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「訓読」論 : 東アジア漢文世界と日本語[古典文学]
投稿日時:2020/02/16(日) 21:14
「訓読」論 : 東アジア漢文世界と日本語
「訓読」論 : 東アジア漢文世界と日本語
中村 春作(編)前田 勉(著)市來 津由彦(編)田尻 祐一郎(編)
紹介
「訓読」はなぜ、私たちにとって「課題」であり続けるのか-「訓読」という異文化理解の方法を再考し、日本の伝統文化形成、日本人の「知」の問題として位置づける。また、「訓読」という手法を、東アジア世界の文化交渉から見つめ直し、漢字・漢文文化圏の成立、その内部での個々の文化形成のあり方を論じる。
目次
第1部 異文化理解の「課題」としての訓読(「訓読」の思想史-"文化の翻訳"の課題として
近代における「漢文直読」論の由緒と行方-重野・青木・倉石をめぐる思想状況
ピジン・クレオール語としての「訓読」
ベトナムの「訓読:と日本の「訓読」)
第2部 訓読と日本語・日本文化の形成(日本における訓点資料の展開-主として音読の視点から
近世における漢文訓読法の変遷と一斎点
漢文訓読体と敬語
国語施策と訓点語学)
第3部 訓読論の地平("訓読"問題と古文辞学-荻生徂徠をめぐって
表現文法の代用品としての漢文訓読
日本漢文の訓読とその将来
漢文訓読の現象学-文言資料読解の現場から)
関学2014秋期「日本文学特殊講義3」のシラバス[古典文学]
投稿日時:2014/10/03(金) 16:40
関学2014秋期「日本文学特殊講義3」のシラバス
授業開講年度/Course Year 2014年度
管理部署/Administrative Department 文学部
科目名称/Subject Title 日本文学特殊講義 3
単位数/Credit 2 履修期/Term 秋学期
担当者/Instructor 星山 健(HOSHIYAMA KEN)
履修基準年度
Standard Year of Registration 3年
授業目的/Course Objectives テーマ「一夫多妻的結婚状況、そして厳格な身分制度のもと、男性との関係に苦しむ女性に対し、どのような救済がありうるのか」について考える。
到達目標/Attainment Objectives 「心強し」の用例に着目しながら上記の観点から王朝物語史を通観することにより、各作品の特質および研究上の問題点について理解を深める。
教科書/Textbook(s) 著者名 タイトル 発行所 出版年 ISBN ボタン
プリント配布(LUNAで各自ダウンロード)
授業時間外の学習
(準備学習等について)
Study Required Outside of Class
(Preparation etc.) 「授業計画」欄にあげられている作品に適宜目を通しておくこと
図書館に所蔵が無い場合等、OPAC検索ボタンを押下してもヒットしないことがあります。
授業計画 第1回
Class Outline Session 1 ガイダンス ―メルヘンとしての『落窪物語』―
授業計画 第2回
Class Outline Session 2 現実社会における女性の苦悩 ―『蜻蛉日記』―
授業計画 第3回
Class Outline Session 3 前期物語における女性の優位性 ―『竹取物語』かぐや姫・『宇津保物語』あて宮―
授業計画 第4回
Class Outline Session 4 「心強く」生き通せぬ女性達 1 ―『源氏物語』六条御息所―
授業計画 第5回
Class Outline Session 5 「心強く」生き通せぬ女性達 2 ―『源氏物語』落葉宮―
授業計画 第6回
Class Outline Session 6 「心強さ」を貫き通した女性達 1 ―『源氏物語』藤壺―
授業計画 第7回
Class Outline Session 7 「心強さ」を貫き通した女性達 2 ―『源氏物語』宇治大君―
授業計画 第8回
Class Outline Session 8 「心強さ」を貫き通した女性達 3 ―『源氏物語』浮舟(前半)―
授業計画 第9回
Class Outline Session 9 「心強さ」を貫き通した女性達 4 ―『源氏物語』浮舟(後半)―
授業計画 第10回
Class Outline Session 10 〈女の物語〉の継承 1 ―『夜の寝覚』巻一(前半)―
授業計画 第11回
Class Outline Session 11 〈女の物語〉の継承 2 ―『夜の寝覚』巻一(後半)―
授業計画 第12回
Class Outline Session 12 「心強き」女君の典型 ―『夜の寝覚』寝覚の君―
授業計画 第13回
Class Outline Session 13 〈女の物語〉の終焉 ―『今とりかへばや』女中納言―
授業計画 第14回
Class Outline Session 14 〈女の物語〉の果てに ―『在明の別』女君―
成績評価
Evaluation Criteria/Method 種別 Type備考 Note 割合 Percentage 評価基準等 Grading Criteria etc.
定期リポート (02) 100 % テーマについて授業内容を踏まえた上で各自考察すること
備考
Term for Classroom Use 教室情報
Classroom
1 2014年度 秋学期 火曜3時限 秋学期 B-103
芥川 竜之介 『竜』 青空文庫から[古典文学]
投稿日時:2014/06/23(月) 21:43
竜
芥川龍之介
一
「何、往来のものどもが集った? ではそちらへ参ると致そう。
「やあ、皆のもの、予が
「さて今日はその方どもにちと頼みたい事があって、わざと、この宇治の亭へ足を止めて貰うたのじゃ。と申すはこの頃ふとここへ参って、予も人並に
「何、叶えてくれる? それは
「こりゃ
「よいか、支度が整うたら、まず第一に年かさな
二
「私どものまだ年若な時分、奈良に
「さてあくる日、第一にこの建札を見つけましたのは、毎朝興福寺の
「すると興福寺の
「その朝でさえ『三月三日この池より竜昇らんずるなり』の建札は、これほどの
「こちらは
「その内に追い追い
「けれども元より叔母の尼には、恵印のそんな腹の底が呑みこめる訳もございませんから、こちらは
「が、
「けれども猿沢の池は前の通り、
「すると
「さてその内に
「その後恵印は何かの
三
「何、その方の物語は、
底本:「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年12月1日第1刷発行
1996(平成8)年4月1日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月8日公開
2004年3月13日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
芥川 竜之介『老いたる素戔嗚尊』青空文庫から[古典文学]
投稿日時:2014/06/03(火) 06:41
老いたる素戔嗚尊
芥川龍之介
一
足名椎は彼等夫婦の為に、
彼は新しい妻と共に、静な朝夕を送り始めた。風の声も浪の
彼等は一しよに食事をしたり、未来の計画を話し合つたりした。時々は宮のまはりにある、柏の林に歩みを運んで、その小さな花房の地に落ちたのを踏みながら、夢のやうな小鳥の啼く声に、耳を傾ける事もあつた。彼は妻に優しかつた。声にも、身ぶりにも、眼の中にも、昔のやうな荒々しさは、二度と影さえも現さなかつた。
しかし稀に夢の中では、
間もなく彼等は父母になつた。彼はその生れた男の子に、
月日は川のやうに流れて行つた。
その間に彼は何人かの妻を
彼の名は子孫の殖えると共に、次第に遠くまで伝はつて行つた。国々の部落は彼のもとへ、続々と
或日彼はさう云ふ民の中に、高天原の国から来た三人の若者を発見した。彼等は皆当年の彼のやうな、筋骨の
彼等が宮を下る時、彼は一振の剣を取つて、
「これはおれが
若者たちはその剣を捧げて、彼の前に
彼はそれから独り海辺へ行つて、彼等を乗せた舟の帆が、だんだん荒い波の向うに、遠くなつて行くのを見送つた。帆は霧を破る日の光を受けて、丁度中空を行くやうに、たつた一つ閃いてゐた。
二
しかし死は素戔嗚夫婦をも
宮の中はその間、
やがて櫛名田姫の
「十一人!
其処は彼が流浪中に、最も風土の美しいのを愛した、四面海の無人島であつた。彼はこの島の南の小山に、
彼は既に髪の毛が、麻のやうな色に変つてゐた。が、老年もまだ彼の力を奪ひ去る事が出来ない事は、時々彼の眼に去来する、
彼は娘の須世理姫と共に、蜂や蛇を飼ひ馴らした。蜂は勿論蜜を取る為、蛇は
宮のまはりにある
三
或日素戔嗚が宮の前の、椋の木の下に坐りながら、大きな牡鹿の皮を
「御父様、この方に唯今御目にかかりましたから、此処まで
須世理姫はかう云つて、やつと身を起した素戔嗚に、遠い国の若者を引き合はせた。
若者は眉目の描いたやうな、肩幅の広い男であつた。それが赤や青の
素戔嗚は
「御前の名は何と云ふ?」と、
「
「どうしてこの島へやつて来た?」
「食物や水が欲しかつたものですから、わざわざ舟をつけたのです。」
若者は悪びれた顔もせずに、一々はつきり返事をした。
「さうか。ではあちらへ行つて、勝手に食事をするが好い。須世理姫、案内はお前に任せるから。」
二人が宮の中にはいつた時、素戔嗚は又椋の木かげに、器用に
鹿の皮を剥ぎ終つた彼が、宮の中へ帰つたのは、もう薄暗い時分であつた。彼は広い
「お前は今夜此処へ泊つて、舟旅の疲れを休めて行くが好い。」と、半ば命令的な言葉をかけた。
葦原醜男は彼の言葉に、嬉しさうな
「ではすぐにあちらへ行つて、遠慮なく横になつてくれい。須世理姫――」
素戔嗚は娘を振り返ると、突然
「この男を早速蜂の
須世理姫は一瞬間、色を失つたやうであつた。
「早くしないか!」
父親は彼女がためらふのを見ると、荒熊のやうに
「はい、ではあなた、どうかこちらへ。」
葦原醜男はもう一度、叮嚀に素戔嗚へ礼をすると、須世理姫の後を追つて、いそいそと大広間を出て行つた。
四
大広間の外へ出ると、須世理姫は肩にかけた
「蜂の室へ御はひりになつたら、これを三遍御振りなさいまし。さうすると蜂が刺しませんから。」
葦原醜男は何の事だか、相手の言葉がのみこめなかつた。が、問ひ返す暇もなく、須世理姫は小さな扉を開いて、室の中へ彼を案内した。
室の中はもうまつ暗であつた。葦原醜男は其処へはひると、手さぐりに彼女を捉へようとした。が、手は僅に彼女の髪へ、指の先が触れたばかりであつた。さうしてその次の瞬間には、
彼は
その薄明りに
彼は思はず身を
余りの事に度を失つた彼は、まだ蜂が足もとまで来ない内に、倉皇とそれを踏み殺さうとした。しかし蜂は其途端に、一層翅音を高くしながら、彼の頭上へ舞上つた。と同時に多くの蜂も、人のけはひに腹を立てたと見えて、まるで風を迎へた火矢のやうに、ばらばらと彼の上へ落ちかかつて来た。……
須世理姫は広間へ帰つて来ると、壁に差した
「確に蜂の室へ入れて来たらうな?」
素戔嗚は眼を娘の顔に注ぎながら、また
「私は御父様の御云ひつけに
須世理姫は父親の眼を避けて、広間の隅へ席を占めた。
「さうか? では勿論これからも、おれの云ひつけは背くまいな?」
素戔嗚のかう云ふ言葉の中には、皮肉な調子が交つてゐた。須世理姫は頸珠を気にしながら、背くとも背かないとも答へなかつた。
「黙つてゐるのは背く気か?」
「いいえ。――御父様はどうしてそんな――」
「背かない気ならば、云ひ渡す事がある。おれはお前があの若者の妻になる事を許さないぞ。素戔嗚の娘は素戔嗚の目がねにかなつた夫を持たねばならぬ。好いか? これだけの事を忘れるな。」
夜が既に
五
翌朝素戔嗚は
彼は素戔嗚の姿を見ると、愉快さうな微笑を浮べながら、
「御早うございます。」と、会釈をした。
「どうだな、
素戔嗚は岩角に
「ええ、御かげでよく眠られました。」
葦原醜男はかう答へながら、足もとに落ちてゐた岩のかけを拾つて、力一ぱい海の上へ抛り投げた。岩は長い弧線を描いて、雲の赤い空へ飛んで行つた。さうして素戔嗚が投げたにしても、届くまいと思はれる程、遠い沖の波の中に落ちた。
素戔嗚は唇を噛みながら、ぢつとその岩の行く方を見つめてゐた。
二人が海から帰つて来て、
「この宮が気に入つたら、何日でも泊つて行くが好い。」と云つた。
傍にゐた須世理姫は、この怪しい親切を辞せしむべく、そつと葦原醜男の方へ、意味ありげな
「
しかし幸ひ午後になると、素戔嗚が昼寝をしてゐる暇に、二人の恋人は宮を抜け出て
「今夜も此処に御泊りなすつては、あなたの御命が危うございます。私の事なぞは御かまひなく、一刻も早く御逃げ下さいまし。」と、心配さうに促し立てた。
しかし葦原醜男は笑ひながら、子供のやうに首を振つて見せた。
「あなたが此処にゐる間は、殺されても此処を去らない
「それでもあなたの御体に、万一の事でもあつた日には――」
「ではすぐにも私と一しよに、この島を逃げてくれますか?」
須世理姫はためらつた。
「さもなければ私は何時までも、此処にゐる覚悟をきめてゐます。」
葦原醜男はもう一度、無理に彼女を抱きよせようとした。が、彼女は彼を突きのけると急に海草の上から身を起して、
「御父様が呼んでゐます。」と、気づかはしさうな声を出した。さうして
後に残つた葦原醜男は、まだ微笑を浮べながら、須世理姫の姿を見送つた。と、彼女の寝てゐた所には、
六
その夜素戔嗚は人手を借らず、蜂の
室の中は昨日の通り、もう
葦原醜男は心の中に、この
彼は思はず腰に下げた剣の
室の扉は勿論開かなかつた。のみならずその後には、あの白髪の素戔嗚が、皮肉な微笑を浮べながら、ぢつと扉の向うの容子に耳を傾けてゐるらしかつた。葦原醜男は懸命に剣の柄を握りながら、暫時は眼ばかり動かせてゐた。その内に彼の足もとの大蛇は、
この時彼の心の中には、突然光がさしたやうな気がした。彼は昨夜室の蜂が、彼のまはりへ群がつて来た時、須世理姫に貰つた
翌朝素戔嗚は又石の多い海のほとりで、
「どうだな。
「ええ。御かげでよく眠られました。」
素戔嗚は顔中に不快さうな色を
「さうか。それはよかつた。ではこれからおれと一しよに、一泳ぎ水を浴びるが好い。」と隔意なささうな声をかけた。
二人はすぐに裸になつて、波の荒い明け方の海を、沖へ沖へと泳ぎ出した。素戔嗚は高天原の国にゐた時から、並ぶもののない泳ぎ手であつた。が、葦原醜男は彼にも増して、殆ど
七
海は絶えず
それが暫く続く内に、葦原醜男は少しづつ素戔嗚より先へ進み出した。素戔嗚は
「今度こそあの男を海に沈めて、邪魔を払はうと思つたのだが、――」
さう思ふと素戔嗚は、
「畜生! あんな悪賢い浮浪人は、
しかし程なく葦原醜男は、彼自身がまるで鰐のやうに、楽々とこちらへ返つて来た。
「もつと御泳ぎになりますか?」
彼は波に揺られながら、日頃に変らない微笑を浮べて、遙に素戔嗚へ声をかけた。素戔嗚は如何に剛情を張つても、この上泳がうと云ふ気にはなれなかつた。……
その日の午後素戔嗚は、更に葦原醜男をつれて、島の西に開いた
二人は荒野のはづれにある、小高い大岩の上へ登つた。荒野は目の及ぶ限り、二人の後から吹下す風に、枯草の波を
「風があつて都合が悪いが、
「ええ、比べて見ませう。」
葦原醜男は弓矢を執つても、自信のあるらしい容子であつた。
「好いか? 同時に射るのだぞ。」
二人は肩を並べながら、力一ぱい弓を引き
「勝負があつたか?」
「いいえ――もう一度やつて見ませうか?」
素戔嗚は眉をひそめながら、
「何度やつても同じ事だ。それより面倒でも一走り、おれの矢を探しに行つてくれい。あれは高天原の国から来た、おれの大事な
葦原醜男は云ひつかつた通り、風に鳴る荒野へ飛びこんで行つた。すると素戔嗚はその後姿が、高い枯草に隠れるや否や、腰に下げた袋の中から、手早く火打鎌と石とを出して、岩の下の
八
色のない焔は
「今度こそあの男を片づけたぞ。」
素戔嗚は高い岩の上に、ぢつと
火は
「今度こそあの男を片づけたぞ。」
素戔嗚はかう心の
その日の薄暮、勝ち誇つた彼は腕を組んで、宮の門に佇みながら、まだ煙の迷つてゐる荒野の空を眺めてゐた。すると其処へ須世理姫が、
素戔嗚はその姿を見ると、急に彼女の悲しさを踏みにじりたいやうな気がし出した。
「あの空を見ろ。葦原醜男は今時分――」
「存じて居ります。」
須世理姫は眼を伏せてゐたが、思ひの外はつきりと、父親の言葉を
「さうか? ではさぞかし悲しからうな?」
「悲しうございます。よしんば御父様が
素戔嗚は色を変へて、須世理姫を
「悲しければ、勝手に泣くが好い。」
彼は須世理姫に背を向けて、荒々しく門の内へはひつて行つた。さうして宮の
「何時ものおれなら口も利かずに、打ちのめしてやる所なのだが……」
須世理姫は彼の去つた後も、暫くは、暗く
その夜素戔嗚は何時までも、眠に就く事が出来なかつた。それは葦原醜男を殺した事が、何となく彼の心の底へ毒をさしたやうな気がするからであつた。
「おれは今までにもあの男を何度殺さうと思つたかわからない。しかしまだ今夜のやうに、妙な気のした事はないのだが……」
彼はこんな事を考へながら、青い匂のする菅畳の上に、幾度となく寝返りを打つた。眠はそれでも彼の上へ、容易に下らうとはしなかつた。
その間に寂しい暁は早くも暗い海の向うに、うすら寒い色を拡げ出した。
九
翌朝もう朝日の光が、海一ぱいに当つてゐる頃であつた。まだ寝の足りない素戔嗚は
二人も素戔嗚の姿を見ると、
「幸ひ矢も見つかりました。」と云つた。
素戔嗚はまだ驚きが止まなかつた。しかしその中にも何となく、無事な若者の顔を見るのが、
「よく怪我をしなかつたな?」
「ええ。全く偶然助かりました。あの火事が燃えて来たのは、丁度私がこの丹塗矢を拾ひ上げた時だつたのです。私は煙の中をくぐりながら、兎も角火のつかない方へ、一生懸命に逃げて行きましたが、いくらあせつて見た所が、到底西風に
葦原醜男はちよいと言葉を切つて、彼の話に聞き入つてゐる親子の顔へ微笑を送つた。
「そこでもう今度は焼け死ぬに違ひないと、覚悟をきめた時でした。走つてゐる内にどうしたはずみか、急に足もとの土が崩れると、大きな穴の中へ落ちこんだのです。穴の中は最初まつ暗でしたが、
「まあ、野鼠でよろしうございました。それが
須世理姫の眼の中には、涙と笑とが
「いや、野鼠でも
素戔嗚はこの話を聞いてゐる内に、だんだん又この幸運な若者を憎む心が動いて来た。のみならず、一度殺さうと思つた以上、どうしてもその目的を遂げない中は、昔から挫折した覚えのない意力の誇りが満足しなかつた。
「さうか。それは運が好かつたな。が、運と云ふものは、
葦原醜男と須世理姫とは、仕方なく彼の後について、朝日の光のさしこんでゐる、大広間の白い
素戔嗚は広間のまん中に、不機嫌らしい大あぐらを組むと、みづらに結んだ髪を解いて、無造作に床の上に垂らした。
「おれの虱はちと
かう云ふ彼の言葉を聞き流しながら、葦原醜男はその白髪を分けて、見つけ次第虱を
十
葦原醜男はためらつた。すると側にゐた須世理姫が、何時の間に忍ばせて持つて来たか、一握りの
その内に素戔嗚は、
……高天原の国を
「おれに何の罪があるか? おれは彼等よりも強かつた。が、強かつた事は罪ではない。罪は
彼はかう憤りながら、暫く苦しい歩みを続けて行つた。と、路を
彼は大きな眼を開いて、広間の中を見廻した。広間には唯朝日の光が、うららかにさしてゐるばかりで、葦原醜男も須世理姫も、どうしたか姿が見えなかつた。のみならずふと気がついて見ると、彼の長い髪は三つに分けて、天井の
「
宮のまはりの椋の林は、彼の足音に鳴りどよんだ。それは梢に巣食つた
林の外は切り岸の上、切り岸の下は海であつた。彼は其処に立ちはだかると、眉の上に手をやりながら、広い海を眺め渡した。海は高い浪の向うに、日輪さへかすかに
素戔嗚は
素戔嗚は天の鹿児弓に、しづしづと天の羽羽矢を
「おれはお前たちを
素戔嗚は高い切り岸の上から、遙かに二人をさし招いだ。
「おれよりももつと
素戔嗚はちよいとためらつた後、底力のある声に祝ぎ続けた。
「おれよりももつと仕合せになれ!」
彼の言葉は風と共に、海原の上へ響き渡つた。この時わが素戔嗚は、
底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月17日公開
2004年2月18日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。