象徴天皇制のもとで天皇が国政に関与した事例
2016/07/04
象徴天皇制のもとで天皇が国政に関与した事例
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当ブログ11月11日欄に、旧安保条約締結に向けて、日本側から米国側に米軍駐留を願い出た経緯を書いた。それは昭和天皇による外交が勝利したことを意味していた。
1951年9月8日、吉田茂首相は、サンフランシスコ・シティの豪華なオペラハウスに代表団の他の団員たちを従えて臨み、各国代表の列席する晴れの場で、得意満面の顔に笑みを浮かべて講和条約に調印した。その5時間後、米側の通告で、吉田首相は、単身、サンフランシスコ・シティの場末にある米陸軍施設に臨み、ひっそりと苦虫を噛み潰したような仏頂面をして、旧安保条約に調印した。
このとき日本国憲法が施行されてから既に4年余り経過していた。その第4条第1項には「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能は有しない」と定められ、第7条には「内閣の助言と承認」により執り行う8項目の「国事に関する行為」が定められている。しかるに、昭和天皇は、濃厚に国政に関与していたのである。
昭和天皇の国政への関与は、その後も続く。それは1955年8月のことである。
1954年12月、造船疑獄事件によって自由党・吉田内閣が総辞職すると、第二党である日本民主党の鳩山一郎が首班となり第一次鳩山内閣が成立、続いて1955年2月、解散・総選挙で日本民主党が大勝、第一党に躍進、第二次鳩山内閣が成立した。第二次鳩山内閣は、改憲・軍備増強・米軍撤退・国連加盟と安保条約の対等化を基本政策として掲げた。
1955年8月末、重光葵外相が訪米、ダレス国務長官と会談。重光外相は、旧安保条約の対等・平等化のため、改定を強く求めた。しかし、ダレスは、頭から相手にせず、「充分な自衛力が出来た時に考慮すればよい」と冷たくあしらった。このときのやりとりを摘記すると以下の如くである。
ダレス「もしグァムが攻撃されたら、日本はグァムつまり米国防衛のために派兵するのか」
重 光「現憲法下でも派兵できる。日本の軍隊は自衛のためではあるが、米国との協議でもって派兵できる」
ダレス「それは全く新しい話である。日本が協議に依って海外派兵出来るという事はしらなかった」
重光外相は執拗に食い下がったが結局何の言質も得られなかった。
この訪米に先立ち重光外相は、同年8月20日、那須の御用邸に滞在していた昭和天皇に訪米の「内奏」(実に明治憲法下の天皇主権の時代と同じである。当時もその後も内奏を続いていた。)に及んだ。重光外相の手記を見てみよう。
8月20日 土曜 晴れ 暑気強し
午前9時、上野発、那須に向ふ。
駅より宮内省(ママ)自動車に迎へられ、御用邸に行く。控室にて入浴、更衣。昼食を賜はり、1時参入、拝謁す。渡米の使命に付て縷々内奏、陛下より日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり、又、自分の知人に何れも懇篤な伝言を命ぜらる。
言葉使いといい、天皇に「拝謁」する前に入浴して、着替えまでしていることといい、まるで戦前の絶対君主である天皇に対面しているのではないかという錯覚を覚えるが、それはさておき、昭和天皇の話の内容は、要するに、鳩山内閣は、駐留米軍の撤退要求を掲げているので、それを牽制し、やめさせようとしているのである。昭和天皇の前に這いつくばる忠臣重光葵は、結局、ダレス国務長官との会談では、自らの口から駐留米軍撤退問題を持ち出すことは差し控えてしまったのである。
それでも不安はぬぐえず、昭和天皇は、1956年2月17日、ワシントンに赴任する前に面会に訪れた谷正之駐米大使に、「アメリカの軍事的・経済的援助が戦後日本の生存に重要な役割を果たしてきたことについて深く感謝し、この援助が継続されることを希望する」、「日米関係が緊密であることを望み、それが両国にとって持つ意義を十分認識している」とのメッセージを、ダレス国務長官ほか米国の政府要人に伝えることを命じたのであった。谷駐米大使が、これに従ったことは言うまでもない。
昭和天皇は、旧安保条約の成立、その維持に外交力を発揮し、重大な影響を与えたのである。これらは、たとえ象徴天皇制であっても、時と場合によっては、天皇が主権者の如く君臨することが起こり得ることを示す事例といえるだろう。
日本人の心の奥底に天皇崇拝の残滓がへばりついていることを決して軽視してはならない。(了)
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