な性質がそこに多分に認められる

当時、中国の文化は模倣すべきものであったにも拘らず、日本の詩歌はかなり対照的な道を進んでいきます。

日本の芸術に浸透していった思想に、「幽玄」というものがあります。
美しさを測る尺度でありながら、客観的な測定を許さない不思議な言葉です。

能勢朝次氏は、「幽玄論」のなかで、
「この語は、美の性質や色彩を表現する点に特色がなくて、美の深度や高度を示す所に特色を持って居る
無限に縹緲と拡がって行く余情美、無限に深く深くと深まっていく沈潜美、・・・を示す言葉」
であると語っておられます。

この美の高さと深さは、心の深浅に応じて、対象の美は深くも浅くもなるものと考えられ、
詩人たちは、主として諸感覚の驚くべき練磨を通じ、言葉の世界における「色からの脱」、「色離れ」の中に、「幽玄」の原義である深遠、窕冥の境地をめざしたのだった。

美意識の深化、純化の問題は「古今和歌集」と「新古今和歌集」の対比がその手がかりとなりそうです。

これらの成立した時代背景は全く違っていて、それが色濃く反映されています。
世の中が乱れ、朝廷の力が衰退していく中で、無常観であれ醒めた認識者の悲しみが歌われてゆきます。

藤原定家が源実朝に贈った歌論「近代秀歌」には、「昔、貫之、歌の心巧みに、たけ及び難く、詞強く、姿おもしろきさまを好みて、余情妖艶の躰をよまず」
とあります。

「晴」的な歌風を遠ざけ、「褻(け)」的な歌風に現代的な重要性を見
優美艶麗さにおいてさえ常に正面向いてみえを切っているような歌は、もはやわれわれのものではない

こうして、日本の詩歌は「優艶美から冷厳美への質的な転換」を遂げてゆきます。

そしてそこにもうひとつ、日本の詩歌、日本の文学全体に深く影響を及ぼしたものがあります。

「歌合せ」です。

後鳥羽院は、自身の回想録「御口伝」に、歌合せの判定をする定家の折り合いの悪さや執着心の強さにあきれたと書きとどめています。
この歌への執念こそ彼の秀歌の源泉でしたし、集団での制作という手法は、「連歌」「俳諧」にも受け継がれた日本の文芸の主流を占めていたものでした。

「制作」と「批判」の密接に関わりについて、大岡氏はかなり厳しいことを書かれています。

これは、くりかえすが、単なる古い時代の詩歌の話ではない。私の念頭には、現代文学、現代詩歌における実作と批評の問題が、二重映しのものとして浮んでいる。
今日、上等な小説や詩歌の作者が、同時に上等な批評家であるということは比較的に困難なことに属している。

単に知的な怠け者にすぎないという資格において「実作者」であるにすぎない実作者までが、自作の批評もろくに出来ないくせに、批評という精神の動き一般を軽んじてとくとくとしているという喜劇的な事態が、ひろく一般化している。こういう現象は、歴史を振返ってみれば、まだ百年にも満たない最近の現象であって、明治時代という近代においても、そういうことはまだ到底生じてはいなかった。

日本の詩歌が「集団制作」とそれと重複する「批判」によって、鍛え上げられてきたわけですが、和歌、俳諧、近代詩という流れだけでない、もっと様々な流れがありました。

(長くなりましたので、ちょっと休憩、続きは明日に)
「詩の日本語」 (大岡信)(その2)
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昨日の続きです。

私たちが日本の詩歌というとき、和歌、俳諧、近代詩という道筋で考えることは、限定的な見方であるというところからはじめます。

大河「平清盛」でも毎回流れていた「遊びをせむと~」の「梁塵秘抄」など歌謡は、近代までほとんど触れられることがありませんでした。
残念なことに私たちの目にすることのできる「梁塵秘抄」は、原本のうちの1割程度であるということからも、その不当な扱いが想像されます。

実はこの「梁塵秘抄」を、北原白秋、斎藤茂吉、佐藤春夫、芥川龍之介らが興味らが興味をそそられ読み込んでいたというのは面白い話でした。

岡倉天心も大の愛好家で、多くの俗謡をのこしています。

谷中(やなか)、うぐいす、初音(はつね)の血に染む紅梅花、堂々男子は死んでもよい。
奇骨侠骨、開落栄枯は何のため、堂々男子は死んでもよい。

これは、東京谷中の初音町に東京美術院が開設された時の歌で、(3・4)(4.3)(3.4)(5) 都都逸の形式を踏んでいます。
和讃というものがあります。

大和言葉で、仏や菩薩の徳を讃嘆し、仏教の教理を歌謡の形でわかりやすく展開した歌で、七五調で句を重ねてゆき、4句をひと塊をなします。
一遍の「百利口語」のように192句を重ねた長編もあります。

ここには、現実世界の枠組みをやすやすと超え、非現実的な世界に張り出していく場があるといわれます。

このような場は、われわれが「詩」と呼んでいるものが生きて働く場として、最も密度の濃い場の、少なくとも一つである
おそらく現代の詩人宮沢賢治も、このような場に自由に出没する呼吸を心得ていた人だったろう

この和讃に関し、興味深い発見をされています。
同じ七五調でも短歌が太い線のような印象を受けるのに対し、和讃は軽快に繋がっていく面のような印象だと説明されています。

この違いを、壁画と絵巻の違い、唐絵と大和絵の違いと言われていました。
絵巻についてそれほど考えたことはありませんでしたが、45度の角度から俯瞰し、屋根・天井を取り払う「吹抜屋台」の描法をとりいれることと合わせて、次々と展開する進行形の物語は実にユニークなものだし、「うつろい」に美を見出す日本人の感性に合ったものだったのですね。

「古今集」「伊勢物語」の成立、仮名の発明、これらと同時に生まれた大和絵は、文学的、物語的人間を描くことに関心をはらい、大きな影響を受けたはずの中国の山水画や故実を描くことに興味を示さなかったという指摘もおもしろいです。

日本の絵は、人間の生活する場を尺度として森羅万象を見ようとする態度を、実に鮮明にかかげた。
人間が画面構成の中心になる以上、鑑賞者にとっては、近接し位置でしげしげと見入ることのできる絵が好ましいことはいうまではない。
こうして、天地が狭く横に延びてゆく絵巻の形式は、一見窮屈な形態的制約ゆえに、かえって自由奔放に、人間界の物語を語ってゆくことができた。

話を戻しますが、和讃はその口調の軽快さが弱点になりました。

明治30年代、日露戦争前後という時代背景がありましたが、詩人たちはこの七五調を使って、史詩、譚詩、劇詩の試みに熱中します。
与謝野鉄幹、蒲原有明、岩野泡鳴、伊良子清白、坪内逍遥、森鴎外らです。

明治36~37年に、この叙事詩の波は一気にひき、抒情詩の圧倒的優勢の時代に入っていきます。
ここで、長い歴史をもった和讃は詩歌としての終局を迎えます。

そうして日本の詩歌は「言文一致」の問題にとりくんでゆきますが、これは話し言葉と書き言葉という問題以上に、深いものがありました。

先蹤を離れ、詩歌というものをもっと直接に自分たちの若い心に近づけようとした藤村の詩にも、王朝和歌の余韻が認められる。
感情をその通念的様相の奥にまで分け入って、独自な様態において把握しようとしたのは、藤村ではなくて、彼に続く蒲原有明だった。その意味で、厳密には、日本の近代詩は、有明においてはじめて新しい時代の新しい詩の姿をとるに至ったといえるかもしれない。しかし、皮肉にも、それと同時に早くも近代詩の孤立化の道も始まったというのが、実情であった。

言文一致を「実情をありのままに描写」することと捉えるのなら、江戸時代後期の狂歌のなかにも、その精神は見出せます。
銅脈先生の「豆腐」「蕎麦」、大田南畝の「屁臭い」「野雪隠に至りて」などはあまりのリアルさに思わず噴出してしまいそうな作品です。

幸田露伴は、言文一致について「続芭蕉俳句研究(共著)」(大正11年)で書かれていたのは、
古歌古詩を十分に踏まえて、その上に立っておのれ自身を自由に表現してゆくとき、たとえ用いる言葉は言文一致でなくとも、精神はまさに言文一致の精神なのだということがいえる。
ということであり、
「言」と「文」が形式的に一致していたところで、根本の精神に創造的活力が欠けているなら、要するにそこには何もありはしないのだ
ということです。

最初に問題とすべきは「真」ということだった。

子規は、言文一致を完成させたといわれていますが、 初めのうちは、懸詞こそ排したけれど、枕詞は晩年にいたってむしろ多く愛用していて、彼の長歌の独特な味わいは、枕詞の巧みさによる点が多いといわれています。
彼は語の新旧、雅俗にはとらわれず、必要なら古語でも雅語でも俗語でも自由に用いようとしました。

衰えを自覚し、死の予感を感じた子規の晩年の歌は、幸田露伴の「言葉のやすらかなるは極めてよし、言葉の確(しか)と実際に協(かな)ひたるは、ひときはよきなり」(~「雲のいろいろ」明治30年)の言葉によって説明されていたように思います。

身近なものすべてへのかぎりないいとおしみ、惜別の情で溢れています。

藤の歌十首の詞書には、
艶にもうつくしきかなとひとりごちつゝそゞろに物語の昔などしぬばるゝにつけてあやしくも歌心なん催されける。
そして、山吹きの花十首の終わりには、
吾は只歌のやすやすと口に乗りくるがうれしくて
とあります。

明治34年の子規の歌の透明な気品は、創造的精神がなしうる戦いの限界にいどみつづけてきた子規に対して贈られた、天のたまものといった感じさえある。

何よりも心うたれるのは、これらの歌で、子規が草花のひとつひとつを、明日はこの世にいなくなる人の眼で見、愛惜していることである。それは、いわば花のひとつひとつのために碑銘をきざんでやる行為に似ていた。そしてそれは、子規自身の、なお生きてこの世に活動している精神の、最も充実した頂点の姿を、一瞬一瞬において永遠に刻みつけることでもあった。

このときの子規の歌は、詠まれている花とともに言葉が呼吸をしています。
言文一致とは、精神の自由が獲得できたかどうか、なんですね。

それにしても、大岡氏の詩歌の読み込む力には驚かされます。

知識が前提であることは間違いありませんが、やはり最後は感性でしょうか。

俊成、芭蕉、子規らの生き方をみて、「何がそこまで彼らをかきたてるのか」と疑問をもちつつも、彼らの生き方に憧れる気持ちがあります。

そういえば、西行については全く触れられていませんでした。
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