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古典文学 2014/5

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アダム・カバット著  柏書房  『妖怪草紙 くずし字入門』

投稿日時:2014/05/10(土) 01:11

http://www.chinjuh.mydns.jp/libro/0001.htm より

アダム・カバット著 
柏書房 2300円+税
 『妖怪草紙 くずし字入門』
 
 
----帯より引用----
 江戸の草双紙に登場する愉快な妖怪達をナビゲーターとして楽しく読み進めると、あなたはくずし字解読の達人に。
 カバット先生秘伝の「ステップアップ方式」で基本文字150を確実に修得できる、ユニークなくずし字入門書。 『妖怪草紙 くずし字入門』表紙
 ここでいう「くずし字」は、変体仮名とよばれているものです。
 かつて日本には文字がありませんでした。えらい人たちは漢文(つまり中国語)で日本語を書き表そうとしましたが、漢文では日本語の発音を記録することはできません。

 たとえば、Aさんが
「わたしは日本語が好きなんです!」
と、言ったとしましょう。
 ところが、古代日本には文字がなかったので、中国の文字を使って、中国語でAさんの言葉を書きました。
「我愛日本語」
 これを、Aさんを知らないBさんが読んだとします。BさんはAさんが男なのか、それとも女なのかさえ知りません。
「われにほんごをあいす」
「おれはにほんごがすきだ」
「あたしはにっぽんごがすきです」
「おいらはにほんごがすきなんだもんね」
  ・
  ・
  ・
  ・
などなど、「我愛日本語」にあたる日本語はたくさんあるので、Aさんがどんな口調で話したのか、Bさんにはわかりません。

 そこで考え出されたのが日本語の発音を中国の漢字で記録する方法でした。

 和太之波仁保无己加寸機奈无天寸
(わたしはにほんこかすきなんてす)

 こんなふうに日本語の発音をあらわすための漢字を「万葉仮名」というのは、学校でも習うとおりですね。万葉仮名を書きやすいようにくずしていったものが「ひらがな」「カタカナ」のもとになりました。

 ところで、ひとくちに「ひらがな」や「カタカナ」といっても、現在のかたちに定められたのは明治時代のことです。それ以前の仮名はもっとバリエーションが多く、たとえば「き」と読ませる文字だけでも「機」「木」「起」「喜」「支」などをくずして作った仮名が使われていたそうです。つまり、こういった文字を変体仮名と呼ぶわけです。

『妖怪草紙 くずし字入門』練習問題  左の写真は『妖怪草紙 くずし字入門』の一部です。ニューヨーク生まれのカバット先生は、わたしたちが忘れてしまった江戸の仮名文字を、当時さかんに作られた妖怪絵本を教材にして楽しく教えてくれます。
 初級の練習問題ですが読めますか?

↓答えは...
--------------------------
 べんとうをもってきたが
 もうしまいな
 さるか
--------------------------

 絵をクリックすると、ほかの問題も見られます。

 江戸時代には妖怪が登場する面白い絵物語が沢山作られました。今でいうと水木しげる先生の妖怪漫画のようなものでしょうか。上に掲載した写真はそういった妖怪絵本の一部です。このページにたどり着いた人は、妖怪が大好きという人が多いと思うのですが、江戸の妖怪絵本を読めたらいいなと思ったことはありませんか?
 江戸時代の本なんか手に入らないし、と思うかもしれませんが、妖怪について書かれた解説書の挿絵として、江戸の妖怪絵本が紹介されていることがあるでしょう。絵と一緒にミミズがはった跡のようなくずし字で説明が書いてあるのを見たことがありませんか。実はそのくずし字こそ変体仮名で書かれたものなのです。これ、読めるとけっこう楽しいんですよ。活字で説明されていない重要なことがかいてある場合もあります。

 前から変体仮名が読めたらいいなーと思っていたのですが、そういうものの入門書はやけに専門的で難しかったりして、どうも手が出ませんでした。ところがこの本は、上の写真を見てもわかるとおり「妖怪草紙」をテキストにして変体仮名の読み方を教えてくれるのです。これはもう、やるっきゃないじゃありませんか。

 そりゃまあ、覚えるのにちょっとした努力は必要ですけど、短い文章を解読するくらいなら、この本を見ながらがんばると、けっこういけてしまいます。覚えるコツは、めんどうがらずに自分で書いてみること。毛筆じゃなく鉛筆でいいです。人に見せるわけじゃないから下手でもかまわないのです。筆はこびを覚えると、ぐんとみぢかになって、ミミズのはったような線が急に文字に見えてくるから不思議です。

 この本の著者であるカバット先生はニューヨーク生まれのアメリカ人なんですけど、日本で生まれ育ったわたくしたちより江戸の妖怪魂をよくご存じです。日本人が忘れかけた江戸の心を外国の人に教えてもらうなんて、痛快というべきなのか、恥ずかしいというべきか微妙ですが、ここはひとつ、カバット先生の教えにしたがって、江戸の子供たちが心おどらせた妖怪草紙に親しんでみようじゃありませんか。

ーくずし字~美しい文明ーアダム・カバット先生

投稿日時:2014/05/10(土) 01:01

http://www.wajuku.jp/index.php/archives/1589 より

和塾通信
ーくずし字~美しい文明ーアダム・カバット先生 第六十三回和塾
ーくずし字~美しい文明ーアダム・カバット先生 第六十三回和塾
6月 9th, 2009「和」をたしなむ, お稽古[い組]sewanin_nio 0 Comments
日時:2009年6月9日(火) P.M.7:00開塾
場所:銀座 くのや 座敷

アダム・カバット先生、高校生の時、全部で14冊の英訳された日本文学の本を先生からいただいた。その中で、先生が一番感動した1冊が「源氏物語」。自分とはまったく異なる世界が広がっていて、ともかく心を打たれたそうです。その「源氏物語」は抄訳だったので、先生すぐに書店に走り全訳を手に入れた。250セントだった。家に持ち帰って休む間もなく一気読みした「源氏物語」がそれからのカバット先生をつくっていく基点になったのです。

今月の和塾は、3度目の、異国人先生による日本文化講座。アダム・カバット先生を迎えて「くずし字」の勉強です。

アダム・カバット先生


源氏物語が大好きなカバット先生、シェイクスピアには抵抗があるそうです。学校での辛い授業の印象がいつまでもつきまとうから。多くの日本人が源氏物語に抵抗を感じるのも同じ理由じゃないか、と先生は考えます。確かに、我々にとっての源氏物語は、忍耐と無味乾燥が幼い心を打ち続ける経験だった。恐ろしい古文の先生の存在しか思い出せない塾生もいるようで。文学を教材に使ってしまうと、文学嫌いを増やしてしまう。難しい問題ですね。

英訳の源氏物語に魅入られたカバット先生、次に出かけたのはニューヨークの日本語専門の書店。手に取った日本語の本を見て衝撃を受けたのは当然のことです。文字の向きすらわからない。上を向いているのか、下なのか。右から読むのか、左からか。初めての日本語は、先生にとってそもそも「文字」ですらなかったのです。その先生が、今ではその日本語の「くずし字」を教えている。本当に立派です。すごい。

やっと日本語が読めるようになったカバット先生は、やがて泉鏡花を研究するようになる。「高野聖」の泉鏡花ですね。 で、その鏡花の作品の中で、先生はカッパに出くわした。ある作品の中に、漁師が化け物に出会って、次のように話す一節がある。

「何しろ、水ものには違えねえだ。野山の狐鼬(いたち)なら、面が白いか、黄色ずら。青蛙のような色で、疣々(えぼえぼ)が立って、はあ、嘴(くちばし)が尖って、もずくのように毛が下った。」
「そうだ、そうだ。それでやっと思いつけた。絵に描いた河童そっくりだ。」
?『貝の穴に河童の居る事』泉鏡花

日本人ならこの部分は大きな疑問なく通過する。「そうだ、そうだ。・・・絵に描いた河童そっくりだ」に引っかかる人はほとんどいないでしょう。カッパに対する共通理解があるのですね。ところがニューヨークに生まれ育ったカバット先生、そうはいかない。「絵に描いたカッパ」? 「河童」って何? というわけで、先生今度は河童を調べ始める。辿り着いたのが江戸時代の絵本「草双紙」。やっとその「絵に描いた河童」に出会えたのです。ところがここで次なる大問題。書かれた文字が「くずし字」だったのです。平仮名を覚え、カタカナを学び、漢字に悶絶して、やっと泉鏡花を読めるまでの日本語能力を手にした先生、ここで再び「読めない日本語」に突き当たった。

草双紙の河童


そこから先生の「くずし字」との格闘が始まります。毎日国会図書館に通って、草双紙を片っ端から複写する。河童がきっかけだったから、妖怪・化け物が出てくる双紙ばかり複写する。それまで、そんな妙な双紙を複写する人などいなかったから、先生図書館の有名人になった。「化け物のカバット」というのが、その時ついた綽名だったとか。

55才の今、カバット先生は日本人にその「くずし字」を教えている。日本の化け物研究でも第一人者になっている。すごいことです。

では、本題の「くずし字」の読み方。
先生によると、くずし字は練習さえすれば誰でも容易に読めるようになる、とのこと。特に、現在の仮名とは全然違う形のものをしっかり覚える。数はそれほど多くない。それだけでも、くずし字はかなり読めるようになるのです。

具体的に見ていきましょう。

第一図


第一図は玉子のお化け。「卵(う)めがつけば玉子のばけもの」と書いてある。卯の字にテンをふたつ、つまり目を書き加えると卵になる、というわけ。「卵(う)。目が付けば、玉子の化け物。」と読めます。ここで問題になる文字があるとすれば、現在とは形が異なるものですね。例えば、3文字目。これは「が」です。「可」から変じた「か」で、現在の「加」から変じたものとは全然形が違う。だからこれを覚える。次は、最終行の一番上。「ば」ですが、我々が知っている「ば」とはまったく別の形です。これも覚える。それだけでこの例文は完璧に読めますね。確かに簡単。「か」と「ば」。覚えましたか?

次の例文も読んでみましょう。

第二図


まず二文字目がわかりませんね。これは「つ」。「川」から変じた「つ」です。なんで「川」が「つ」になるんだ、などということは今は考えないで覚えてしまう。次は3行目の最後。これは「ふ」に見えますが実は「に」です。草双紙に頻出するからしっかり覚える。4行目の頭は第一図にあった「ば」ですね。5行目の二文字目。これは漢字。「志」つまり「し」です。6行目の3文字目。先ほどの「に」です。「ふ」ではありません。同じ行(6行目)の最後はその前の文字「み」とつながっているからちょっとわかりにくいが「へ」です。最後の行は「ける」。「け」がわかりにくい。これも覚えましょう。
これで全文が判明した。「かつてのとうぐそれゝにばけてやしょくのていにみへける」とある。ただし、文字が判明しても文意が不明なこと、草双紙ではよくあります。句読点がなくて文の切れ目がわかりにくく改行のルールも適当。その上、当たり前のことですが旧仮名遣い。ここからはじっくり読み直して考えるしかない。二番目の例文は「勝手の道具、それぞれに化けて夜食の体に見えける」というわけです。台所の道具たち、鍋や釜が妖怪に変化して夜食つくってるようです。

第一段階で理解すべきくずし字の一覧は以下の通り。



といっても、ほとんどが、現在の仮名から類推できますから、明らかに形の異なるものだけをマスターすればなんとかなりそうです。あとは繰り返し。外国語の学習と同じです。

草双紙


その表4


中面


今回の稽古では、その草双紙や黄表紙の実物を拝見することもできました。何百年も経っているのにしっかりしている。和紙を糸で綴じた日本の古い書物は、近頃の書籍よりずっと丈夫で長持ちなんですね。
それから、草双紙はご覧のように基本的に平かなで書かれている。漢字はほとんどない。いわゆる「古文書」の類とは違います。だから、少し練習すれば誰でも読めるようになるということです。

こちらは黄表紙 貴重品です、


その中面


こうした草双紙の類は、これまで評価が低く、糸綴じの絵本を書籍とは認めない研究者もいたとか。だから、江戸時代の日本には書籍がなかった、なんて暴論もあるそうです。実際は、当時の日本は世界最大の出版王国だったのですがね。

丈夫にできています。


ところで、こうした木版の「くずし字」を入れ込んだ絵本は、明治の中頃までさかんに出版されていました。活字を使用する活版印刷は江戸時代の初期にあったということですから、読みやすさや効率を考えると「くずし字」が生き長らえたのは不思議なことです。カバット先生によるとそれは、「美しさ」を目的とする日本の文化・文明によるものではないか、ということ。木版で刷った挿絵と活字の文字の組み合わせは「美しくない」。活版の「活字」には「くずし字」にある「美しさ」が感じられない。だから、江戸期の日本人は、わざわざ「くずし字」を残したのです。本来の目的だけではなく、常に「美しさ」を組み込む。こうした考え方は日本が誇るべき独自の文化なんですな。 そういえば、日本刀や甲冑のお稽古の時にも、同じ文化を学びました。※参考リンク→:[第28回お稽古ー刀剣研磨?刃文の美ー]・[第54回お稽古ー甲冑~戦闘の芸術品ー] 戦闘に役立つという本来の目的を越えて、「美しさ」を追求する。刀に不必要なほどの刃文の美を加える。兜に「愛」の字の前立を付け加える。まことに日本人は美しくあることを大切にする人間なんですね。美しい国、それがニッポンなのです。



カバット先生、楽しくて為になるお話し、ありがとうございました。

アダム・カバット(Adam Kabat)
1954 米国ニューヨーク生まれ
1979 初めて来日
1985 東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了
1988 東京大学大学院比較文学比較文化専門課程博士課程満期
1988より武蔵大学の教鞭にたつ
現在 武蔵大学人文学部日本・東アジア比較文化学科教授
専門:日本近世文学

主な著書
『江戸化物草紙』(小学館、1999年)
『大江戸化物細見』(小学館、2000年)
『妖怪草紙 くずし字入門』(柏書房 2001年)
『江戸滑稽化物尽くし』(講談社メチエ、2003年)
『ももんがあ対見越入道 江戸の化物たち』(講談社、2006年)

お稽古「江戸の妖怪・化物」アダム・カバット

投稿日時:2014/05/10(土) 00:57

http://www.wajuku.jp/index.php/archives/6601 より

和塾通信
第九十九回「い組」お稽古「江戸の妖怪・化物」アダム・カバット
第九十九回「い組」お稽古「江戸の妖怪・化物」アダム・カバット
8月 14th, 2012「和」をたしなむ, お稽古[い組]sewanin_nio 0 Comments
日時:2012年8月14日(水)19:00開塾
会場:グランドプリンスホテル新高輪 秀明
講師:アダム・カバット

Text by : Fabienne


 お盆の時期に合わせて、今日はニューヨーク出身の文学専門家アダム・カバット先生が江戸時代の妖怪のお話をしてくださいました。しかし、皆様がイメージする怖い妖怪のお話ではなく、かわいらしい化け物のお話でした。
 先生は江戸時代の民衆文学である草双紙に登場する妖怪を研究しておられ、その中からいくつかのかわいらしい妖怪を紹介してくれました。草双紙は200年前に盛んに出版されましたが、今でいう漫画のようなもので、文章と絵が一緒になっています。そこに登場する妖怪や化け物は、怖いものもいますが、どちらかというとかわいらしいものが多いのです。なぜ化け物がかわいらしいかというのは今回のお話のテーマの一つでした。

 かわいらしいお化けについての話しの前に、なぜ先生が妖怪に興味を持ち始めたのか、気になりますね。
 先生は始めて1979年に来日、日本に住んで、すでに30年以上経ちます。大学生の頃、住んでいた安いアパートのすぐ隣にお寿司屋さんがあって、毎日のように通うようになったと話します。ベジタリアンでしたので、いつもかっぱ巻きばっかりを頼み、板前さんからすればきっと迷惑なお客でした。文学が専門なので、ある日、なぜかっぱ巻きは「かっぱ巻き」というのかを疑問に思うようになりました。板前さんに質問すると、「河童はキュウリを食べるから。河童の好物ですよ。」と教えてもらったそうです。また、よくテレビ宣伝に流れていた「かっぱえびせん」という言葉も自然に覚えて、辞書で引いたりすることもしましたが、「かっぱえびせん」という単語は出てこなかったとのことです。何年後かに分かったことは、カルビーの社長が河童が大好きで、自分の商品にどうしても「かっぱ」という言葉を付けたかったとのこと。そこで、河童がまだ現代の日本の日常生活でいろんなところに顔を出し、存在することに気づかれました。なぜまだ河童が人々の間に生き続いていられるのかというのは先生の研究の出発点となりました。

 江戸時代に遡って、草双紙や浮世絵にはよく河童が描かれています。初めに、先生に河童がキュウリを盗むところの絵を見せていただきました。しかし、先生は「実は、河童はキュウリだけではなく、別のものもよく食べてますよ。それは河童に詳しい人しか知らないが、それは尻子玉というもの。尻子玉は人間の内臓の一部とされていて、肝臓のようなもの」。なぜ「尻子玉」なのかというと、先生が草双紙の絵で証明してくれました。河童は人間の尻の中に手を入れて、そこから尻子玉を抜くところの絵を紹介してくれました。尻子玉を抜く、または抜かれる瞬間の絵は一枚しかなく、それを和塾の受講者が興味深く見つめていた。その尻子玉が抜かれると、一体何が起きるのか?たいていの人は死んでしまうようです。(非常に強い人間は気絶程度で済みます。)


 そのお話はどこに由来しているのかも、興味深いところです。ただの考えたお話ではないようです。昔は、人がよく川でおぼれました。おぼれた人間の尻が膨らんでしまうという科学的な事実がありますが、「ああ、これが河童の仕業だ」とするようになり、おばあちゃん等が、子供に「川の近くに遊ぶな、尻子玉を取られるよ」、と注意するようになったのだと考えます。また、先生は尻子玉はどういった形しているのかすごく興味があったので、この絵を発見したとき、とても喜んだそうです。抜きたての尻子玉は河童にとってもとても臭いようです。こちらの絵の中で河童が手に持っていますが、どういった形をしているのかよく分かります。
 次に、歌川広重の「雨の両国橋」の見立ての浮世絵も見せていただきました。

川に落ちてしまった雷神が河童にお尻を狙われ、必死に逃げようとしている場面。実は、非常にうまい逃げ方をしています。河童の屁は非常に臭く、あまりにもくさくて死ぬ場合もあるようです。ここでは、雷神が同じ手段で(屁をして)逆襲しています。河童がお尻を狙うことというイメージが定着していたことがよく分かります。

 一方、現代の河童のイメージは少し違うかもしれません。もっと和やかで、かわいい河童。
河童の新しいイメージは戦後の昭和28年に週刊朝日に掲載される「かっぱ天国」という漫画に始まります。

初の女性河童も登場し、新しい河童像が生まれます。パーマなどそれぞれの時代の流行を取り入れています。その時代のおしゃれな河童が登場します。新しい河童像ですが、元々の河童の特徴を残しているのが興味深い。たまに頭に皿があり、背中に甲羅があって、水かきがあって、くちばしみたいなものがあって...こういった特徴を描けば、誰でも、河童だとわかります。キャラクター商品の基本ではないかと先生は考えています。

江戸時代、そして現代において、どういったものがキャラクターになっているか?必要な条件は?それは以下の6点であると先生は発見しました。
? 形は単純で分かりやすい
? トレードマーク(TM)がある(河童の場合、頭の上の皿、見てすぐわかるようなもの)
? バリェション無限である。
? デフォルメ化だが、誰でも愛着がある
? 身近存在で、誰でも親しみやすい。庶民的。
? 伝統と新しさが一緒になる。

その例として「豆腐小僧」という妖怪が上げられます。
以下の豆腐小僧の絵は江戸時代に非常に流行った時期がありました。

子供のお化けで、傘を被り、常に豆腐を持つ、非常にかわいらしいお化け。その豆腐には紅葉のマークがあり、形は単純でわかりやすい。豆腐がTMとなっています。同時に様々なバリエーションを造ることはできます。豆腐は身近なものであり、親しみやすい存在。ここでは、伝統と新しさが一緒になっています。小僧は伝統的でありつつも、昔の伝説にでてこない、江戸時代に作られた新しいキャラクターなのです。豆腐小僧は、売り物として作られた妖怪でした。あまりにも怖すぎるものは人間に受け入れないので、江戸時代には、可愛い化け物が流行りました。豆腐小僧は4才くらいの子供で、よく豆腐を落とすという、ちょっと間抜けなところがある存在でした。怖い妖怪より笑わせる妖怪であったようです。
18世紀の江戸に豆腐ブームがあり、200軒くらいの豆腐屋がありました。不思議な子供が豆腐を売りに行ったのが豆腐小僧の始まりかもしれないと先生がおっしゃていました。原点は都市で、都市の文化から生まれた妖怪。意図的に商品のために造られたもの、この意味で現代的な妖怪です。実際に、特に吉原の豆腐に紅葉のマークがついてたのですが、「豆腐を紅葉(かうよう)に」→「豆腐を買うように」というメッセージとなっていました。なるほど。


草双紙


 草双紙は時代と共に内容が変わります。最初は18世紀前半の赤本で、表紙は赤かった。次は黒本。赤本と黒本はどちらかというと子供向けの絵本。黄表紙の時代に1785・1806年。この中には特に化け物がでてくる。黄表紙は大人のための漫画。当時の生活を反映しています。どういうものかというと、江戸っ子の粋な生活、江戸っ子のおしゃれさが強調されています。そのままではなく、笑いの形に作り直しています。見立て。パロディー。当時の生活を笑いの対象にしていますが、舞台としては吉原の遊郭の場合が多いようです。どうして化け物が登場するのか?



 「野暮と化け物は箱根より先」ということわざがあります。江戸の文化は新しく、箱根を越えれば江戸文化ではなくなると考えられており、都会人が田舎者を見下しているというニュアンスが入っているようです。化け物が野暮な存在になります。民頌伝承の中には元々お化けが怖い存在だったのですが、次第に商品化されて、野暮を象徴し、格好悪く、住む場所は江戸ではなく、箱根より先。その野暮とお化けが粋な江戸っ子に憧れる。自分が格好悪いという意識を持って人間のように格好良くなりたい。その化け物が失敗する。それこそが人間的。その失敗がお化け物のかわいいところ。人間の生活を真似て笑いの対象になる。違和感を感じて、お笑いをまねる。人間臭い化け物は我々現代人に多く通用するところがあります。江戸時代のお化けの仕事や恋愛の悩み、価値観などは現代人と全く同じで、我々が共感できるところがたくさんある。

 また、別の話で、小人の化け物が日本の大きい化け物に化け方を教えてもらうために日本に旅立ちます。しかし、大きな化け物は誰も化け方を教えてくれません。小人の化け物は日本に来たついでに観光もしてしまいます。花見をしたり、富士山に行ったりして。人間の江戸っ子に見つかってしまうのですが、怖がられるのではなく、「かわいい」と言われ遊ばれてしまうのです。やっぱりだめだ、とあきらめてしまい小人の化け物は国に帰ってしまいます。小さい化け物が大きい化け物、人間にばかにされ、見下されるところが面白くなっています。
 
 今日の可愛い化け物のお話を通じて、江戸時代の日本人でも、現代の日本人と同じようにユーモアな話が好きで、そのユーモアを見立てで表すことが非常に好まれます。また、日本人がかわいいものが好きなので、可愛い化け物を登場させることによって、お話をとても受け入れやすくします。それに、現代社会におけるかわいいキャラクターがTMとして使われると同じように江戸時代にもかわいい妖怪が使用されたことが興味深かったです。一番驚いたのは、黄表紙は今の本と異なってすべてがお正月に刊行される決まりがあるということで、おめでたいものでした。親がお年玉の代わりによく子供のために買ってあげたりしたそうです。つまり、縁起もので、どんな変な話でも「おめでたし、おめでたし」で終わます。今はお盆の時期に化け物を連想するかと思いますが、江戸時代はお正月が化け物の季節でした。化け物が新年の挨拶をすると「化けましておめでとうございます。」といいます。その意味では、「かわいい化け物のお話」は日本文化における重要な役割を果たすことがわかりました。
タグ:アダム・カバット, 化物, 妖怪

『対談集 妖怪大談義』 (角川文庫)

投稿日時:2014/05/10(土) 00:42

“妖怪研究の広がりと奥深さを伝える、各界から集まった妖怪好きのユニークな対談集”

『対談集 妖怪大談義』 (角川文庫)
 京極夏彦  
 ×水木しげる、養老孟司、中沢新一、夢枕獏、アダム・カバット
  宮部みゆき、山田野理夫、大塚英志、手塚眞、高田衛、保坂正康
  唐沢なをき、小松和彦、西山克、荒俣宏、尾上菊之助

 私の勝手なイメージではありますが、妖怪というともう民俗学に直結という感じで、他の分野への広がりは考えた事もありませんでした。それは『妖怪談義』の柳田國男の印象が強い事もありましたし、昔からよく読んでいた水木しげるの『日本妖怪大全』が、ページごとに妖怪の紹介と、各地に伝わる伝説や呼称の違いなどを図鑑のように構成しているせいもあったのですが、この対談集を読むと、妖怪はもっと広く文化や歴史にまで関連して研究されている学問対象である事がよく分かります。

 何よりも、これだけの錚々たるメンバーが妖怪に深い関心を寄せていた事が驚きですし、私にとっては初めて名前を見るような学者さんも、様々なフィールド、観点で妖怪を研究している。予想以上に奥行きの深い世界だったんだ、というのが正直な感想です。そのため、難しい議論も頻出しますし、妖怪のみならず、怪談文学や伝奇小説、昭和史などにテーマが絞られている対談もある一方、唐沢なをきとの対談など、子供向け妖怪本に関するマニアックなうんちく合戦になっていて楽しい箇所もあります。それにしても、全編に渡ってぶちまけられる京極夏彦の博学ぶり、恐るべし。

 特に興味深いのは、作家・大塚英志との対談にある、妖怪のほとんどが江戸期にキャラクターとして大量生産されていて、今でいうポケモンみたいな扱いを受けていた筈だという話。当時から、妖怪や狐狸の類いは子供ですら信じないという嘆きの声もあり、私達が「当時の人はこんな妖怪を信じていました」と認識するのは、今から三百年後の人々に私達が“ポケモンのキャラクターの実在を信じていた”と認識されるようなものだと。まさに目からウロコが落ちるような思いですが、こういう斬新な視点は本書のそこここにあり、必ずしも妖怪好きの読者にターゲットを絞らない、ユニークな対談本になっています。

http://www17.ocn.ne.jp/~linden/booklist75.html

上田秋成 雨月物語

投稿日時:2014/05/09(金) 10:01

上田秋成

雨月物語
角川文庫 1959
ISBN:404401101X
[訳注]鵜月洋

 ひとつ、秋成は享保期の大坂に生まれた。堂島である。侠客黒船忠右衛門が町のヒーローだった。秋成にはキタの上方気質と「浮浪子」(のらもの)の血が脈打っていた。このキタ気質が処女作『諸道聴耳世間狙』になる。
 ふたつ、青年期に俳諧に溺れた。懐徳堂に通って五井蘭州に影響をうけて国学をおもしろがった。諧謔と翻案の技法はここで育くまれた。『世間妾形気』などを書く。秋成はパロディ・コント作家であり、浮世草子の最後のランナーである。
 みっつ、『雨月物語』の裏に『水滸伝』がある。都賀庭鐘の影響が濃い。都賀は医術にあかるい大坂の人で、一方で『英草紙』『繁野話』という読本第1号を創った文章家であった。ついで建部綾足が『西山物語』を発表して、秋成はこれにくらっとした。
 これらの奥には中国小説があった。そのことを説明しなければならない。

 秋成は息咳きって中国の伝奇譚を読んだ。白話とか白話小説という。『雨月物語』はその趣向を巧みに日本の舞台に移したのだが、むろん単なる換骨奪胎をしたわけではない。
 秋成が『雨月物語』を書く気になった背景を追いかけていくと、中国思想と日本の関係を、おそらくは荻生徂徠にまでさかのぼる関係を見ることになる。最初にそういった秋成登場の前段をちょっとだけ眺めておきたい。儒学思想の高揚と消沈と江戸文学の関係はあまり議論されないけれど、ひとつの見方なのである。
 徂徠は、朱子学を内面の心理はおろか現実さえ包括できっこないと批判して、自分なりに工夫した社会観をつくろうとした。そこで規範を朱子学のようには道徳には求めずに、古代の聖人たちが陶冶した礼楽刑政を規範に採り、これを「道」とよんだ。
 この「道」を押し出す徂徠の擬古主義的な見方が、しばらく江戸文学に「人情」を追いかけさせたのである。聖人の道とは人情にか
なったものとおもわれたからだ。いったい"聖人の人情"というのははなはだわかりにくいことだが(中国的であって、半ば日本的なのだ)、これは当時の見方からすれば、唐詩に表現されているような、不遇の自己を越え高い格調で世界を表現しつづけるようなそんな立場をさしていた。

 ところが、不遇の自己をこらえて格調に走るという立場とはいささか違って、そうした自分をつくった社会を憤激し、風刺する立場というものもありえたのである。
 これが京儒や上方の文人たちにしばしば典型した「狂者の意識」というもので(秋成も晩年の自分を「狂蕩」とよぶ)、この反徂徠学ともいうべき動向が陽明学をとりこみ、とくに文人たちを『水滸伝』などに流れる反逆の思想に傾倒させた。
 ここにおいて江戸文芸は徂徠よりも、上方ふうの狂文狂詩をたくみに獲得するほうに流れていった。そして、銅脈先生こと畠中観斎や寝惚先生こと太田南畝を、さらにはご存知風来山人こと平賀源内などを生むことになった。これが"うがち"の登場である。"うがち"はやがて「通」になっていく。

 一方、やはり徂徠を源流として、中国白話小説が日本に流れこんできた。知識人たちによる唐話学の学習は、そのテキストにつかわれた白話を結果としてはやらせる。
 詳しいことは省略するが、岡島冠山、岡白駒らが出てしきりに中国伝奇小説の翻訳翻案を試み、そこでおこってきたことは、象徴的には『水滸伝』の解釈が変わってきたということだった。それまで反権力的な部分が切り捨てられて紹介されていた『水滸伝』は、日本に入ってきた李卓吾の解釈にしたがった新しい翻案のスタイルに切り替えられたのだ。そのスタイルはとりわけ建部綾足の『本朝水滸伝』に結実して、爆発した。この手法こそが上田秋成が継承したものなのである。
 だから秋成を読むということは、中国と日本の言語文化の百年にわたるシーソーゲームを読むことでもあったといってよい。これが
『雨月物語』を読むときの背景になる。しかしながら、これだけでは秋成は読めない。秋成には、こうした流れのどの位置に属した者をもはるかに凌駕する格別の才能があった。

 そこで『雨月物語』である。九つの物語からなっている。それぞれ別々の物語であるにもかかわらず、裏に表に微妙にテーマとモチーフがつながっている。そこに秋成の自慢がある。
 第一話、崇徳院天狗伝説を蘇らせる「白峯」で、不吉と凶悪が跋扈する夜の舞台が紹介される。読者はここでのっけから覚悟しなければならない。何を覚悟するかというと、幻想がわれわれの生存の根本にかかわっていることを覚悟する。なにしろ主人公は西行なのである。
 つづいて生者と死者の意志疎通をいささかホモセクシャルに扱った「菊花の約」が信義のありかたを話題にする。これが三島由紀夫が好きだった挿話であるのは、信義のためには死をも辞さないということが告示されているからでもある。しかし、信義は男と男のためばかりのものではない。
 そこで、信義と死の関係を男と女に移して「浅茅ケ宿」がはじまる。怪奇幻想には静謐なものもあるはずで、それを夫婦の日々にまでしのびこませた秋成は、ここに待ちつづける女を"真間の手児女伝承"で結晶化してみせる。
 待ちつづける女、宮木のひたむきなイメージは、溝口健二が映画『雨月物語』のなかで田中絹代に演じさせて有名になった。溝口が宮木をキャラクタライズするにあたっては、原作にはない大いなる母性をもちこんだ。そもそも溝口の『雨月』は原作をかなり離れたもので、モーパッサンさえ加わっている。

 「浅茅ケ宿」は水の女のモチーフで進んだのだが、次の「夢応の鯉魚」では水中に身を躍らせたあやしい画僧が主人公になる。
 中国の『魚服記』に取材したストーリーは、魚に愛着をおぼえる画僧が仮死状態のあいだにアルタード・ステーツをさまよって鯉魚となり、戒めを破ったため危うく料理をされそうになってやっと遊離の魂が肉身に戻るという顛末である。オウィディウスこのかたの変身物語の豊饒が語られる一篇になっている。
 変身と異界はもとよりつながっている。その連鎖はつづく「仏法僧」では、異界からかろうじて生還した男と高野山に秘められた異常を体験する"旅の怪異"に発展し、修羅道に落ちるというテーマになっていく。途中、空海と水銀伝説にまつわる異変がはさまれ、それが関白秀次をめぐる異様につながっていく。秋成、しだいに独壇場に向かうあたりだ。
 この修羅道の問題は、さらに「吉備津の釜」においては愛に裏切られた女の怨霊に転じている。女を怨霊にさせたのは主人公正太郎の浮気である。それも妻を欺き通し、騙して憚らない遊び心によっている。けれども話は裏切られた妻の磯良の復讐にはすぐには転ばない。読者はここでじらされる。そのうちに浮気の相手が物の怪につかれたように死んだ。
 このあたりから、秋成は文体を凝らして稀にみる恐怖の場面をつくりあげた。ラストシーンでは明けたとおもった空が明けず、血が一筋流れ、荒廃した家の軒先に男の髻一つが月明に照らされているところで終わる。『雨月物語』の雨月のイメージは、ここにおいていよいよ煌々と照る。

 読者の肌身が凍りつくとき、ここで一転、物語は「蛇性の婬」でさらに深まっていく。
 初めは那智詣での帰途に美しい男女の一対がファンタジックな出会いをおこし、夢とも現(うつつ)ともつかぬうち、ただ一振の太刀だけが残って、昨夜の宴の家が一瞬にして廃屋になる。この廃屋のイメージは、その後の日本文芸や日本映画の原イメージとなったものである。
 廃屋出現の謎は、いったん怪しい者の仕業とわかるのだが、ところが話はそこからで、翌年になってまた男は怪しい女に出会う。しかも女はあの仕業はやむなき仕業で理由があったというために、ついに結婚まで進む。女はしだいに禍々しい正体を指摘され、それなら男も改心するかというと、逆に哀れな女の性に吸引されていくという、徹底して不幸に魅入られた関係が三段階にわたって奈落に堕ちゆく構造なのである。
 しかも読者は魔性の女の一途にも惹かれざるをえず、ここに中国白話小説と道成寺縁起の奇怪な合体が完成することになる。もとより秋成の狙いであった。

 それでも物語の仕掛けはまだおわらない。
 異類との怪婚物語は「青頭巾」にいたって、ついに愛欲のために人肉を食して鬼類そのものと化した僧侶を出現させるのだ。この鬼僧を調伏するにもう一人の禅僧が登場し、ふたりが同じ寺で一夜を送るという世にも恐ろしいクライマックスは、月下に乱走する鬼僧が目の前にいるはずの禅僧の姿に気づかず、朝になって公案の歌を与えられてやっと静まる。まるで富永太郎か安西冬衛の現代詩さながらである。逆説的なことなのだが、鬼類が悟道をさえ覗くという結末なのである。
 こうしてやっと秋成は最終章を妙に安心できそうな「貧福論」と標題し、黄金精霊の未来史の予告ともいうべきを語る。
 これでさすがに読者はホッとするのだが、ところがよくよく読めば、それはふたたび冒頭の夜の舞台を思い出す予兆でもあったというふうであり、ついにわれわれは秋成の無限軌道の振子そのものとなる‥‥。

 『雨月物語』は中国と日本をつなぐ怪奇幻想のかぎりを尽くしている。それはホフマンやティークや、あるいはウォルポールやポオが、ゴシックでアラベスクな物語のかぎりを尽くそうとしたことに似ていなくもない。
 しかし、このホフマン=ポオ=ボルヘスふうの円環をなす九つの物語は、すでに述べてきたように日中にまたがる独自の夥しい本歌取りのハイパーリンク型の構造をもって、夥しい細部の幻想リアリズムで支えられているので、単純に世界文学の傑作と比べるのはどうかとおもう。『日本数寄』(春秋社)に書いたように、むしろ溝口の映画と比べたり、泉鏡花や久生十蘭と比べたりするほうがおもしろい。
 そのばあい、『雨月物語』が日本文学史上でも最も高度な共鳴文体であることにも目を入れこみたい。問題は文体なのである。
 なぜ文体かということは、秋成の生涯にわたって儒学・俳諧・浮世草子・読本・国学という著しい変遷を経験してきたことと関係がある。とくに宣長との論争、煎茶への傾倒、および目を悪くしてからの晩年に「狂蕩」に耽ったことを眺める必要がある。それらは国学にしても茶にしても、むろん儒学や俳諧にしても、文体すなわちスタイルの競争だったのだ。
 競争して、どうしたかったのか。秋成は狂いたかったのである。心を狂わせたいのではない。言葉に狂いたかった。スタイルを狂わせたかった。「千夜千冊」第425夜にふれておいたように、それは荘子の「狂言」の思想に深い縁をもつ。

参考¶『雨月物語』はどう読もうとおもしろいが、注解では中村幸彦校注の『日本古典文学大系』(岩波書店)が定番。現代語訳付では高田衛・稲田篤信『雨月物語』(ちくま学芸文庫)、高田衛ほかの『雨月物語・春雨物語』(完訳日本の古典・小学館)、青木正次『雨月物語』上下(講談社学術文庫)、浅野三平『雨月物語・癇癪談』(新潮日本古典集成)、大輪靖弘『雨月物語』(旺文社文庫)など。ぼくは石川淳の『新釈雨月物語』(いまは角川文庫)をごく初期に読んだことの影響がある。
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