古典文学
管説日本漢文學史略(明治以後)
投稿日時:2014/05/09(金) 09:49
管説日本漢文學史略
~授業用備忘録~
明 治 以 後 (士林時代・ 主たる担い手は知識人)
明治以後
明治の漢詩
明治の漢文
明治の漢学者
大正・昭和の漢詩
叢書と影印和刻本
《閑話休題・6》
*代表的参考文献(昭和以後の通史)
後記
明治以後
明治に至ると社会情勢が一変し、漢学は洋学に圧倒され衰微の道を辿ります。特に経史の学は不振を極め、大正・昭和にかけては、漢学の世界も大きく変化し、経子の学は中国哲学へ、詩文の学は中国文学へ、史の学は東洋史学へと分化し、個々に独立した学問分野として成立し、現在では所謂「漢学」と呼べる伝統的学問体系(経史子集を同時並行的に学び、漢詩・漢文を制作)は殆ど失われました。
しかし、この様な経史の学の衰微に反し、逆に漢詩・漢文の方は、明治期に大流行します。漢詩では、多くの詩社が林立し、漢文では、重野成斎・中村敬宇・三島中洲・川田甕江・竹添井井らが、気を吐きます。
この様に、江戸漢学の余勢の中で活況を呈した、明治の漢詩・漢文世界も、大正・昭和期に入ると、高尚な趣味として一部の人々に限られたものになってしまいます。
明治の漢詩
明治の前半期に漢詩壇が活況を呈した理由として、猪口篤志氏は、以下の四点を挙げています。
?当時の著名人、例えば幕末以来の諸侯(松平春岳・鍋島閑叟・山内容堂・伊達藍山ら)・維新の元勲(西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文ら)・政府の高官(勝海舟・巌谷一六・小原鉄心・土方秦山・中井櫻洲・長三洲ら)・学者(元田永孚・重野成斎・三島中洲・竹添井井ら)・軍人(乃木希典・山県有朋・樺山華山・谷隈山・広瀬武夫ら)が、善く詩を作ったこと。
?私塾の成立と、詩社の林立が見られたこと。
?発表機関としての雑誌や詩集の出版が容易になり、同時に新聞(毎日新聞・日本新聞・報知新聞・国民新聞など)が、漢詩欄を設けてその一翼を担ったこと。
?中国との交通が開け、人士の往来(日本で聞香詩社を開いた王仁成、清国公使館職員の黄遵憲や何如璋、清国に遊歴や留学した竹添井井・岸田吟香・宮島栗香・石川鴻斎・亀谷省軒・宮島詠士ら)が盛んになったこと。
この四つの理由の中で、明治と言う時代の風潮を、最もよく表していると思われるのが、?と?です。
明治四年に文部省が設置されて、学制が大きく変わると、知識と利益を重視した洋学が中心になり、漢学は制度上殆ど廃止されたも同然の様になります。これに抗するが如く多くの私塾が現れますが、その大半が幕末以来の碩学鴻儒の漢学塾です。そこでは広く漢学が講義され、漢詩・散文の制作が課せられていました。
また明治五年には、藤野海南の主唱で友誼交流を旨とした「旧雨社」が創設され、その社盟には、重野成斎・松平春岳・岡鹿門・鷲津毅堂・阪谷朗盧・南摩羽峰・木原老谷・那珂梧楼・小山春山・川田甕江・中村敬宇・秋月樂山・村山拙軒・萩原西疇・依田学海・信夫恕軒・亀谷省軒・天岸静堂・平田虚舟・青山清幽・岡本韋庵・島田篁村・股野藍田・日下勺水・小野湖山・岡松甕谷・座光寺半雲・西岡宜軒・四谷穂峰・小永井小舟・森春濤らが、加わっています。
当時、東京に存在していた私塾は、漢唐の注疏を好み古学を講じた安井息軒の三計塾・陽明学を説いた三島中洲の二松学舎・儒教道徳と六芸の実践こそが学問であると称した中村敬宇の同人社・古学の精密性と宋学の論理的思想性及び清朝考証学の合理性の兼有を述べ、『史記會注考證』の瀧川亀太郎や西村天囚が学んだ島田篁村の双桂精舎・古学と六芸の実践を旨とした塩谷箕山の晩香堂・後の東大教授で東洋史学者である市村サン次郎が学んだ小永井小舟の濠西精舎・山井清渓の清渓塾・大沼枕山の大沼学舎・岡鹿門の綏猷堂などが有り、更には箕山の長子塩谷青山の菁莪書院なども有ります。
地方でも、新潟では桂湖村・小柳司気太・鈴木虎雄らを輩出した鈴木文台の長善館、埼玉では中島撫山の幸魂教舎、郷里の長野で子弟教育に尽力した依田稼堂の有隣塾、名古屋では佐藤牧山が門弟に教授し、京都の草場船山の敬塾、大阪では近藤元粋の猶興書院や、欧化主義を憤慨して雑誌『弘道新説』を発刊し、道徳を論じて漢学の普及に努めた藤沢南岳も私塾を開いていますし、岡山では陽明学を奉じた山田方谷の刑部塾が有り、九州では、門弟数千人に及んだ村上仏山の水哉園や、咸宜園の広瀬林外や広瀬青邨及び草場船山・長梅外・長三洲・釈五岳・谷口藍田・堤静斎・柴秋村等も詩名を馳せています。
私塾以上に自由に作られたのが詩社で、最も設立の古い鱸松塘の七曲吟社(神林香国・大島怡斎ら)・交流の広さを誇った成島柳北の白鴎吟社(依田学海・瓜生梅村ら)・杜甫を宗とした岡本黄石の麹坊吟社(杉聴雨・日下部鳴鶴・矢土錦山ら)・蘇東坡を崇んだ向山黄村の晩翠吟社(田辺松坡・巌谷一六・古沢介堂・田辺蓮舟ら)・宋詩を尊んだ大沼枕山の下谷吟社(植村蘆洲・杉浦梅潭・嵩古香ら)・清詩を鼓吹した森春濤の茉莉吟社(丹羽花南・永坂石タイ・神波即山・奥田香雨・高野竹隠・徳山樗堂・森川竹渓・岩渓裳川・阪本蘋園・橋本蓉塘・杉山三郊ら)・唐詩を宗として関西で活躍した小野湖山の優遊吟社などが有り、交流合併を繰り返しつつ、最終的に明治の前半を風靡したのは、森春濤の茉莉吟社で、後期は春濤の子槐南の星社です。
当時出版された漢詩関係の雑誌には、森春濤の『新文誌』・佐田白茅の『明治詩文』・大江敬香の『花香月影』・大久保湘南の『随鴎集』等が有り、また漢詩欄を設けた新聞には、森槐南を撰者とした毎日新聞・国分青厓を撰者とした日本新聞を初めとして、報知新聞・国民新聞・自由新聞・時事新聞等が有ります。
要するに、明治の漢詩壇に在って、その中心に居て隆盛を唱導したのは、森親子であったと言えます。春濤の門下には、丹羽花南・神波即山・橋本蓉塘らがおり、槐南門下には、野口寧斎・大久保湘南・上村売剣らがいます。
春濤と槐南
森春濤(1819~1889)
名を魯直と言い、尾張の人です。彼は、清朝の詩を推奨して一家をなし、その詩会には必ず美妓を侍らせて憚らず、世人は「詩会」と言わないで「桃花会」と囃し立てた、と言う一種の天才的漢詩人です。彼の茉莉吟社には、鷲津毅堂・巌谷一六ら、当時を代表する錚々たる漢詩人が参集し、春濤の天下と言うに相応しい様相を呈しています。彼は、明治八年に『東京才人絶句』』二巻を刊行して評判を得ると、『清三家絶句』や『清廿四家』を刊行し、自ら『新詩文』と言う機関誌も発行します。尚、彼自身の作品集に、『春濤詩鈔』二十巻が有ります。
森槐南(1863~1911)
名を公泰と言い、尾張の人です。彼は、鷲津毅堂や三島中洲に学び、東京帝国大学文科講師になった人です。彼の星社には、田辺碧堂・土井(居)香国・森川竹渓らが集まり、更に父春濤の門人らが羽翼したため、明治の後期には、漢詩壇の一大勢力となります。彼には、中国の詩を解釈した『杜詩講義』『李詩講義』『韓詩講義』『李義山詩講義』『唐詩選評釈』等が有り、彼自身の作品集として、『槐南集』八冊巻が有ります。
その他の人々
副島蒼海(1828~1905)
名を種臣と言い、佐賀の人です。彼は、佐賀藩の国学教授枝吉南濠の次男で、早くより家学を受け副島利忠の養子となって国事に奔走し、明治新政府では外務卿や内務大臣を歴任します。森一派に因る清詩提唱に席巻される明治詩壇に在って、漢魏の古調を強く唱えた人です。その書に、『蒼海全集』六巻が有ります。
嵩古香(1837~1919)
名を俊海と言い、埼玉の東松山市の人です。真宗大谷派了善寺の第十代住職として生きた彼は、幼少より漢詩に親しみ、十六歳で漢詩を作り出し、大沼枕山に師事していますが、枕山自身が菊池五山に詩を学び、梁川星巌の門に入って詩名を馳せた人であれば、古香も星巌の流れを汲む詩人であると言えます。彼は、寺の有る東松山市から殆ど動くこと無く、江戸末から大正にかけて起こった事件や事象を、一万首を超える漢詩に詠じています。将に激動の時代を活写した詠史詩の雄であり、当時を代表する「方外の詩人」であると言えます。
秋月天放(1839~1913)
名を新と言い、日田の人です。彼は、佐伯藩の儒者秋月橘門の子で、家学を継承しつつ広瀬淡窓に師事し、詩を善くした漢詩人として知られています。維新後は新政府に仕え、三河県知事・葛飾県知事・文部省参事官・女子高等師範学校校長などを歴任し、貴族院議員になっています。その書に、『天放存稿』一巻・『知雨楼詩存』十巻等が有ります。
大須賀イン軒(1841~1912)
名を履と言い、磐城の人です。彼は、平藩の儒者神林復所の次男で、江戸の昌平黌に入って安積艮齋に師事し、帰郷して藩の督学となり、維新後は十年ほど悠々自適の生活を送った後に、仙台の第二高等学校(現、東北大学)の漢文担当教授となった人です。その書に、『イン軒文集』二巻・『イン軒詩集』四巻等が有ります。
土屋鳳洲(1841~1926)
名を弘と言い、和泉の人です。彼は、九歳で藩校講習館に入り、相馬九方に就いて古学を学び、次いで但馬の池田草庵に就いて朱子学や陽明学を学び、後に岸和田藩の藩校教授となり、維新後は師範学校の校長などを歴任した漢学者です。その書に、『孝経纂釈』一巻・『晩晴楼詩鈔』二巻・『晩晴楼文鈔』三巻等が有ります。
末松青萍(1855~1920)
名を謙澄と言い、福岡の人です。彼は、十歳の時に村上仏山に就いて漢学・漢詩を学び、上京して伊藤博文の知遇を得、官界に入った後に政界に転じ、逓信大臣や内務大臣を歴任した人ですが、同時に評論家・翻訳家・漢詩人としても活躍しています。その書に、『青萍集』四巻・『青萍雜詩』一巻・『青萍詩存』一巻等が有ります。
木蘇岐山(1857~1916)
名を牧と言い、美濃の人です。彼は、儒者で大垣藩の侍読であった木蘇大夢の第二子で、漢学を野村藤陰や佐藤牧山に学び、典故考証に精通し詩を善くしています。維新後は上京して森槐南や矢土錦山らと交遊し、東京新聞の漢詩欄を担当して名声を得、富山で湖海吟社を、金沢で霊沢吟社を興し、晩年は大阪に住して病死した漢詩人です。その書に、『五千卷堂集』十七巻・『星巌集註』二十一巻等が有ります。
大江敬香(1857~1916)
名を孝之と言い、阿波の人です。彼は、藩校修文館で漢学を修め、藩命に因り英国に留学、十六歳で慶應義塾に入り、更に東京帝大文科に進みますが、病気で退学します。その後、静岡新聞・山陽新聞・神戸新聞などで主筆・主幹を歴任した後に東京府庁職員となり、五年ほどで退職し以後は漢詩文の制作に専念し、菊池三渓を師として森父子らと交わり、漢詩雑誌の『花香月影』や『風雅報』などを刊行しています。彼が神戸で起こした愛琴吟社に出入りしていたのが、福井學圃・大久保湘南・佐藤六石・落合東郭・谷楓橋・森川竹渓ら、当時の若手漢詩人達です。その書に、『敬香詩鈔』一巻が有ります。
本田種竹(1862~1907)
名を秀と言い、徳島の人です。彼は、学芸に志して阿波藩の儒者岡本晤堂に漢詩・漢学を学び、上洛して江馬天江や頼支峰らと交友を結びます。維新後は上京して官途に就きますが、退官後は詩文を事とした生活を送っています。その書に、『懐古田舎詩存』六巻・『戊戌遊草』二巻等が有ります。
明治の漢文
明治を代表する漢文の作者と言えば、重野成斎・中村敬宇・三島中洲・川田甕江・竹添井井の五人を挙げることが出来ます。
重野成斎(1827~1910)
名を安繹と言い、薩摩の人です。彼は、十六歳で藩校造士館に入り、二十三歳で江戸の昌平黌に入ります。明治四年に文部省に出仕し、二十年に東京帝国大学文科教授となります。彼の著作には『国史眼』『皇朝世鑑』などが有り、作品集に『成斎文集』『成斎遺稿』が有ります。
中村敬宇(1827~1910)
名を正直と言い、江戸の人です。彼は、昌平黌に入り佐藤一斎の教えを受けます。慶応二年に英国に留学し、帰国後は大蔵省に出仕し、その後東京帝国大学文科教授となります。彼の著作には『西国立志編』『自由之理』などが有り、作品集に『敬宇文集』『敬宇詩集』が有ります。
三島中洲(1830~1915)
名を毅と言い、備中の人です。彼は、十四歳で山田方谷の門に入り、二十八歳で昌平黌に入り佐藤一斎・安積艮斎の教えを受けます。明治五年に司法官となりますが、十年に官を辞めて子弟の教育のために二松学舎(現在の二松学舎大学の前身)を設立し、その後東京帝国大学文科教授となります。彼の著作には『論語講義』などが有り、作品集に『中洲文稿』『中洲詩稿』が有ります。
川田甕江(1830~1896)
名を剛と言い、備中の人です。彼は、山田方谷の門に入り、次いで昌平黌に入り古賀茶渓・大橋納庵の教えを受け、更に安井息軒・藤森天山に師事しています。明治十四年に内務省に出仕し、大学教授を兼ねます。彼の著作には『読史余談』『文海指針』などが有り、作品集に『甕江文鈔』が有ります。
竹添井井(1842~1917)
名を光鴻と言い、肥後の人です。彼は、広瀬淡窓に学び、維新の時は藩命を以て活躍します。明治に入り、外務省に出仕して天津総領事など外交官として活躍し、十九年に東京帝国大学文科教授となります。彼は、漢詩文のみならず、経書の学にも造詣の深い人です。彼の著作には『左氏会箋』『論語会箋』『毛詩会箋』『孟子論文』『桟雲峡雨日記』などが有り、作品集に『独抱楼遺稿』『井井?稿』が有ります。
明治の漢学者
既に述べた様に、漢学は衰微の道を辿り経史の学は不振を極めます。初期には、周易の大家たる根本通明ら幕末以来の碩学鴻儒が気を吐きますが、学制が大きく変わった後は、誠に寥々たるもので、江戸の隆盛には比べようも有りません。
江戸以来の昌平黌が廃しされ、東京帝国大学が明治十年に開設され、その文科の中に和漢文学科が設置されていますが、十六年までは講義は全て英語で行われています。そのため、和漢学の後継者不足が生じてその養成が説かれだし、十五年に古典講習科(甲部)と支那古典講習科(乙部)とが設置されます。当時の乙部の教授陣は、教授が中村敬宇・三島中洲・島田篁村で、助教授が井上哲次郎、講師に南摩羽峰・秋月韋軒・内藤恥叟・信夫恕軒ら、と言う布陣です。
この新設科乙部の出身者が、その後の日本の漢学を担う人々です。『周公とその時代』の名著で中国にまで名の知れた林泰輔・『史記会注考證』を著した瀧川亀太郎・市村サン次郎・岡田正之・児嶋献吉郎・山田済斎・嶋田鈞一・安井小太郎等です。他方京都帝国大学では、『支那史学史』を著した内藤湖南(歴史)・『中国哲学史』を著した狩野直喜(思想)・『陶淵明詩解』『白樂天詩解』などを著した鈴木豹軒(文学)らが教壇に立ち、その後の京都支那学の基礎を作り上げます。
また独学で経学や文学を修めて東洋大学の教授となったのが、『支那文学史』を著した古城坦堂です。更に美術批評を中心とした評論家で活躍しながら、同時に中国学にも造詣が深かったのが笹川臨風です。一方野に在って、朝日新聞社の記者として健筆を振るいながら『日本宋学史』を著し、大阪懐徳堂の復興に尽力して晩年には京都帝大で『楚辞』を講じた、市井の漢学者にして文芸家が西村天囚です。同様に、京都に住して在野の学者として研究と講学に従事しながら、詩書画三昧の生活を送って中国学の発展に大きく寄与したのが、大文人の長尾雨山です。
この様な明治後半に在って、特筆すべきは井上哲治郎だと思います。彼は、明治三十年代に江戸の儒学を総括して発表しますが、それが井上の漢学三部作と称されるものです。
井上哲治郎と漢学三部作
井上哲治郎は、従来の漢学者と異なり東大で哲学と政治学を専攻し、長期にヨーロッパ留学を行った、当時の超エリートです。彼は、明治三十三年に『日本陽明学派之哲学』(富山房)を、三十五年に『日本古学派之哲学』(富山房)を、三十八年に『日本朱子学派之哲学』(富山房)を上梓し、江戸一代の儒学を総括して見せます。
彼がこの三部作を発表した理由は、その序文に因ると「当時の道徳実践の荒廃に鑑み、東洋・西洋の哲学を打って一丸となり、その上に出ることが今日の学問の急務である」と言っています。ここには、明治三十年代と言う時代背景が、色濃く反映されています。
『日本陽明学派之哲学』では、中江藤樹を筆頭にその学派に連なる人々の来歴と業績を述べ、『日本古学派之哲学』では、山鹿素行から筆を起こして伊藤仁斎・東涯父子及び荻生徂徠などを論じ、『日本朱子学派之哲学』では、藤原惺窩・林羅山から水戸学までを述べています。
著述の動機や背景などを云々せずに見た時、やや表層的な見方に過ぎる点も無い訳では有りませんが、それでも以後の日本漢学研究の一つの基礎を提供した、貴重な著作であると言えます。
大正・昭和の漢詩
明治後半から大正・昭和初期にかけて活躍した漢詩人には、津田天游・水谷奥嶺・日下勺水・股野藍田・岩溪裳川・福井學圃・落合東郭・渡貫香雲・大橋雲外・菊池晩香・戸田欽堂・土井香国・杉浦梅窓・長尾雨山・西村天囚・坂口五峯・佐藤六石・飯塚西湖・石田東陵・国分青厓・服部担風・田辺碧堂・磯野秋渚・藤野君山・仁賀保香城・館森袖海・国分漸庵・松浦鸞洲・滑川澹如・桂湖村・内藤湖南・久保天随・鈴木豹軒・土屋竹雨・岡崎春石・藤波千渓・坪井咬菜・園田天放・結城蓄堂・今関天彭・沢野江舟・西川菊畦・牧野藻洲・本城問亭・安井朴堂・松平天行・滝川君山・内田遠湖・川田雪山・山田済斎・加藤天淵・安達漢城・塩谷節山・矢野甘泉・木村霞邨・四宮月洲・伊藤虚堂・伊藤鴛城・森谷金峯などがいますが、漢詩を以て一家を張ったのは、岩溪裳川と国分青厓と土屋竹雨とで、また地方に於いて詩名を馳せたのが名古屋の服部担風と、九州詩壇の巨星を以て目された宮崎來城です。
岩溪裳川(1852~1943)
名を晋と言い、兵庫県の人です。彼は、儒者であった父岩溪達堂から家学を受けて漢文の素読を習い、上京して森春濤に漢詩を学んで高足と称され、国分青厓と共に「二大詩宗」と並称され、芸文社顧問や二松学舎大学教授を務めています。彼の作品集に『裳川自選稿』が有ります。
国分青厓(1857~1944)
名を高胤と言い、宮城県の人です。彼は、司法省第一期法学生となりますが、退学して日本新聞の記者となり、漢詩欄を担当して自らも発表し、当時の詩壇を賑わします。大正十二年に、大東文化学院(現大東文化大学)の教授となり、各詩社や雑誌『昭和詩文』『東華』などの顧問を務め、大正期の漢詩壇に君臨します。彼の作品集に『青厓詩存』が有ります。
服部担風(1857~1944)
名を轍と言い、愛知県の人です。彼は、森槐南らに師事して雅声社を開き、一貫して愛知に在って作詩の指導に貢献した人で、昭和二十八年には日本芸術院賞を受賞しています。その書に、『担風詩集』七冊が有ります。
宮崎來城(1871~1933)
名を繁吉と言い、十久留米の人です。彼は、久留米藩士で俳人であった宮崎松語の長男ですが、三歳で父母を失い、山下桃蹊や江崎巽菴らに就いて刻苦勉学し、性格は磊落で任官を好まず、日本全国や中国・台湾を遊歴して作詩に情熱を傾け、九州詩壇の巨星を以て目された漢詩人です。
土屋竹雨(1887~1958)
名を久泰と言い、山形県の人です。彼は、明治四十二年に東京帝国大学法学部政治科に入り法学を修めますが、同時に岩渓裳川から漢詩を学んでいます。昭和三年に、漢詩雑誌『東華』を刊行しますが、この雑誌には中国の大家鄭孝胥・升允・汪栄宝なども投稿しています。昭和十年に大東文化学院教授となり、二十三年に学院総長となります。彼の著作には『大正五百家絶句』『昭和七百家絶句』『漢詩大講座』などが有り、作品集に『猗廬詩稿』が有ります。
叢書と影印和刻本
明治から大正にかけて漢学が衰微する中で、まるでその流れに反する様に、大型の漢文に関する叢書が作られます。また、江戸時代には経史子集を問わず多くの漢籍の版本が刊行された時代ですが、昭和に入ると、それらをテーマ別に集めて排印出版したり、原本を影印出版したりしています。以下に、その代表的なものを年代順に列挙します。
叢書部門
『蛍雪軒叢書』十冊、近藤元粋編、青木嵩山堂刊
明治二十五年に出版された叢書で、中国の歴代の詩話五十九種に返り点を付し、合わせて近藤の評定を加えた和装本です。司空図の『二十四詩品』・歐陽修『六一詩話』・朱承爵の『存余堂詩話』・沈徳潜の『説詩?語』などが、収められています。近藤には、他にも『蛍雪軒論画叢書』六冊も有ります。彼は、明治期に多くの漢籍に訓点を付けて出版した人物で、その書は当時広く流布していました。尚、彼自身の蔵書は、現在大阪天満宮御文庫に収められています。
『漢籍国字解全書』四十五冊、早稲田大学出版部編
明治四十二年から大正六年にかけて順次出版された叢書で、『書経』『詩経』『老子』『荀子』など経子が中心で、集のものは『楚辞』『古文真寶』『文章規範』『唐宋八家文』『唐詩選』だけです。本全書には「先哲遺著」と銘うった、江戸の儒者(林羅山・荻生徂徠・熊沢蕃山など)の国字解ものを集めた第一輯十二冊と、新たに注釈(菊池晩香・松平康国・桂湖村など)を加えた第二・三・四輯三十三冊とが有ります。
『漢文大系』二十二冊三十八種、服部宇之吉編、富山房刊
明治四十二年から大正五年にかけて順次出版された叢書で、中国の古典を系統的に知るための基本図書を、権威有る原注(鄭玄注『礼記』・玄宗注『孝経』・許愼注『淮南子』・竹添井井注『左氏会箋』・太田方注『韓非子翼毳』など)とともに刊行することを、目的としています。編集の任に当たった服部は、全三十八種中の約半分十七種の解題を担当しています。
『少年叢書漢文学講義』二十六冊、興文社刊
明治二十四年以来長期に渉って刊行された叢書で、本文に返り点・送り仮名を付け、通釈と語釈を加えてた和装本です。面白いのは、中国の漢籍以外に『日本外史』が加えられている点です。
『校註漢文叢書』十二冊、久保天隨編、博文館刊
大正元年から三年にかけて順次出版された叢書で、毛利貞斎の『論語集註俚諺鈔』・勝田祐義の『孝経国字解』・素隠の『三体詩鈔』・釈笑雲の『古文真宝抄』などが、収められています。
『対訳詳註漢文叢書』四十冊、有朋堂刊
大正八年から十四年にかけて順次出版された叢書で、注解と国訳とを載せています。本叢書は、一般的な漢籍以外に『女四書』『菜根譚』などを採取し、更に『日本外史』『先哲叢談』なども加えてあります。
『国訳漢文大成』四十冊、国民文庫刊
大正十一年から順次出版された叢書で、経史子部二十冊と文学(集)部二十冊とで構成されています。全て書き下し文にして注釈を付け、原文は巻末に載せてあります。特に良いのは文学部門で、文言の『楚辞』や『文選』だけではなく、白話小説の『水滸傳』『紅樓夢』や元曲の『西廂記』『琵琶記』『牡丹亭還魂記』なども、含んでいます。本大成には和装本と洋装本の二種類が有り、更に続編の『続国訳漢文大成』には、陶淵明・李白・杜甫・白居易・韓愈・蘇東坡などの詩集や、『資治通鑑』『貞観政要』『二十二史剳記』などが、入れられています。
『日本名家四書註釈全書』十三冊、関儀一郎編、東洋図書刊行会刊、鳳出版復刻刊
大正十一年から昭和五年にかけて順次出版された叢書で、江戸時代の儒者の四書に関する注釈書を集めたものです。正編は十冊で、十七人の三十二種が収められ、続編は三冊で、五人の十一種が収められています。
『日本詩話叢書』十巻、池田蘆洲編、鳳出版復刻刊
大正九年から十一年にかけて順次出版された叢書で、江戸時代の文人五十三人が著した詩話六十六種が、収められています。祇園南海の『詩訳』・山本北山の『孝経楼詩話』・市河寛斎の『談唐詩選』・菊池五山の『五山堂詩話』などで、原文が漢文のものには、書き下し文が付けられています。
『詳解全訳漢文叢書』十二冊、至誠堂刊
昭和元年から三年にかけて順次出版された叢書で、全訳を施しています。本叢書は、一般的な漢籍以外に『日本外史』『日本政記』『日本楽府』『言志録』などを採取しています。
『崇文叢書』二輯、崇文書院編
昭和元年から七年にかけて順次出版された叢書で、日本の先哲の名著を集め返り点を付けた和装本です。第一輯十種、第二輯十三種の構成で、第一輯には、空海の『篆隷万象名義』・松崎慊堂の『慊堂全集』など、第二輯には安井息軒の『毛詩輯疏』・竹添井井の『論語会箋』などが、収められています。
『日本芸林叢書』十二巻、池田四郎次郎等編、六合館刊、鳳出版復刻刊
昭和二年から四年にかけて順次出版された叢書で、日本の近世の漢学者・国学者の学芸随筆類を集めたものです。
『日本儒林叢書』九冊、関儀一郎編、鳳出版復刻刊
昭和二年から順次出版された叢書で、日本の古今の儒家の名著を、随筆・史伝・書簡・論弁・解説の五部に分けて、収めてあります。
『漢詩大觀』五冊、佐久節編、関書院刊
昭和十一年から十四年にかけて順次出版された叢書で、詩集三冊、索引二冊の構成です。索引は一句を基本として、一句の頭字の筆画順に並べてありますので、句から詩題や作者を知るのには便利です。詩集は『古詩源』『陶淵明集』『玉台新詠』『唐詩選』『三体詩』『李太白集』『杜少陵詩集』『黄山谷詩集』『陸放翁詩集』などが採取されています。
伝記資料部門
江戸時代には漢学者に関する伝記資料として、原念斎の『先哲叢談』が有りますが、昭和に入り、大きく纏められたものが有ります。
『漢学者伝記集成』竹林貫一編、関書院刊
昭和三年の本で、江戸時代から大正年間死亡の漢学者三百八十一名の伝記で、年代順に排列してあります。
『漢学者伝記及著述集覧』小川貫道編、関書院刊
昭和十年の本で、日本の漢学者の伝記と著述目録で、千三百名について、生地・生没年・学統・略伝・著書などが、記されています。
『近世漢学者伝記著作大事典』関儀一郎編、井田書店刊
昭和十八年の本で、近世漢学者の伝記と書目が五十音順に配列記載されており、人員は二千九百名・書目は二万余種が記されており、付録として「漢学者学統譜」と「近世漢学年表」が、末尾に付けられています。
影印和刻本部門
近年、影印による和刻本が多く出版されていますが、和刻本の原貌を窺うには便利です。江戸時代には、漢籍の和刻は言うに及ばず漢学者の著述も多く刊行されていますが、近年その原本を探すのは大変ですので、これら影印和刻本を利用すれば良いと思います。この影印和刻本を鋭意出版しているのが汲古書院で、その和刻本シリーズには、書誌学者長沢規矩也氏の解題が巻頭に付けられています。参考のために、それらを列挙しておきますが、出版は全て汲古書院です。
『和刻本正史』三十九巻・『和刻本資治通鑑』四巻・『和刻本経書集成』七巻・『和刻本諸子大成』十二巻・『和刻本漢詩集成』三十巻・『和刻本漢籍文集』二十一巻・『和刻本漢籍随筆集』二十巻・『和刻本書画集成』十二巻・『和刻本類書集成』六巻・『和刻本文選』三巻・『和刻本明清資料集』六巻・『和刻本辞書字典集成』七巻・『詞華集日本漢詩』十一巻・『詩集日本漢詩』二十巻・『総集日本漢詩』四巻・『日本随筆集成』二十巻・『近世白話小説翻訳集』十三巻・『漢語文典叢書』六巻・『唐話辞書類集』二十巻・『明清俗語辞書集成』五巻、等です。
《閑話休題・6》
現代では、漢詩を作る人をあまり見かけませんが、それでも高尚な趣味として結構多くの人々が作っています。例えば、東京の湯島に有る聖堂(元昌平黌跡)には、「聖社詩会」と言うのが有り、財団法人斯文会の雑誌『斯文』には、そこでの作品が毎号載せられています。
また財団法人無窮会の学会誌『東洋文化』にも「詩林」の項が有り、毎号八十首前後の漢詩が載せられています。尚、平成十五年には、「全日本漢詩連盟」が、旗揚げされています。
一方、江戸以来の諸芸の中で、著しい発展を遂げたのが書です。現在の書道界の隆盛が、それを端的に示しています。幕末(慶応三年・1867以前)の生まれで、明治の後半から昭和の前半にかけて、書道教育や書製作で活躍した人々は、それこそ枚挙に暇がない程ですが、彼等に共通して見られる点は、自ら製作した漢詩や和歌を書くと言うことで、単なる書の表現のみに止まらず、言葉自体が自らの漢学や国学の教養に裏付けされており、書作品として如何に表現するかを追求する所謂「芸術書道」ではなく、学問と表現が混在した諸芸の一つである所謂「学芸書道」であったと思われることです。
代表的な人としては、漢字の岡本碧巌・市河万庵・秋山碧城・平戸星洲・後藤潜龍・日下部鳴鶴・山内香溪・土肥樵石・小山雲潭・福岡敬堂・大邨楊城・野村素軒・川村東江・荒木雲石・香川松石・長岡研亭・三好芳石・高島九峰・石橋二洲・若林快雪・恒川鴬谷・西川春洞・川上泊堂・高山文堂・齋藤芳洲・樋口竹香・山田古香・前田黙鳳・金井信仙・玉木愛石・開沢霞菴・岡村黒城・日高梅谿・杉山三郊・中川南巌・久志本梅荘・市川塔南・岡本可亭・湯川梧窓・朝倉龍洞・山口豪雨・浅野醒堂・赤星藍城・亀田雲鵬・細田劍堂・田邨東谷・都郷鐸堂・角田孤峯・江上瓊山・貝原遜軒・高林五峰・高田竹山・天野東畊・柳田泰麓・大島君川・近藤雪竹・丹羽海鶴・広橋研堂・小室樵山・北方心泉・松田南溟・渡辺沙鴎・本田退庵・黒崎研堂・金子三沢・山本竟山・藤野君山・辻香塢・水野疎梅・大野百練・稲本陽洲・武田霞洞・中村春坡・杉溪六橋・諸井春畦・黒木欽堂・稲田九皐・林春海・岩田鶴皐・中村不折・浅野松洞・岡西鯉山・宮島詠士ら、和文の多田親愛・植松有経・跡見花蹊・小野鵞堂・阪正臣・大口周魚・岡山高蔭などが挙げられます。
また篆刻では、原田西疇・円山大迂・山田寒山・浜村藏六(五世)・桑名鐵城・栗田石癖・寺西乾山・梛川雲巣・近藤尺天らで、明治初期生まれの人としては、足達疇邨・梨岡素岳・河井せん盧・園田湖城・石井雙石らが現れます。
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*代表的参考文献(昭和以後の通史)
*日本漢文に関する参考書は、分野・時代・対象等に因って、それこそ山の様に有りますが、ここでは、敢て昭和以降の代表的な通史的な書だけを挙げさせて頂きました。
『日本漢学史』牧野謙次郎著、世界堂、昭和三年。
『日本漢文学史』岡井慎吾著、明治書院、昭和九年。
『日本儒学史』安井小太郎著、富山房、昭和十四年。
『日本漢文学史』岡田正之著、吉川弘文堂、昭和二十九年。
『日本漢文学通史』戸田浩暁著、武蔵野書院、昭和三十二年。
『日本漢文学史講義』緒方惟精著、評論社、昭和三十六年。
『日本漢学』(中国文化叢書9)水田紀久等編、大修館書店、昭和四十三年。
『日本漢文学史概説』市川本太郎著、大安、昭和四十四年。
『日本漢文学史』猪口篤志著、角川書店、昭和五十九年。
『日本儒教史』市川本太郎著、汲古書院、平成四年。
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後記
本拙文は、授業での講義用の単なる備忘録的資料に過ぎない。筆者は、決して日本漢詩文や日本儒学の専家でもなければ、その分野に興味が無い訳では無いものの特段研究していると言う訳でもない。因って、本拙文には、新たな知見など何一つ含まれていない。全て先人の著書を参考にして、簡便に纏め縮め上げたものに過ぎない。専家の概説書や研究書は個々の分野毎に多く、それらを適宜参考にさせて頂いた。
本来、本拙文は、学科編纂のテキスト原稿制作の副産物である。『中国学研究入門?』(新入生無料配布)のテキスト制作に当たり、「日本漢文」の項目の執筆依頼を夏前に受けた。枚数が原稿用紙20枚前後と決められ、しかも締め切りが夏休み明けと、時間と分量が限定た中で、一体何を如何様に書くか、一口に「日本漢文」と言っても、漢詩文や漢文史書の流れや、儒教思想の多様な展開、更には漢字に依拠した書文化の発展等々も有る。これらをどの様に分かり易く纏めるか、将と悩んだ。
そこで先ず己自身が理解出来るように、各分野・各時代を簡便に纏めてみよう、更にそれを縮めようと考えたのである。その結果縮める前に出来上がった概略的且つ通史的な元原稿約300枚が、本拙文である。
将に倉卒の間とでも言うべき、僅か夏休み中の二週間強で纏め上げたため、当然遺漏や先人の考えを誤解している部分等、瑕疵の点多々有ることは免れ難い。既にテキスト原稿が推敲された今となっては、この元原稿は、無用の長物に過ぎない。さりとは雖も、このまま屑箱に捨て去るのも些か惜しい。
因って、授業用の備忘録として、敢て遺す事とした。全く以て汗顔の至りではあるが、駄馬の手す寂びとして御寛恕を切に請う次第である。
思えば、今を去る三十五年程前に、故猪口篤志先生の日本漢文の授業を受け、故藤野岩友先生の平安朝漢文学の授業も受けたが、それ以来日本漢文などに携わることは、殆ど無かった。二十年程前に短大で数年話した(江戸時代のみ)だけで、以後は全くご無沙汰の限りを尽くしていた。
所が二年前に、日本文学科から日本漢文学史の授業の依頼を受け、昔取った杵柄と押っ取り刀で引き受けさせて頂いたものの、悲しい哉、過去の知識など遙か忘却の彼方に消え去り、あわてて諸書を読み散らかして事に臨んでいる、と言う状況である。六十近くなっての再勉強、情けないやら悲しいやら、その反省も込めて原稿依頼を引き受けさせて頂いたと言う事である。
何やら「もっと真面目に俺の授業を受けていれば、あたふたする事は無いんだ」、と猪口先生に叱責されている様に思えてならない。これも、先生の授業の末席で、「どうせ単位充当の授業」などと言って、ろくにノートも採らず半分近く寝ていた愚かな学生の、今になって与えられたレポートであろうか、何か奇縁を感じてならない。
~授業用備忘録~
明 治 以 後 (士林時代・ 主たる担い手は知識人)
明治以後
明治の漢詩
明治の漢文
明治の漢学者
大正・昭和の漢詩
叢書と影印和刻本
《閑話休題・6》
*代表的参考文献(昭和以後の通史)
後記
明治以後
明治に至ると社会情勢が一変し、漢学は洋学に圧倒され衰微の道を辿ります。特に経史の学は不振を極め、大正・昭和にかけては、漢学の世界も大きく変化し、経子の学は中国哲学へ、詩文の学は中国文学へ、史の学は東洋史学へと分化し、個々に独立した学問分野として成立し、現在では所謂「漢学」と呼べる伝統的学問体系(経史子集を同時並行的に学び、漢詩・漢文を制作)は殆ど失われました。
しかし、この様な経史の学の衰微に反し、逆に漢詩・漢文の方は、明治期に大流行します。漢詩では、多くの詩社が林立し、漢文では、重野成斎・中村敬宇・三島中洲・川田甕江・竹添井井らが、気を吐きます。
この様に、江戸漢学の余勢の中で活況を呈した、明治の漢詩・漢文世界も、大正・昭和期に入ると、高尚な趣味として一部の人々に限られたものになってしまいます。
明治の漢詩
明治の前半期に漢詩壇が活況を呈した理由として、猪口篤志氏は、以下の四点を挙げています。
?当時の著名人、例えば幕末以来の諸侯(松平春岳・鍋島閑叟・山内容堂・伊達藍山ら)・維新の元勲(西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文ら)・政府の高官(勝海舟・巌谷一六・小原鉄心・土方秦山・中井櫻洲・長三洲ら)・学者(元田永孚・重野成斎・三島中洲・竹添井井ら)・軍人(乃木希典・山県有朋・樺山華山・谷隈山・広瀬武夫ら)が、善く詩を作ったこと。
?私塾の成立と、詩社の林立が見られたこと。
?発表機関としての雑誌や詩集の出版が容易になり、同時に新聞(毎日新聞・日本新聞・報知新聞・国民新聞など)が、漢詩欄を設けてその一翼を担ったこと。
?中国との交通が開け、人士の往来(日本で聞香詩社を開いた王仁成、清国公使館職員の黄遵憲や何如璋、清国に遊歴や留学した竹添井井・岸田吟香・宮島栗香・石川鴻斎・亀谷省軒・宮島詠士ら)が盛んになったこと。
この四つの理由の中で、明治と言う時代の風潮を、最もよく表していると思われるのが、?と?です。
明治四年に文部省が設置されて、学制が大きく変わると、知識と利益を重視した洋学が中心になり、漢学は制度上殆ど廃止されたも同然の様になります。これに抗するが如く多くの私塾が現れますが、その大半が幕末以来の碩学鴻儒の漢学塾です。そこでは広く漢学が講義され、漢詩・散文の制作が課せられていました。
また明治五年には、藤野海南の主唱で友誼交流を旨とした「旧雨社」が創設され、その社盟には、重野成斎・松平春岳・岡鹿門・鷲津毅堂・阪谷朗盧・南摩羽峰・木原老谷・那珂梧楼・小山春山・川田甕江・中村敬宇・秋月樂山・村山拙軒・萩原西疇・依田学海・信夫恕軒・亀谷省軒・天岸静堂・平田虚舟・青山清幽・岡本韋庵・島田篁村・股野藍田・日下勺水・小野湖山・岡松甕谷・座光寺半雲・西岡宜軒・四谷穂峰・小永井小舟・森春濤らが、加わっています。
当時、東京に存在していた私塾は、漢唐の注疏を好み古学を講じた安井息軒の三計塾・陽明学を説いた三島中洲の二松学舎・儒教道徳と六芸の実践こそが学問であると称した中村敬宇の同人社・古学の精密性と宋学の論理的思想性及び清朝考証学の合理性の兼有を述べ、『史記會注考證』の瀧川亀太郎や西村天囚が学んだ島田篁村の双桂精舎・古学と六芸の実践を旨とした塩谷箕山の晩香堂・後の東大教授で東洋史学者である市村サン次郎が学んだ小永井小舟の濠西精舎・山井清渓の清渓塾・大沼枕山の大沼学舎・岡鹿門の綏猷堂などが有り、更には箕山の長子塩谷青山の菁莪書院なども有ります。
地方でも、新潟では桂湖村・小柳司気太・鈴木虎雄らを輩出した鈴木文台の長善館、埼玉では中島撫山の幸魂教舎、郷里の長野で子弟教育に尽力した依田稼堂の有隣塾、名古屋では佐藤牧山が門弟に教授し、京都の草場船山の敬塾、大阪では近藤元粋の猶興書院や、欧化主義を憤慨して雑誌『弘道新説』を発刊し、道徳を論じて漢学の普及に努めた藤沢南岳も私塾を開いていますし、岡山では陽明学を奉じた山田方谷の刑部塾が有り、九州では、門弟数千人に及んだ村上仏山の水哉園や、咸宜園の広瀬林外や広瀬青邨及び草場船山・長梅外・長三洲・釈五岳・谷口藍田・堤静斎・柴秋村等も詩名を馳せています。
私塾以上に自由に作られたのが詩社で、最も設立の古い鱸松塘の七曲吟社(神林香国・大島怡斎ら)・交流の広さを誇った成島柳北の白鴎吟社(依田学海・瓜生梅村ら)・杜甫を宗とした岡本黄石の麹坊吟社(杉聴雨・日下部鳴鶴・矢土錦山ら)・蘇東坡を崇んだ向山黄村の晩翠吟社(田辺松坡・巌谷一六・古沢介堂・田辺蓮舟ら)・宋詩を尊んだ大沼枕山の下谷吟社(植村蘆洲・杉浦梅潭・嵩古香ら)・清詩を鼓吹した森春濤の茉莉吟社(丹羽花南・永坂石タイ・神波即山・奥田香雨・高野竹隠・徳山樗堂・森川竹渓・岩渓裳川・阪本蘋園・橋本蓉塘・杉山三郊ら)・唐詩を宗として関西で活躍した小野湖山の優遊吟社などが有り、交流合併を繰り返しつつ、最終的に明治の前半を風靡したのは、森春濤の茉莉吟社で、後期は春濤の子槐南の星社です。
当時出版された漢詩関係の雑誌には、森春濤の『新文誌』・佐田白茅の『明治詩文』・大江敬香の『花香月影』・大久保湘南の『随鴎集』等が有り、また漢詩欄を設けた新聞には、森槐南を撰者とした毎日新聞・国分青厓を撰者とした日本新聞を初めとして、報知新聞・国民新聞・自由新聞・時事新聞等が有ります。
要するに、明治の漢詩壇に在って、その中心に居て隆盛を唱導したのは、森親子であったと言えます。春濤の門下には、丹羽花南・神波即山・橋本蓉塘らがおり、槐南門下には、野口寧斎・大久保湘南・上村売剣らがいます。
春濤と槐南
森春濤(1819~1889)
名を魯直と言い、尾張の人です。彼は、清朝の詩を推奨して一家をなし、その詩会には必ず美妓を侍らせて憚らず、世人は「詩会」と言わないで「桃花会」と囃し立てた、と言う一種の天才的漢詩人です。彼の茉莉吟社には、鷲津毅堂・巌谷一六ら、当時を代表する錚々たる漢詩人が参集し、春濤の天下と言うに相応しい様相を呈しています。彼は、明治八年に『東京才人絶句』』二巻を刊行して評判を得ると、『清三家絶句』や『清廿四家』を刊行し、自ら『新詩文』と言う機関誌も発行します。尚、彼自身の作品集に、『春濤詩鈔』二十巻が有ります。
森槐南(1863~1911)
名を公泰と言い、尾張の人です。彼は、鷲津毅堂や三島中洲に学び、東京帝国大学文科講師になった人です。彼の星社には、田辺碧堂・土井(居)香国・森川竹渓らが集まり、更に父春濤の門人らが羽翼したため、明治の後期には、漢詩壇の一大勢力となります。彼には、中国の詩を解釈した『杜詩講義』『李詩講義』『韓詩講義』『李義山詩講義』『唐詩選評釈』等が有り、彼自身の作品集として、『槐南集』八冊巻が有ります。
その他の人々
副島蒼海(1828~1905)
名を種臣と言い、佐賀の人です。彼は、佐賀藩の国学教授枝吉南濠の次男で、早くより家学を受け副島利忠の養子となって国事に奔走し、明治新政府では外務卿や内務大臣を歴任します。森一派に因る清詩提唱に席巻される明治詩壇に在って、漢魏の古調を強く唱えた人です。その書に、『蒼海全集』六巻が有ります。
嵩古香(1837~1919)
名を俊海と言い、埼玉の東松山市の人です。真宗大谷派了善寺の第十代住職として生きた彼は、幼少より漢詩に親しみ、十六歳で漢詩を作り出し、大沼枕山に師事していますが、枕山自身が菊池五山に詩を学び、梁川星巌の門に入って詩名を馳せた人であれば、古香も星巌の流れを汲む詩人であると言えます。彼は、寺の有る東松山市から殆ど動くこと無く、江戸末から大正にかけて起こった事件や事象を、一万首を超える漢詩に詠じています。将に激動の時代を活写した詠史詩の雄であり、当時を代表する「方外の詩人」であると言えます。
秋月天放(1839~1913)
名を新と言い、日田の人です。彼は、佐伯藩の儒者秋月橘門の子で、家学を継承しつつ広瀬淡窓に師事し、詩を善くした漢詩人として知られています。維新後は新政府に仕え、三河県知事・葛飾県知事・文部省参事官・女子高等師範学校校長などを歴任し、貴族院議員になっています。その書に、『天放存稿』一巻・『知雨楼詩存』十巻等が有ります。
大須賀イン軒(1841~1912)
名を履と言い、磐城の人です。彼は、平藩の儒者神林復所の次男で、江戸の昌平黌に入って安積艮齋に師事し、帰郷して藩の督学となり、維新後は十年ほど悠々自適の生活を送った後に、仙台の第二高等学校(現、東北大学)の漢文担当教授となった人です。その書に、『イン軒文集』二巻・『イン軒詩集』四巻等が有ります。
土屋鳳洲(1841~1926)
名を弘と言い、和泉の人です。彼は、九歳で藩校講習館に入り、相馬九方に就いて古学を学び、次いで但馬の池田草庵に就いて朱子学や陽明学を学び、後に岸和田藩の藩校教授となり、維新後は師範学校の校長などを歴任した漢学者です。その書に、『孝経纂釈』一巻・『晩晴楼詩鈔』二巻・『晩晴楼文鈔』三巻等が有ります。
末松青萍(1855~1920)
名を謙澄と言い、福岡の人です。彼は、十歳の時に村上仏山に就いて漢学・漢詩を学び、上京して伊藤博文の知遇を得、官界に入った後に政界に転じ、逓信大臣や内務大臣を歴任した人ですが、同時に評論家・翻訳家・漢詩人としても活躍しています。その書に、『青萍集』四巻・『青萍雜詩』一巻・『青萍詩存』一巻等が有ります。
木蘇岐山(1857~1916)
名を牧と言い、美濃の人です。彼は、儒者で大垣藩の侍読であった木蘇大夢の第二子で、漢学を野村藤陰や佐藤牧山に学び、典故考証に精通し詩を善くしています。維新後は上京して森槐南や矢土錦山らと交遊し、東京新聞の漢詩欄を担当して名声を得、富山で湖海吟社を、金沢で霊沢吟社を興し、晩年は大阪に住して病死した漢詩人です。その書に、『五千卷堂集』十七巻・『星巌集註』二十一巻等が有ります。
大江敬香(1857~1916)
名を孝之と言い、阿波の人です。彼は、藩校修文館で漢学を修め、藩命に因り英国に留学、十六歳で慶應義塾に入り、更に東京帝大文科に進みますが、病気で退学します。その後、静岡新聞・山陽新聞・神戸新聞などで主筆・主幹を歴任した後に東京府庁職員となり、五年ほどで退職し以後は漢詩文の制作に専念し、菊池三渓を師として森父子らと交わり、漢詩雑誌の『花香月影』や『風雅報』などを刊行しています。彼が神戸で起こした愛琴吟社に出入りしていたのが、福井學圃・大久保湘南・佐藤六石・落合東郭・谷楓橋・森川竹渓ら、当時の若手漢詩人達です。その書に、『敬香詩鈔』一巻が有ります。
本田種竹(1862~1907)
名を秀と言い、徳島の人です。彼は、学芸に志して阿波藩の儒者岡本晤堂に漢詩・漢学を学び、上洛して江馬天江や頼支峰らと交友を結びます。維新後は上京して官途に就きますが、退官後は詩文を事とした生活を送っています。その書に、『懐古田舎詩存』六巻・『戊戌遊草』二巻等が有ります。
明治の漢文
明治を代表する漢文の作者と言えば、重野成斎・中村敬宇・三島中洲・川田甕江・竹添井井の五人を挙げることが出来ます。
重野成斎(1827~1910)
名を安繹と言い、薩摩の人です。彼は、十六歳で藩校造士館に入り、二十三歳で江戸の昌平黌に入ります。明治四年に文部省に出仕し、二十年に東京帝国大学文科教授となります。彼の著作には『国史眼』『皇朝世鑑』などが有り、作品集に『成斎文集』『成斎遺稿』が有ります。
中村敬宇(1827~1910)
名を正直と言い、江戸の人です。彼は、昌平黌に入り佐藤一斎の教えを受けます。慶応二年に英国に留学し、帰国後は大蔵省に出仕し、その後東京帝国大学文科教授となります。彼の著作には『西国立志編』『自由之理』などが有り、作品集に『敬宇文集』『敬宇詩集』が有ります。
三島中洲(1830~1915)
名を毅と言い、備中の人です。彼は、十四歳で山田方谷の門に入り、二十八歳で昌平黌に入り佐藤一斎・安積艮斎の教えを受けます。明治五年に司法官となりますが、十年に官を辞めて子弟の教育のために二松学舎(現在の二松学舎大学の前身)を設立し、その後東京帝国大学文科教授となります。彼の著作には『論語講義』などが有り、作品集に『中洲文稿』『中洲詩稿』が有ります。
川田甕江(1830~1896)
名を剛と言い、備中の人です。彼は、山田方谷の門に入り、次いで昌平黌に入り古賀茶渓・大橋納庵の教えを受け、更に安井息軒・藤森天山に師事しています。明治十四年に内務省に出仕し、大学教授を兼ねます。彼の著作には『読史余談』『文海指針』などが有り、作品集に『甕江文鈔』が有ります。
竹添井井(1842~1917)
名を光鴻と言い、肥後の人です。彼は、広瀬淡窓に学び、維新の時は藩命を以て活躍します。明治に入り、外務省に出仕して天津総領事など外交官として活躍し、十九年に東京帝国大学文科教授となります。彼は、漢詩文のみならず、経書の学にも造詣の深い人です。彼の著作には『左氏会箋』『論語会箋』『毛詩会箋』『孟子論文』『桟雲峡雨日記』などが有り、作品集に『独抱楼遺稿』『井井?稿』が有ります。
明治の漢学者
既に述べた様に、漢学は衰微の道を辿り経史の学は不振を極めます。初期には、周易の大家たる根本通明ら幕末以来の碩学鴻儒が気を吐きますが、学制が大きく変わった後は、誠に寥々たるもので、江戸の隆盛には比べようも有りません。
江戸以来の昌平黌が廃しされ、東京帝国大学が明治十年に開設され、その文科の中に和漢文学科が設置されていますが、十六年までは講義は全て英語で行われています。そのため、和漢学の後継者不足が生じてその養成が説かれだし、十五年に古典講習科(甲部)と支那古典講習科(乙部)とが設置されます。当時の乙部の教授陣は、教授が中村敬宇・三島中洲・島田篁村で、助教授が井上哲次郎、講師に南摩羽峰・秋月韋軒・内藤恥叟・信夫恕軒ら、と言う布陣です。
この新設科乙部の出身者が、その後の日本の漢学を担う人々です。『周公とその時代』の名著で中国にまで名の知れた林泰輔・『史記会注考證』を著した瀧川亀太郎・市村サン次郎・岡田正之・児嶋献吉郎・山田済斎・嶋田鈞一・安井小太郎等です。他方京都帝国大学では、『支那史学史』を著した内藤湖南(歴史)・『中国哲学史』を著した狩野直喜(思想)・『陶淵明詩解』『白樂天詩解』などを著した鈴木豹軒(文学)らが教壇に立ち、その後の京都支那学の基礎を作り上げます。
また独学で経学や文学を修めて東洋大学の教授となったのが、『支那文学史』を著した古城坦堂です。更に美術批評を中心とした評論家で活躍しながら、同時に中国学にも造詣が深かったのが笹川臨風です。一方野に在って、朝日新聞社の記者として健筆を振るいながら『日本宋学史』を著し、大阪懐徳堂の復興に尽力して晩年には京都帝大で『楚辞』を講じた、市井の漢学者にして文芸家が西村天囚です。同様に、京都に住して在野の学者として研究と講学に従事しながら、詩書画三昧の生活を送って中国学の発展に大きく寄与したのが、大文人の長尾雨山です。
この様な明治後半に在って、特筆すべきは井上哲治郎だと思います。彼は、明治三十年代に江戸の儒学を総括して発表しますが、それが井上の漢学三部作と称されるものです。
井上哲治郎と漢学三部作
井上哲治郎は、従来の漢学者と異なり東大で哲学と政治学を専攻し、長期にヨーロッパ留学を行った、当時の超エリートです。彼は、明治三十三年に『日本陽明学派之哲学』(富山房)を、三十五年に『日本古学派之哲学』(富山房)を、三十八年に『日本朱子学派之哲学』(富山房)を上梓し、江戸一代の儒学を総括して見せます。
彼がこの三部作を発表した理由は、その序文に因ると「当時の道徳実践の荒廃に鑑み、東洋・西洋の哲学を打って一丸となり、その上に出ることが今日の学問の急務である」と言っています。ここには、明治三十年代と言う時代背景が、色濃く反映されています。
『日本陽明学派之哲学』では、中江藤樹を筆頭にその学派に連なる人々の来歴と業績を述べ、『日本古学派之哲学』では、山鹿素行から筆を起こして伊藤仁斎・東涯父子及び荻生徂徠などを論じ、『日本朱子学派之哲学』では、藤原惺窩・林羅山から水戸学までを述べています。
著述の動機や背景などを云々せずに見た時、やや表層的な見方に過ぎる点も無い訳では有りませんが、それでも以後の日本漢学研究の一つの基礎を提供した、貴重な著作であると言えます。
大正・昭和の漢詩
明治後半から大正・昭和初期にかけて活躍した漢詩人には、津田天游・水谷奥嶺・日下勺水・股野藍田・岩溪裳川・福井學圃・落合東郭・渡貫香雲・大橋雲外・菊池晩香・戸田欽堂・土井香国・杉浦梅窓・長尾雨山・西村天囚・坂口五峯・佐藤六石・飯塚西湖・石田東陵・国分青厓・服部担風・田辺碧堂・磯野秋渚・藤野君山・仁賀保香城・館森袖海・国分漸庵・松浦鸞洲・滑川澹如・桂湖村・内藤湖南・久保天随・鈴木豹軒・土屋竹雨・岡崎春石・藤波千渓・坪井咬菜・園田天放・結城蓄堂・今関天彭・沢野江舟・西川菊畦・牧野藻洲・本城問亭・安井朴堂・松平天行・滝川君山・内田遠湖・川田雪山・山田済斎・加藤天淵・安達漢城・塩谷節山・矢野甘泉・木村霞邨・四宮月洲・伊藤虚堂・伊藤鴛城・森谷金峯などがいますが、漢詩を以て一家を張ったのは、岩溪裳川と国分青厓と土屋竹雨とで、また地方に於いて詩名を馳せたのが名古屋の服部担風と、九州詩壇の巨星を以て目された宮崎來城です。
岩溪裳川(1852~1943)
名を晋と言い、兵庫県の人です。彼は、儒者であった父岩溪達堂から家学を受けて漢文の素読を習い、上京して森春濤に漢詩を学んで高足と称され、国分青厓と共に「二大詩宗」と並称され、芸文社顧問や二松学舎大学教授を務めています。彼の作品集に『裳川自選稿』が有ります。
国分青厓(1857~1944)
名を高胤と言い、宮城県の人です。彼は、司法省第一期法学生となりますが、退学して日本新聞の記者となり、漢詩欄を担当して自らも発表し、当時の詩壇を賑わします。大正十二年に、大東文化学院(現大東文化大学)の教授となり、各詩社や雑誌『昭和詩文』『東華』などの顧問を務め、大正期の漢詩壇に君臨します。彼の作品集に『青厓詩存』が有ります。
服部担風(1857~1944)
名を轍と言い、愛知県の人です。彼は、森槐南らに師事して雅声社を開き、一貫して愛知に在って作詩の指導に貢献した人で、昭和二十八年には日本芸術院賞を受賞しています。その書に、『担風詩集』七冊が有ります。
宮崎來城(1871~1933)
名を繁吉と言い、十久留米の人です。彼は、久留米藩士で俳人であった宮崎松語の長男ですが、三歳で父母を失い、山下桃蹊や江崎巽菴らに就いて刻苦勉学し、性格は磊落で任官を好まず、日本全国や中国・台湾を遊歴して作詩に情熱を傾け、九州詩壇の巨星を以て目された漢詩人です。
土屋竹雨(1887~1958)
名を久泰と言い、山形県の人です。彼は、明治四十二年に東京帝国大学法学部政治科に入り法学を修めますが、同時に岩渓裳川から漢詩を学んでいます。昭和三年に、漢詩雑誌『東華』を刊行しますが、この雑誌には中国の大家鄭孝胥・升允・汪栄宝なども投稿しています。昭和十年に大東文化学院教授となり、二十三年に学院総長となります。彼の著作には『大正五百家絶句』『昭和七百家絶句』『漢詩大講座』などが有り、作品集に『猗廬詩稿』が有ります。
叢書と影印和刻本
明治から大正にかけて漢学が衰微する中で、まるでその流れに反する様に、大型の漢文に関する叢書が作られます。また、江戸時代には経史子集を問わず多くの漢籍の版本が刊行された時代ですが、昭和に入ると、それらをテーマ別に集めて排印出版したり、原本を影印出版したりしています。以下に、その代表的なものを年代順に列挙します。
叢書部門
『蛍雪軒叢書』十冊、近藤元粋編、青木嵩山堂刊
明治二十五年に出版された叢書で、中国の歴代の詩話五十九種に返り点を付し、合わせて近藤の評定を加えた和装本です。司空図の『二十四詩品』・歐陽修『六一詩話』・朱承爵の『存余堂詩話』・沈徳潜の『説詩?語』などが、収められています。近藤には、他にも『蛍雪軒論画叢書』六冊も有ります。彼は、明治期に多くの漢籍に訓点を付けて出版した人物で、その書は当時広く流布していました。尚、彼自身の蔵書は、現在大阪天満宮御文庫に収められています。
『漢籍国字解全書』四十五冊、早稲田大学出版部編
明治四十二年から大正六年にかけて順次出版された叢書で、『書経』『詩経』『老子』『荀子』など経子が中心で、集のものは『楚辞』『古文真寶』『文章規範』『唐宋八家文』『唐詩選』だけです。本全書には「先哲遺著」と銘うった、江戸の儒者(林羅山・荻生徂徠・熊沢蕃山など)の国字解ものを集めた第一輯十二冊と、新たに注釈(菊池晩香・松平康国・桂湖村など)を加えた第二・三・四輯三十三冊とが有ります。
『漢文大系』二十二冊三十八種、服部宇之吉編、富山房刊
明治四十二年から大正五年にかけて順次出版された叢書で、中国の古典を系統的に知るための基本図書を、権威有る原注(鄭玄注『礼記』・玄宗注『孝経』・許愼注『淮南子』・竹添井井注『左氏会箋』・太田方注『韓非子翼毳』など)とともに刊行することを、目的としています。編集の任に当たった服部は、全三十八種中の約半分十七種の解題を担当しています。
『少年叢書漢文学講義』二十六冊、興文社刊
明治二十四年以来長期に渉って刊行された叢書で、本文に返り点・送り仮名を付け、通釈と語釈を加えてた和装本です。面白いのは、中国の漢籍以外に『日本外史』が加えられている点です。
『校註漢文叢書』十二冊、久保天隨編、博文館刊
大正元年から三年にかけて順次出版された叢書で、毛利貞斎の『論語集註俚諺鈔』・勝田祐義の『孝経国字解』・素隠の『三体詩鈔』・釈笑雲の『古文真宝抄』などが、収められています。
『対訳詳註漢文叢書』四十冊、有朋堂刊
大正八年から十四年にかけて順次出版された叢書で、注解と国訳とを載せています。本叢書は、一般的な漢籍以外に『女四書』『菜根譚』などを採取し、更に『日本外史』『先哲叢談』なども加えてあります。
『国訳漢文大成』四十冊、国民文庫刊
大正十一年から順次出版された叢書で、経史子部二十冊と文学(集)部二十冊とで構成されています。全て書き下し文にして注釈を付け、原文は巻末に載せてあります。特に良いのは文学部門で、文言の『楚辞』や『文選』だけではなく、白話小説の『水滸傳』『紅樓夢』や元曲の『西廂記』『琵琶記』『牡丹亭還魂記』なども、含んでいます。本大成には和装本と洋装本の二種類が有り、更に続編の『続国訳漢文大成』には、陶淵明・李白・杜甫・白居易・韓愈・蘇東坡などの詩集や、『資治通鑑』『貞観政要』『二十二史剳記』などが、入れられています。
『日本名家四書註釈全書』十三冊、関儀一郎編、東洋図書刊行会刊、鳳出版復刻刊
大正十一年から昭和五年にかけて順次出版された叢書で、江戸時代の儒者の四書に関する注釈書を集めたものです。正編は十冊で、十七人の三十二種が収められ、続編は三冊で、五人の十一種が収められています。
『日本詩話叢書』十巻、池田蘆洲編、鳳出版復刻刊
大正九年から十一年にかけて順次出版された叢書で、江戸時代の文人五十三人が著した詩話六十六種が、収められています。祇園南海の『詩訳』・山本北山の『孝経楼詩話』・市河寛斎の『談唐詩選』・菊池五山の『五山堂詩話』などで、原文が漢文のものには、書き下し文が付けられています。
『詳解全訳漢文叢書』十二冊、至誠堂刊
昭和元年から三年にかけて順次出版された叢書で、全訳を施しています。本叢書は、一般的な漢籍以外に『日本外史』『日本政記』『日本楽府』『言志録』などを採取しています。
『崇文叢書』二輯、崇文書院編
昭和元年から七年にかけて順次出版された叢書で、日本の先哲の名著を集め返り点を付けた和装本です。第一輯十種、第二輯十三種の構成で、第一輯には、空海の『篆隷万象名義』・松崎慊堂の『慊堂全集』など、第二輯には安井息軒の『毛詩輯疏』・竹添井井の『論語会箋』などが、収められています。
『日本芸林叢書』十二巻、池田四郎次郎等編、六合館刊、鳳出版復刻刊
昭和二年から四年にかけて順次出版された叢書で、日本の近世の漢学者・国学者の学芸随筆類を集めたものです。
『日本儒林叢書』九冊、関儀一郎編、鳳出版復刻刊
昭和二年から順次出版された叢書で、日本の古今の儒家の名著を、随筆・史伝・書簡・論弁・解説の五部に分けて、収めてあります。
『漢詩大觀』五冊、佐久節編、関書院刊
昭和十一年から十四年にかけて順次出版された叢書で、詩集三冊、索引二冊の構成です。索引は一句を基本として、一句の頭字の筆画順に並べてありますので、句から詩題や作者を知るのには便利です。詩集は『古詩源』『陶淵明集』『玉台新詠』『唐詩選』『三体詩』『李太白集』『杜少陵詩集』『黄山谷詩集』『陸放翁詩集』などが採取されています。
伝記資料部門
江戸時代には漢学者に関する伝記資料として、原念斎の『先哲叢談』が有りますが、昭和に入り、大きく纏められたものが有ります。
『漢学者伝記集成』竹林貫一編、関書院刊
昭和三年の本で、江戸時代から大正年間死亡の漢学者三百八十一名の伝記で、年代順に排列してあります。
『漢学者伝記及著述集覧』小川貫道編、関書院刊
昭和十年の本で、日本の漢学者の伝記と著述目録で、千三百名について、生地・生没年・学統・略伝・著書などが、記されています。
『近世漢学者伝記著作大事典』関儀一郎編、井田書店刊
昭和十八年の本で、近世漢学者の伝記と書目が五十音順に配列記載されており、人員は二千九百名・書目は二万余種が記されており、付録として「漢学者学統譜」と「近世漢学年表」が、末尾に付けられています。
影印和刻本部門
近年、影印による和刻本が多く出版されていますが、和刻本の原貌を窺うには便利です。江戸時代には、漢籍の和刻は言うに及ばず漢学者の著述も多く刊行されていますが、近年その原本を探すのは大変ですので、これら影印和刻本を利用すれば良いと思います。この影印和刻本を鋭意出版しているのが汲古書院で、その和刻本シリーズには、書誌学者長沢規矩也氏の解題が巻頭に付けられています。参考のために、それらを列挙しておきますが、出版は全て汲古書院です。
『和刻本正史』三十九巻・『和刻本資治通鑑』四巻・『和刻本経書集成』七巻・『和刻本諸子大成』十二巻・『和刻本漢詩集成』三十巻・『和刻本漢籍文集』二十一巻・『和刻本漢籍随筆集』二十巻・『和刻本書画集成』十二巻・『和刻本類書集成』六巻・『和刻本文選』三巻・『和刻本明清資料集』六巻・『和刻本辞書字典集成』七巻・『詞華集日本漢詩』十一巻・『詩集日本漢詩』二十巻・『総集日本漢詩』四巻・『日本随筆集成』二十巻・『近世白話小説翻訳集』十三巻・『漢語文典叢書』六巻・『唐話辞書類集』二十巻・『明清俗語辞書集成』五巻、等です。
《閑話休題・6》
現代では、漢詩を作る人をあまり見かけませんが、それでも高尚な趣味として結構多くの人々が作っています。例えば、東京の湯島に有る聖堂(元昌平黌跡)には、「聖社詩会」と言うのが有り、財団法人斯文会の雑誌『斯文』には、そこでの作品が毎号載せられています。
また財団法人無窮会の学会誌『東洋文化』にも「詩林」の項が有り、毎号八十首前後の漢詩が載せられています。尚、平成十五年には、「全日本漢詩連盟」が、旗揚げされています。
一方、江戸以来の諸芸の中で、著しい発展を遂げたのが書です。現在の書道界の隆盛が、それを端的に示しています。幕末(慶応三年・1867以前)の生まれで、明治の後半から昭和の前半にかけて、書道教育や書製作で活躍した人々は、それこそ枚挙に暇がない程ですが、彼等に共通して見られる点は、自ら製作した漢詩や和歌を書くと言うことで、単なる書の表現のみに止まらず、言葉自体が自らの漢学や国学の教養に裏付けされており、書作品として如何に表現するかを追求する所謂「芸術書道」ではなく、学問と表現が混在した諸芸の一つである所謂「学芸書道」であったと思われることです。
代表的な人としては、漢字の岡本碧巌・市河万庵・秋山碧城・平戸星洲・後藤潜龍・日下部鳴鶴・山内香溪・土肥樵石・小山雲潭・福岡敬堂・大邨楊城・野村素軒・川村東江・荒木雲石・香川松石・長岡研亭・三好芳石・高島九峰・石橋二洲・若林快雪・恒川鴬谷・西川春洞・川上泊堂・高山文堂・齋藤芳洲・樋口竹香・山田古香・前田黙鳳・金井信仙・玉木愛石・開沢霞菴・岡村黒城・日高梅谿・杉山三郊・中川南巌・久志本梅荘・市川塔南・岡本可亭・湯川梧窓・朝倉龍洞・山口豪雨・浅野醒堂・赤星藍城・亀田雲鵬・細田劍堂・田邨東谷・都郷鐸堂・角田孤峯・江上瓊山・貝原遜軒・高林五峰・高田竹山・天野東畊・柳田泰麓・大島君川・近藤雪竹・丹羽海鶴・広橋研堂・小室樵山・北方心泉・松田南溟・渡辺沙鴎・本田退庵・黒崎研堂・金子三沢・山本竟山・藤野君山・辻香塢・水野疎梅・大野百練・稲本陽洲・武田霞洞・中村春坡・杉溪六橋・諸井春畦・黒木欽堂・稲田九皐・林春海・岩田鶴皐・中村不折・浅野松洞・岡西鯉山・宮島詠士ら、和文の多田親愛・植松有経・跡見花蹊・小野鵞堂・阪正臣・大口周魚・岡山高蔭などが挙げられます。
また篆刻では、原田西疇・円山大迂・山田寒山・浜村藏六(五世)・桑名鐵城・栗田石癖・寺西乾山・梛川雲巣・近藤尺天らで、明治初期生まれの人としては、足達疇邨・梨岡素岳・河井せん盧・園田湖城・石井雙石らが現れます。
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*代表的参考文献(昭和以後の通史)
*日本漢文に関する参考書は、分野・時代・対象等に因って、それこそ山の様に有りますが、ここでは、敢て昭和以降の代表的な通史的な書だけを挙げさせて頂きました。
『日本漢学史』牧野謙次郎著、世界堂、昭和三年。
『日本漢文学史』岡井慎吾著、明治書院、昭和九年。
『日本儒学史』安井小太郎著、富山房、昭和十四年。
『日本漢文学史』岡田正之著、吉川弘文堂、昭和二十九年。
『日本漢文学通史』戸田浩暁著、武蔵野書院、昭和三十二年。
『日本漢文学史講義』緒方惟精著、評論社、昭和三十六年。
『日本漢学』(中国文化叢書9)水田紀久等編、大修館書店、昭和四十三年。
『日本漢文学史概説』市川本太郎著、大安、昭和四十四年。
『日本漢文学史』猪口篤志著、角川書店、昭和五十九年。
『日本儒教史』市川本太郎著、汲古書院、平成四年。
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後記
本拙文は、授業での講義用の単なる備忘録的資料に過ぎない。筆者は、決して日本漢詩文や日本儒学の専家でもなければ、その分野に興味が無い訳では無いものの特段研究していると言う訳でもない。因って、本拙文には、新たな知見など何一つ含まれていない。全て先人の著書を参考にして、簡便に纏め縮め上げたものに過ぎない。専家の概説書や研究書は個々の分野毎に多く、それらを適宜参考にさせて頂いた。
本来、本拙文は、学科編纂のテキスト原稿制作の副産物である。『中国学研究入門?』(新入生無料配布)のテキスト制作に当たり、「日本漢文」の項目の執筆依頼を夏前に受けた。枚数が原稿用紙20枚前後と決められ、しかも締め切りが夏休み明けと、時間と分量が限定た中で、一体何を如何様に書くか、一口に「日本漢文」と言っても、漢詩文や漢文史書の流れや、儒教思想の多様な展開、更には漢字に依拠した書文化の発展等々も有る。これらをどの様に分かり易く纏めるか、将と悩んだ。
そこで先ず己自身が理解出来るように、各分野・各時代を簡便に纏めてみよう、更にそれを縮めようと考えたのである。その結果縮める前に出来上がった概略的且つ通史的な元原稿約300枚が、本拙文である。
将に倉卒の間とでも言うべき、僅か夏休み中の二週間強で纏め上げたため、当然遺漏や先人の考えを誤解している部分等、瑕疵の点多々有ることは免れ難い。既にテキスト原稿が推敲された今となっては、この元原稿は、無用の長物に過ぎない。さりとは雖も、このまま屑箱に捨て去るのも些か惜しい。
因って、授業用の備忘録として、敢て遺す事とした。全く以て汗顔の至りではあるが、駄馬の手す寂びとして御寛恕を切に請う次第である。
思えば、今を去る三十五年程前に、故猪口篤志先生の日本漢文の授業を受け、故藤野岩友先生の平安朝漢文学の授業も受けたが、それ以来日本漢文などに携わることは、殆ど無かった。二十年程前に短大で数年話した(江戸時代のみ)だけで、以後は全くご無沙汰の限りを尽くしていた。
所が二年前に、日本文学科から日本漢文学史の授業の依頼を受け、昔取った杵柄と押っ取り刀で引き受けさせて頂いたものの、悲しい哉、過去の知識など遙か忘却の彼方に消え去り、あわてて諸書を読み散らかして事に臨んでいる、と言う状況である。六十近くなっての再勉強、情けないやら悲しいやら、その反省も込めて原稿依頼を引き受けさせて頂いたと言う事である。
何やら「もっと真面目に俺の授業を受けていれば、あたふたする事は無いんだ」、と猪口先生に叱責されている様に思えてならない。これも、先生の授業の末席で、「どうせ単位充当の授業」などと言って、ろくにノートも採らず半分近く寝ていた愚かな学生の、今になって与えられたレポートであろうか、何か奇縁を感じてならない。
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