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天皇制

2016/07/04


天皇制 戦後の論評
天皇制 戦後の論評
第二次世界大戦が終わると、共産主義や近代政治学(前記の丸山眞男ら)の立場などから天皇制批判が数多く提議された。


1950年代から1960年代には、共産主義者を中心に天皇制の廃止を訴える意見もあった。

 

昭和天皇崩御の際、テレビ朝日の『朝まで生テレビ!』で天皇制の是非について取り上げられたが、これ以降この問題を積極的に取り上げるマスメディアは殆どない。

 

日本共産党は2004年に綱領を改正し、元首化・統治者化を認めないという条件の下、天皇制の是非については主権在民の思想に基づき国民が判断すべきである、という趣旨に改めた。[1]

 

各種の世論調査では、象徴天皇制の現状維持を主張する意見が多数であり、現在のところ象徴天皇制は日本国民に支持されている制度であると言える。


これについては、国民の天皇への関心が薄らいだことや、マスメディアが各方面からの圧力を恐れて天皇制の廃止につながる話題、批判をタブー視していること(菊タブー)が原因であるとする見解もある。

 

「天皇制は日本人の心性に深く根ざしたもので、変える事は出来ないのではないか」と考えられることもある。


例えば、戦後、天皇制廃止を叫んでいた日本共産党も、組織の内実は家父長的な指導体制を取っており、徳田球一委員長は「徳田天皇」と揶揄された(思想家、竹内好はこうした事態を「一木一草天皇制」と呼んだ)。


しかし、天皇制も日本の歴史の中で様々に位置づけを変えてきている。その中でも天皇制が権力者にとって都合のよいように様々に利用されてきたことは注意すべき点であろう。


皇室擁護派の意見


皇室批判派の意見

「身分の平等」をうたいながら、皇族を維持して「~さま」と奉ることは、違憲ではないのか? 


日本経済が困窮しつつある今、都内の広大な一等地を占有し、年間数十億円を投じて維持している天皇制が、はたして意義のあるものなのか? 

皇族の数を減らし、そのぶん女系天皇を認めるような規則改正により、大幅に支出を減らせるのではないか? 

国民の多くは天皇制・皇族を支持している訳ではなく、政治と同様に「興味・関心がない」だけではないか? 

日本国憲法下の天皇制
日本国憲法下の天皇制
連合国軍最高司令官総司令部は占領政策上、天皇制が有用と考え、日本国憲法に象徴としての天皇制(象徴天皇制)を存続させた。


天皇制は昭和天皇の各地への行幸や皇太子(今上天皇)結婚などのイベントを通して大衆に浸透し、一定の支持を得るに至っている。


大衆の支持を基盤にした
戦後の天皇制を大衆天皇制と呼ぶこともある。

 

憲法学会の学説では、日本国憲法下の現行体制を立憲君主制とは捉えず、また天皇は元首ではないとするのが通説であるが、実質的に元首であるという見解を示す説もある。しかし諸外国は、日本を天皇を元首とした立憲君主国とみなしており、日本政府も事実上天皇を元首として取り扱っている。


政府見解としては次のようなものである。


1973年(昭和48年)6月28日参議院内閣委員会、吉國一郎内閣法制局長官答弁…(日本を)立憲君主制と言っても
差し支えないであろう(趣旨) 


1988年10月11日参議院内閣委員会、大出峻郎内閣法制局第一部長答弁…(天皇を)元首と言って差し支えないと考える(趣旨) 
posted by 戦中・戦後から平和を at 19:45| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 天皇制 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
天皇制 大日本帝国憲法下の天皇制
天皇制 大日本帝国憲法下の天皇制
大日本帝国憲法の制定により、日本は立憲君主国になった。


大日本帝国憲法を起草した伊藤博文も、天皇に絶対君主の役割を期待するようなことはなかった。


伊藤博文は、ヨーロッパでは政治体制(議会制度も含む)を支える国民統合の基礎に宗教(キリスト教)があることを知り、宗教に替わりうる「機軸」(精神的支柱)として皇室に期待した。


実際に政治を運営するのは元老や内閣(藩閥政府)の各大臣である。

 

大日本帝国憲法では、内閣の大臣は天皇を輔弼するもの(総理大臣も他の大臣と同格)と規定されたが、最終的な政治決断を下すのは誰か、という点は曖昧にされていた。


対外的には天皇は大日本帝国皇帝であるが実際の為政者は内閣としていた。

昭和期になるとこの体制の弱点が利用されるようになった。

野党や軍によって統帥権は天皇にあるため軍は天皇以外の命令には従う義務がないと主張され、軍部が天皇直隷を盾に独走・政府無視を続けて、もはや統制できない状況になるケースもあった。

 

二・二六事件の際は天皇自身が激怒し、「自ら鎮圧に行く」とまで主張したため、反乱軍は鎮圧された。また終戦の際、ポツダム宣言の受諾・降伏を決定することは総理大臣にも出来ず、天皇の「聖断」を仰ぐ他なかった。


しかし、天皇は立憲君主としての立場を自覚していたため、上御一人(最高権力者)であってもこの2例を除いて政治決定を下すことはなかった。こうした政治的主体性の欠如した統治機構を、政治学者の丸山眞男は「無責任の体系」と呼んだ。

 


なお、明治以降から終戦までの天皇制は従来の天皇制と異なるとして、絶対主義的天皇制、近代天皇制という用語が一部で用いられることもある。

天皇制 尊皇攘夷論
天皇制 尊皇攘夷論
江戸時代末になると尊皇攘夷論が興り、天皇は討幕運動の中心にまつりあげられた。


尊王攘夷論は、天皇を中心とした政治体制を築き、対外的に独立を保とうという政治思想となり、幕末の政治状況を大きく揺るがせた。

 

吉田松陰の唱えた一君万民思想は擬似的な平等思想であり、幕府の権威を否定するイデオロギーともなった。


しかし尊皇攘夷派の志士の一部は天皇を「玉」(ぎょく)と呼び、政権を取るために利用する道具だと認識していた。


天皇制 明治維新
天皇制 明治維新
江戸幕府が倒れ、明治の新政府は王政復古で太政官制を復活させた。

ヨーロッパに対抗する独立国家を創出するため、中央集権体制が創られた。明治政府は不平を持つ士族の反乱や自由民権運動への対応の中から、議会制度の必要性を認識していった。


日本の近代化のためにも、国民の政治への関与を一定程度認めることは必要であり、近代的な国家体制が模索された。


モデルになると考えられたのは、ヨーロッパの立憲君主国であった。

 

なお、真の統治者が将軍ではなく天皇である事を知らしめるため、当時、九州鎮撫総監が“将軍はいろいろ変わったが、天子様は変わらず血統も絶えずに存在する”という趣旨の文書を民衆に配布している。

 

京都府もやはり天皇支配を周知すべく告諭を行なっている。


更に新政府は行幸をたびたび行なった

天皇制 近世
天皇制 近世
織田信長、豊臣秀吉も天皇の存在や権威を否定せず、政治に利用することによって自らの権威を高めていった。江戸幕府のもとでも天皇の権威は温存されたが、紫衣事件などにみられるように、年号の勅定などを僅かな例外として政治権力はほとんどなかった。

幕府が学問に儒学の朱子学を採用したことから、覇者である徳川家より「みかど」が正当な支配者であるという尊王論が水戸徳川家(水戸藩)を中心として盛んになった。

天皇制 中世
天皇制 中世
鎌倉に武家政権が成立すると、天皇・上皇を中心とした朝廷と将軍を中心とした幕府とによる二重政権の様相を呈した。承久の乱では幕府側が勝利を収めたが、天皇側の勢力もまだ強く、鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇が天皇親政を復活させた。

室町幕府が成立すると南朝・北朝に分裂し、その後続いた長い戦乱の中、天皇の権威は衰えながらも主に文化・伝統の継承者として存続していった。


天皇制
天皇制
天皇制(てんのうせい)とは、天皇を中心とする国家体制。特に天皇を元首または象徴とする近代以降の国家体制(近代天皇制)を指すこともある。


大日本帝国憲法(明治憲法)では天皇を元首とし、また日本国憲法では天皇を日本国の象徴であり日本国民統合の象徴として位置づけている。


「天皇制」という用語は「君主制」を意味するドイツ語のMonarchieの和訳とされ、本来はマルクス主義者が使用した造語であった。

 

1922年、日本共産党が秘密裏に結成され、「君主制の廃止」をスローガンに掲げた。1932年のコミンテルンテーゼ(いわゆる32年テーゼ)は、共産主義革命を日本で行うため日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえて「天皇制」と表記し、天皇制と封建階級(寄生地主)・ブルジョワジー(独占資本)との結合が日本の権力機構の本質であると規定した。


第二次世界大戦が終結するまで「天皇制」は共産党の用語であり、一般には認知されていなかったが、現代では共産党と関係なくマスメディア等一般にも使用されている。


ただし、保守主義者等や敬意を払う場合は天皇制という語の由来からこれを忌避して皇室制度と呼ぶ傾向にある。


また、歴史学者の間では天皇が国家統治機構の前面に登場する近代以前の国家体制に適用する事に対して批判もある。


但し、「天皇制」と「皇室制度」、又は「皇室」とは、必ずしも同義で使われないことがある。

 

以下、古代以来の天皇と政治体制との関わりを中心に解説する。

天皇制 古代
天皇制 古代
歴史学上、天皇家は古墳時代に見られたヤマト王権の「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」(あるいは「大王(おおきみ)」)に由来すると考えられている。


3世紀中期に見られる前方後円墳の登場は統一政権の成立を示唆しており、このときに成立した大王家が天皇家の祖先だと考えられている。


大王家の出自については、弥生時代の邪馬台国の卑弥呼の系統を大王家の祖先とする説、大王家祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。


当初の大王は軍事的な側面だけではなく、祭祀的な側面も持っていたと考えられる。

8世紀になると中国の政治体制に倣った律令制が整備され、天皇を中心とした中央集権制が確立し、親政が行われた(古代天皇制)。


このとき歴代天皇に漢風諡号が一括撰進された。律令制が確立した当初において、政治意思決定に天皇が占める位置は絶対的なものとされていたが、9世紀ごろから貴族層が実質的な政治意思決定権を次第に掌握するようになっていった。


10世紀には貴族層の中でも天皇と強い姻戚関係を結んだ藤原氏(藤原北家)が政治意思決定の中心を占める摂関政治が成立した。


11世紀末になると天皇家の家督者たる上皇が実質的な国王(治天の君)として君臨し、政務に当たる院政が始まり、藤原氏(摂関家)の相対的な地位は低下した。


天皇位にある間は制約が多かったものの、譲位して上皇となると自由な立場になり君主としての実権を得た。院政を支えたのは中級貴族層であった。

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