古典文学
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管説日本漢文學史略
投稿日時:2014/05/09(金) 09:47
管説日本漢文學史略
~授業用備忘録~
江 戸 後 期 (儒林時代・ 主たる担い手は儒者)
江戸後半期の漢学(1736~1867)
反ケン園派の漢詩人達
徂徠派の人々
寛政の三博士
寛政の三奇人
漢文戯作の世界
江戸の漢詩人達
関西の漢詩人達
地方の漢詩人達
幕末の女流詩人達
幕末勤王の志士達
江戸後期朱子学派の人々
江戸後期陽明学派の人々
江戸後期敬義(崎門)学派の人々
江戸後期水戸学派の人々
江戸時代の総集
江戸時代の韻書
江戸時代の史書
江戸時代の書肆
《閑話休題・5》
江戸後半期の漢学(1736~1867)
反ケン園派の漢詩人達
九代将軍家重(1746~1760)・十代将軍家治(1761~1786)時代に入ると、一世を風靡したケン園派の詩文に対し、異を唱える漢詩人達が関西に登場して来ます。それが江村北海・龍草廬・片山北海・釈六如らです。またこの時期は、幽蘭社・混沌社・長嘯社・賜杖堂等々、各地で詩人の集まりである詩社が作られ出す時代でもあります。
江村北海(1713~1788)
名を綬と言い、京都の人です。彼は、伊藤竜洲の第二子で、兄の伊藤錦里と弟の清田?叟と共に、伊藤の三珠樹と呼ばれた人です。二十二歳の時、江村毅庵に請われてその後を嗣ぎ、詩文を生業として、毎月十三日に門弟や名士を賜杖堂に集めて詩を作っています。その書に、『日本詩選』十八巻・『日本詩史』五巻・『北海文鈔』三巻・『北海詩鈔』十二巻等が有ります。
龍草廬(1714~1792)
名を公美と言い、伏見の人です。学は宇野明霞に学んでいますが、明霞と不和になると常師無しと称し、詩が巧みであったため自ら門を開いて教授しています。彼の詩社を「幽蘭社」と言います。彦根藩に文学として仕えていますが、致仕後は著述に専念し、書も一家を成しています。その書に、『草廬文集』三十四巻・『草廬詩集』一巻等が有ります。
片山北海(1723~1790)
名を猷と言い、越後の人です。彼の家は代々農業を営んでいますが、彼の能力を非凡として回りが学問を勧めたため、京に上って宇野明霞に学んでいます。明霞没後は大阪に居を構え、門を開いて教授しています。彼が結成した詩社が「混沌社」ですが、これは作詩を媒介とした一種のサロンで、身分に関係無く多くの人が参集しています。例えば、儒者の鳥山崧岳・両替商の篠崎三島・鋳物師の田中鳴門・造り酒屋の木村蒹霞堂・薬屋の小山伯鳳・医者の葛子琴らです。その書に、『北海詩集』七巻・『北海文集』十二巻が有りますが、未刊です。
釈六如(1737~1801)
名を慈周と言い、近江の人です。彼は、十一歳で釈慈門に就いて仏学を修め、野村東皐に就いて詩文を学んでいます。東叡山公遵法親王に召されて明静院に住し、晩年は嵯峨の長床坊に隠棲しています。彼は、宋詩を好み特に陸游を宗として、宋詩唱導の先駆者となります。その書に、『六如庵詩鈔』六巻・『葛原詩話』八巻等が有ります。
徂徠派の人々
荻生徂徠の没後、その一派に対する風当たりが強くなる中で、それでも徂徠派を以て任じる人々がいます。湯浅常山・亀井南冥・戸崎淡園・伊東藍田・市川鶴鳴らが、その代表です。
湯浅常山(1708~1781)
名を元禎と言い、備前の人です。彼は、江戸に赴き服部南郭に師事して古文辞学を学び、二十四歳で家督を継ぎ、寺社奉行や町奉行を歴任した後、蟄居を命ぜられています。その書に、『大学或問』一巻・『常山文集』二十巻・『常山楼集』五巻等が有ります。
戸崎淡園(1729~1806)
名を允明と言い、常陸の人です。彼は、常陸守山藩の藩儒で、平野金華の門人です。終生徂徠の学を奉じて変わらず、詩文を作るを楽しみとして生きた人です。その書に、『老子正訓』二巻・『戦国策』五巻・『唐詩選箋註』八巻・『淡園詩文集』数巻等が有ります。
伊東藍田(1735~1809)
名を亀年と言います。彼は、徂徠の養子金谷に師事しますが、後に徂徠の門弟大内熊耳に従学し、学が成ると講説に従事します。その後豊後の日出藩に仕えて儒学を講じています。その書に、『楊子方言補註』二巻・『大戴礼記補註』十巻・『重訂唐詩選』七巻・『藍田文集』十巻等が有ります。
篠崎三島(1737~1813)
名を応道と言い、伊予の人です。彼は、大阪で財をなした父を継いで商家の業を修めますが、同時に菅谷甘谷に従って徂徠の学を修め、四十歳の時に儒を生業として子弟の教育に専念します。尾藤二洲や頼春水らと交友し、片山北海の「混沌社」の一員としても活躍しています。その書に、『語孟述意』五巻・『草彙』八巻・『郁洲摘草』四巻・『碧紗籠集』十二巻等が有ります。
市川鶴鳴(1738~17944)
名を匡と言い、上州の人です。彼は、徂徠の門弟大内熊耳に師事して経史に精通し、諸藩の招きを受けて諸国に講説し、その後高崎藩に仕えて教授に従事しています。その書に、『論語輯義』十巻・『尚書輯義』十六巻・『帝範国字解』二巻・『臣軌国字解』一巻・『鶴鳴舎文集』十二巻等が有ります。
亀井南冥(1743~1814)
名を魯と言い、筑前の人です。彼は、初め釈大潮に学び、次いで長州で山県周南に学んでいます。後に福岡藩の儒臣となりますが、人の讒言に因り失職し、悲憤のあまり焼身自殺をしています。鎮西一の大文豪と称された人で、その書に、『論語語由』二十巻・『左伝講義』二巻・『司馬法解』一巻・『素書解』一巻・『南冥詩集』十巻・『南冥文集』二十二巻等が有ります。
寛政の三博士
元禄時代以後になると、品行宜しからざる儒者が現れだし、儒者自身が文人化傾向を示すようになります。その様な中で十一代将軍家斉が登場して、白川藩主松平定信が老中となり幕政を指揮します。定信は、社会風俗の矯正と倫理概念の確立を志し、その拠り所を家康以来の朱子学に求め、昌平黌の建て直しを図ります。彼は、寛政二年(1790)に林大学頭信敬に諭達を下し、朱子学以外を禁止する所謂「寛政異学の禁」が行われます。
この禁止令の目的は、風俗の矯正・精神の高揚・思想の統制などであり、本来全国に向けたものではなく、昌平黌に向けて諭達されたものです。しかし、この禁止令の影響は大きく、諸藩の藩校でこれに倣うもの多く、人々の批判を呼び起こします。
当時林家の権威は地に落ち、むしろ在野に碩学大儒が多くいたため、定信はその中から、幕府の儒官として三人を抜擢しますが、それが寛政の三博士と言われた柴野栗山・尾藤二洲・古賀精里らです。同時に、後嗣の無かった林錦峰の跡に、岩村藩主の子松平信衡(定信の孫)を入れて跡継ぎとし、林家の信頼確立に努めます。この信衡が林述斎で、寛政九年(1797)に古賀精里らと学制を改革し、昌平黌も昌平坂学問所と改称します。
柴野栗山(1734~1807)
名を邦彦と言い、讃岐の人です。彼は、初め崎門派の後藤芝山に学びますが、十八歳で江戸に出て林復軒に学びます。阿波藩の儒官となり、後に京で朱子学を講じ、赤松滄洲・皆川淇園らと親交を結びます。後に抜擢されて昌平黌の教官となります。その書に、『栗山堂文集』二十二巻・『栗山堂詩集』六巻等が有ります。
尾藤二洲(1745~1813)
名を孝肇と言い、伊予の人です。彼は、大阪の片山北海の門に遊び、中井兄弟や頼春水らと親交を結びます。後に抜擢されて昌平黌の教官となります。その書に、『論孟衍旨』二巻・『学庸衍旨』一巻・『静寄軒文集』十二巻・『静寄軒詩集』二十巻等が有ります。
古賀精里(1750~1817)
名を撲と言い、佐賀の人です。彼は、藩に仕え藩命で京の西依成斎の門に学び、大阪で中井竹山や尾藤二洲と交わり、帰藩して藩内の教育に尽力しています。その後抜擢されて昌平黌の教官となります。その書に、『大学章句纂釈』二巻・『中庸章句纂釈』二巻・『近思録集説』八巻・『精里全書』二十巻・『精里文鈔』十巻等が有ります。
寛政の三奇人
寛政時代になると、単なる机上の学問や詩文ではなく、経世の志を抱いて天下を周遊し、貴権に屈する事無く、当世の要務を論じ出す人々が現れます。また彼等は、思想的に尊皇的考えを強く打ち出し、幕末の勤皇思想の魁的様相をも示します。その代表的人々が「寛政の三奇人」と称される人達や、その同調者である唐崎赤斎等です。
林子平(1738~1793)
名を友直と言い、江戸の人です。彼は、幕臣で書物奉行であった岡村良通の次男ですが、父が士籍を削られた後は叔父の林從吾に養育され、その後兄と友に仙台に移り、荻生徂徠の学を学んでいますが、特に徂徠の兵学に着目し、蝦夷や長崎に遊学して外国の知識も学び、鎖国の安眠に警告を鳴らして海防政策を唱え、蟄居を申し渡された警世家です。
高山彦九郎(1747~1793)
名を正之と言い、上野の人です。彼は、十八歳で京に上って山崎闇斎学派の儒学を学び、学者や文人との交流を深めて、反幕的尊皇思想を高唱し、各地を遊歴して筑後の久留米で自刃した、社会活動家にして思想家で、幕末の尊皇運動に影響を与えた先駆的存在です。
蒲生君平(1768~1813)
名を秀實と言い、下野の人です。彼は初め郷里の儒者鈴木石橋に学び、江戸に出て山本北山の門に入って漢学を、本居宣長に国学を学び、天下を周遊して貴権に屈せず、当世の要務を論じた尊皇主義の儒者です。
漢文戯作の世界
八代将軍吉宗の時代に入ると、漢文で書かれた戯作や狂詩・繁昌記ものと称される作品が登場するようになります。これは、江戸の町人文化の発達や文人儒者の登場と、当時の漢詩文趣味とが合致して発生したものである、と言われていますが、何れにしても、漢文で洒落のめした遊びの世界に於ける漢詩文です。
その内容は、主に遊里の世界の遣り取りを記述した『両巴巵言』『史林残花』等に代表される戯作もの、風刺を込めて人情・風俗を描いた『江戸繁昌記』『都繁昌記』等の繁昌記もの、そして寝惚先生太田南畝や銅脈先生畠中観斎らが作った狂詩等が有ります。
戯作作品
戯作は戯作であるが故に、作者も書肆も仮名のものが多く、実際の所、誰の作品なのか殆ど分かりません。以下に、代表的な作品を挙げます。
『両巴巵言』
享保十三年(1728)、江戸遊戯堂刊、金天魔撃鉦著、大人先生の吉原遊びを記述し、最後の落ちは「帰去来兮」で、最後に吉原の細見が付いています。
『史林残花』
享保十五年(1730)、江戸遊戯堂刊、遊女の正史を著さんと試みたと言い、最後に吉原の細見が付いています。
『南花余芳』
享保十五年(1730)、江戸遊戯堂芝居役者の評判記で、最後に京・大坂・名古屋・江戸の役者の細見が付いています。「南」は「男」にかけてあります。
『嶹陽英華』
寛保二年(1742)、玉臂館刊、南郭先生著、嶋之内の遊女遊びを述べたもので、最後に嶋之内の細見が付いています。「南郭先生」とは服部南郭を当てこすったもので、『嶹陽英華』とは『文苑英華』の洒落です。
『瓢金窟』
延享四年(1747)、和泉屋・播磨屋合刊、近江屋源左衛門著、大阪の新町のことを述べたもので、最後に新町の細見が付いています。『瓢金窟』とは『遊仙窟』の洒落です。
『唐詩笑』
玩世教主著、玩世教主とは井上蘭台のことですが、『唐詩選』を自家薬籠中のものとして自由に使いこなし、猥雑な文中に内容の合った詩句をはめ込んでいます。
この他にも、『異素六帖』『本草妓要』『本朝色鑑』『瓢軽雑病論』等々、書名からして何を洒落たのか、すぐに分かるような作品が多くあります。
繁昌記作品
繁昌記ものは、対象とする場所の風俗や人情を描いたものですが、そこには作者の世相に対する風刺が含まれています。
『江戸繁昌記』
天保三年(1832)刊、寺門静軒著、崩壊に向かっている当時の江戸の都市風俗を、吉原・芝居・相撲・書肆・湯堂等から千住・深川等の様子まで、覚めた目で淡々と述べられています。
この他には、天保八年(1837)に中島棕隠が出した『都繁昌記』や、安政六年(1859)の成島柳北の『柳橋新誌』等が有ります。
狂詩作家
狂詩や狂文の作品としては、文に岡田白駒の『奇談一笑』や『開口新語』、山本北山の『笑堂福集』、平賀源内の『風来山人春遊記』等が有り、詩は、服部南郭や祇園南海らが作っていますが、狂詩作家としての代表者は、東の寝惚先生太田南畝と西の銅脈先生畠中観斎です。
太田南畝(1749~1823)
名を覃と言い、江戸の人です。彼は、早くから漢詩文に親しみ、松崎観海に学び夙に詩名が有りますが、十九歳の時に狂詩集の『寝惚先生文集』を刊行し、一躍狂名を唱われます。これ以外にも狂詩集『通詩選』『通詩選笑知』や、滑稽本の『売飴土平伝』等を出しますが、寛政異学の禁以後は、狂詩・狂文を作らなくなります。普通の漢詩集としては、『杏園詩集』が有ります。
畠中観斎(1752~1801)
名を正春と言い、京都の人です。彼は、京都聖護院の寺侍ですが、十八歳の時に狂詩集『太平楽府』を出し、狂詩作家として一躍江戸の太田南畝と並称されるようになります。その後、二十歳で『勢多唐巴詩』、二十七歳で『太平遺響』、三十七歳で『二大家風雅』等の狂詩集を出しますが、彼も寛政異学の禁以後は、狂詩の実作を行っていません。ただ以前の作品を集めた『太平遺響二編』を、四十七歳の時に出しています。
江戸の漢詩人達
江戸時代も後半期に入ると、徂徠の唐詩崇敬に対して異を唱え、宋詩を提唱する山本北山や釈六如らが現れますが、寛政の改革を経て朱子学が再び英気を取り戻すと、詩壇に在っても宋詩の提唱が益々強く言われるようになります。
この時江戸に在って、詩壇を指導したのが市河寛斎であり、その門下の柏木如亭・大窪詩仏・小島梅外・菊池五山(江湖の四才子)らです。
市河寛斎(1749~1820)
名を世寧と言い、上野の人です。彼は、初め徂徠の門人大内熊耳に従って古文辞を学び、次いで関松窓から朱子学を学び、更に井上蘭台の門人高橋九峯に就いて折衷学を学びます。その後林鳳潭の門人となり昌平黌の員長となりますが、鳳潭没後は職を辞し、詩社の江湖詩社を設立します。その後富山藩の儒臣となり、致仕後は長崎に遊んでいます。その書に、『日本詩紀』五十巻・『全唐詩逸』三巻・『寛斎遺稿』五巻・『寛斎百絶』一巻・『寛斎余稿』八巻・『陸詩意註』七巻・『宋百家詩』七巻等が有ります。
岡本花亭(1768~1850)
名を成と言い、江戸の人です。彼は、折衷学派の南宮大湫に師事して詩を善くし、天保年間に在っては、詩壇の耆宿として名を馳せます。彼は、幕府に仕えて勘定奉行となり近江守に任ぜられています。その書に、『花亭詩集』が有りますが未刊で、彼の詩は『天保三十六家絶句』に収められています。
寛斎門下の人々
柏木如亭(1763~1819)
名を昶と言い、江戸の人です。彼は、幕府小普請方大工の棟梁の裕福な家に生まれ、生業を事とせず遊興に生き、寛斎の門に入って菊池五山らと親交を結びますが、その後は国内を放浪して一生を終えます。彼は、三十三歳で江戸を去って信州へ行き、更に新潟に赴き、次いで京都・四国へと足を延ばし、伊勢・伊賀を回り京で客死しています。この遊歴をしながら漢詩を作って行く様は、和歌の西行・俳諧の芭蕉に連なる遊歴詩人の一人であると言えます。その書に、『海内才子詩』五巻・『如亭集』二巻・『聯珠詩格釈註』三巻・『如亭遺稿』三巻・『如亭百絶』一巻等が有ります。
大窪詩仏(1767~1837)
名を行と言い、常陸の人です。彼は、若い時は山中天水に学びますが、長じて寛斎の門に入り江湖の四才子(柏木如亭・菊池五山・小島梅外)と称されます。二十四歳の時に儒家を志して山本北山の門に入り、寛斎が富山に移った後、如亭と二人で二痩詩社を開き、清新の詩風を唱えます。その後各地を遊歴し、一時秋田藩の儒臣となりますが、すぐに辞して再び遊歴を始めます。その書に、『宋詩礎』二巻・『北遊詩草』二巻・『西遊詩草』二巻・『詩聖堂詩集』三十三巻等が有ります。
小島梅外(1772~1841)
名を?と言い、江戸の人です。彼は、裕福な商家に生まれ、家業を営む傍ら寛斎の門に入って漢詩を学び、江湖の四才子と称されるまでになります。また俳諧を鈴木道彦に学んでいます。生業を持った上で詩文に遊ぶと言う、所謂文人です。その書に、『梅外詩集』等が有ります。
菊池五山(1772~1855)
名を桐孫と言い、讃岐の人です。彼は、幼時に後藤芝山に学び、京に上って柴野栗山に就き、栗山が儒官となると共に江戸に下り、寛斎の門に入っています。寛斎が江戸を去り、如亭も詩仏も遊歴の空の下で、五山一人が江戸漢詩壇を背負うような状況になります。その後五十七歳の時に、祖父の跡目を継いで高松藩の記室となります。その書に、『五山堂詩話』十六巻・『五山堂詩存』七巻・『西湖竹枝』二巻・『水東竹枝』一巻・『清人詠物詩鈔』一巻・『明人絶句』二巻等が有ります。
関西の漢詩人達
関西でも宋詩の提唱は盛んで、また江戸以上に自由な雰囲気が有り、片山北海の混沌社に属して浪花の寵児と唱われた葛城子琴や、釈六如の影響を強く受けて関西の詩壇に重きをなした管茶山や、安芸藩の儒臣である頼春水等が活躍し、次いで頼山陽・篠崎小竹・中島棕隠・坂井虎山・藤井竹外等が詩名を唱われます。その彼等の交遊の詩客に、文人として名高い浦上玉堂や田能村竹田がいます。
葛城子琴(1738~1784)
名を張と言い、大阪の人です。一般的には葛子琴と称しています。彼は、大阪の医家の子で、京に上って医を学び大阪で医を生業としています。学は菅谷甘谷に師事して『春秋左氏伝』に通じ、書画篆刻も巧みで、混沌社に属して詩名高きものが有り、諸芸に通じた才能と謙虚な人柄とから、上方文人の間で寵児となっています。その書は写本でのみ伝わっていますが、『葛子琴詩抄』七巻・『葛氏遺香集』七巻・『葛子琴詠物』一巻・『小園詩話』二巻等が有ります。
頼春水(1746~1816)
名を惟完と言い、安芸の人です。彼は、初め平賀中南に学び、次いで崎門派の塩谷志帥に学び、志帥没後大阪に出て片山北海の門に入ります。この時、尾藤二洲・古賀精里らと朱子学を考究し、広島藩の儒臣となり世子侍読として江戸詰めになります。江戸で親交を結んだ人々は、共に各藩の世子侍読で朱子学者達です。帰郷後は藩学の宿老として、人々の崇敬を集めています。本来彼は朱子学者ですが、子弟の教育に重きを置いた教育者で、詩名を以てその名が知られています。その書に、『師友志』一巻・『春水詩草』三巻・『春水遺稿』十二巻・『春水日記』三十五巻等が有ります。
管茶山(1748~1827)
名を晋帥と言い、備後の人です。彼は、恐らく江戸後半期を代表する漢詩人です。病弱であったため医を志し、京に上って和田東郭に医術を学び、那波魯堂の門に入って朱子学を学んでいます。その後大阪の混沌社に加盟して篠崎三島らと交わりを結び、帰郷して私塾の黄葉夕陽村舎を立て、門弟に教授しています。その詩名高きを以て福山藩の儒員となり、大目付まで進んでいます。その書に、『黄葉夕陽村舎詩集』二十三巻・『茶山文集』四巻・『茶山遺稿』七巻等が有ります。
頼春風(1753~1825)
名を惟疆と言い、安芸の人です。彼は、頼春水の次弟で、兄の春水に就いて学問を学び、更に古林見宜に医学を学んだ人で、郷里の竹原で子弟の教授に従事し、君子の風格が有ったと言われています。その書に、『春風館詩鈔』二巻が有ります。
頼杏坪(1756~1834)
名を惟柔と言い、安芸の人です。彼は、頼春水の季弟で、大阪に出て兄と共に片山北海の門に入ります。更に江戸に出て服部栗斎の門に入り、帰藩後は藩儒となって宋学の復興に尽力します。儒者として詩文のみに名が有った訳では無く、藩の奉行職を歴任して治績も高かった人で、更に兄春水に代わって、春水の長子山陽を養育教導しています。その書に、『諭俗要言』一巻・『杏坪詩集』四巻・『杏坪文集』六巻・『春草堂詩鈔』四巻等が有ります。
梅辻春樵(1776~1857)
名を希聲と言い、近江の人です。彼は、代々の家業である日枝神社の神官職を嗣いで禰宜となりますが、皆川淇園や村瀬栲亭に学び、弟に職を譲り京に出て家塾を開き教授に従事しますが、特に詩が巧みで詩名の高かった人です。その書に、『春樵詩草初編』二巻・『春樵家稿』十卷・『春樵遺稿』二卷等が有ります。
中島棕隠(1779~1855)
名を徳規と言い、京都の人です。彼は、学を村瀬栲亭に受け、詩文を善くし戯作も行っています。その楼名を銅駝余霞楼と言いますが、青楼の主人であったとも伝えています。その書に、『都繁昌記』一巻・『金帚集』六巻・『鴨川朗詠集』二巻・『棕隠軒文集』六巻・『棕隠軒詩集』十四巻等が有ります。
頼山陽(1780~1832)
名を襄と言い、安芸の人です。彼は、春水の子で、恐らく江戸随一の散文家です。彼は、十二歳で四書の素読を終わり、十八歳で叔父の杏坪に伴われて江戸に遊学しますが、一年で帰郷して脱藩し、修史で一旗挙げんと志します。しかし、大阪では中井氏に敵するべくも無く、京に赴いて門弟に学を講じ名声を高めます。その後文政九年四十七歳の時に『日本外史』の修訂が終わり、松平定信の求めに応じて献上し、文政十二年に定信の手に因って公刊され、彼の文名は海内に喧伝されます。確かに文名は高いですが、学者としては当時の佐藤一斎や安積艮斎らの後塵を拝すと言えます。その書に、『日本外史』二十二巻・『日本楽府』一巻・『宋詩鈔』八巻・『東坡詩鈔』三巻・『山陽文集』十三巻・『山陽詩集』二十三巻等が有ります。
篠崎小竹(1781~1851)
名を弼と言い、豊後の人です。彼は、九歳の時に篠崎三島に学んでその養子となり、十九歳で江戸に遊び尾藤二洲の学を聞き、一度帰阪後に再び江戸に出て古賀精里に学び、その後大阪に帰り父三島に代わって門弟に教授しています。学は朱子学ですが、詩文と書で名高かった人です。その書に、『小竹詩集』一巻・『小竹文集』一巻・『小竹斎詩鈔』五巻・『小竹斎文稿』四巻等が有ります。
坂井虎山(1798~1850)
名を華と言い、安芸の人です。彼は、広島藩の藩儒坂井東派の子で、父に家学を受け、藩校に入って頼春水に学びます。後に藩の学問所教授方となって朱子学を講じますが、むしろ詩文に長じて名が有った人です。その書に、『杞憂策』一巻・『虎山文集』一巻等が有ります。
河野鉄兜(1825~1867)
名を維熊と言い、播磨の人です。彼は、初め讃岐の吉田仙鶴に学び、その後梁川星巌の門に入って詩名を馳せ、江戸や西国を歴訪して草場佩川や広瀬淡窓らと親交を結び、晩年は家塾を開いて子弟に教授した人です。その書に、『鉄兜遺稿』三巻等が有ります。
山陽門下の人々
村瀬藤城(1791~1853)
名を?と言い、美濃の人です。彼は、初め篠崎三島に従い、その子小竹の家で頼山陽の来遊に際会して教えを受け、以後山陽に師事して学んでいます。後に家塾を開いて経史・詩文を教授し、更に犬山藩の藩校敬道館でも経史を講じています。その書に、『宋詩合璧』四巻・『藤城詩文集』・『藤城遺稿』等が有ります。
後藤松陰(1797~1864)
名を機と言い、美濃の人です。彼は、初め菱田毅斎に学びますが、頼山陽の門に入って詩を善くし、篠崎小竹の娘婿となって大阪で教授に従事した人です。その書に、『評註山陽詩鈔』四巻・『松陰詩稿』九巻・『松陰文稿』三巻等が有ります。
門田樸斎(1797~1873)
名を重隣と言い、備後の人です。彼は、初め管茶山に学んで彼の養子となりますが、茶山没後に門田姓に復して頼山陽に師事し、福山藩に仕えて学政を掌った人です。その書に、『樸斎遺稿』・『樸斎葦北詩鈔』等が有ります。
牧百峯(1801~1863)
名をゲイ(車+兒)と言い、美濃の人です。彼は、頼山陽の門に学んで詩文を善くし、講説に従事した後に学習所の教授となった人です。その書に、『トウ斎漫稿』が有ります。
村瀬太乙(1803~1881)
名を青黎と言い、美濃の人です。彼は、初め同郷の村瀬藤城に学び、次いで頼山陽に師事して詩文を修めます。名古屋で家塾を開きますが、犬山藩に仕えて儒臣となり、藩校敬道館で講説しています。彼は、経史・詩文以外にも書画を善くした人です。その書に、『幼学詩選』二巻・『太乙堂詩鈔』一巻等が有ります。
宮原節庵(1806~1885)
名を龍と言い、尾道の人です。彼は、初め頼山陽に師事して詩文を修め、後に江戸の昌平黌に入って学び、その後京都に家塾を開いて講説に従事し、書も善くした人です。その書に、『節庵遺稿』四巻等が有ります。
藤井竹外(1807~1866)
名を啓と言い、摂津の人です。彼は、藩の儒臣で詩を善くし、頼山陽の門に学び、梁川星巌・広瀬淡窓らと親交を結んでいます。致仕した後は、京に居を構え作詩に耽っています。その書に、『竹外詩文稿』一巻・『竹外詩鈔』一巻・『竹外亭百絶』一巻・『竹外二十八字詩』二巻等が有ります。
関藤藤陰(1807~1876)
名を成章と言い、備中の人です。彼は、頼山陽に師事して経学・詩文を修め、後に福山藩に仕えて藩校で教授に従事しています。その書に、『藤陰舎遺稿』七巻等が有ります。
詩客
浦上玉堂(1745~1820)
名を弼と言い、備前の人です。彼は、初め池田藩に仕えていますが、致仕して京に居を構え、画家を生業としますが、儒学に通じ詩文にも巧みであったため、京阪の詩人達と交流を深めています。その書に、『玉堂詩稿』一巻・『玉堂琴譜』一巻・『奇事小誌』四巻等が有ります。尚、玉堂の二人の子、浦上春琴・浦上秋琴の兄弟も、詩文を善くした画家として有名です。
田能村竹田(1777~1835)
名を孝憲と言い、豊後の人です。彼は、幼にして学を好み詩を善くし、江戸に出て大竹東海に師事して古文辞学を修め、同時に谷文晁に就いて画法を学んでいます。その後、京で皆川淇園に学び、頼山陽や篠崎小竹らと交流し、詩文書画に長じた人です。その書に、『竹田荘詩話』一巻・『竹田詩集』一巻・『竹田文集』一巻・『今才調集』十三巻・『豊後紀行』一巻等が有ります。
地方の漢詩人達
江戸時代も寛政以後になりますと、江戸や上方のみならず、地方に在っても詩名・文名を唱われる人々が登場して来ます。それは、秋田で文教の振興に尽力した石田無得、紀州で文名を唱われた斉藤拙堂や土井ゴウ牙、詩名を唱われた菊池渓琴らであったり、九州の藪孤山や亀井昭陽・原古処、鎮西の詩聖と称された広瀬淡窓や中島米華・広瀬旭荘らです。
東北の人々
石田無得(1773~1840)
名を道と言い、秋田の人です。彼は、幼時より詩書を善くし、初め来藩していた国学者で歌人である津村ソウ庵に学び、ソウ庵に伴われて十七歳で江戸に出て管茶山に師事し、佐藤一斎・伊沢蘭軒・狩谷ヤ齋・太田南畝・蠣崎波響ら、当時の一流文人や儒者と交流し、家督を継ぐため帰郷して郷里で詩書会などを開き、藩の文運発展に寄与した儒者です。彼は、詩書画に渉って巧みな文人儒者ですが、その中でも特に書は優れており、淡墨を駆使した行草の連綿体に特徴的な書風を示す能書家で、江戸に永住していれば、米庵や海屋らと名を馳せたであろうことは疑い無いと言われています。尚、森鴎外の『伊沢蘭軒』には、無得が巳之助・惣助の名で登場しています。
紀州の人々
斉藤拙堂(1799~1865)
名を正謙と言い、伊勢の人です。彼は、昌平黌に学び古賀精里から学を受けていますが、文章に尤も力を注ぎ一家を成した人です。津藩に有造館が創立されるに当たり、二十四歳で教官になって督学に進み、『資治通鑑』を刊行して着実に藩校の実を挙げ、昌平黌から儒官に召されますが、藩主の知遇を思い辞退しています。朱子学を宗としていますが、歴史・詩文にも長じ、特に文名を以て鳴らした人です。その書に、『拙堂文話』八巻・『続拙堂文話』八巻・『拙堂文集』六巻・『月瀬記勝』二巻・『海外異伝』一巻等が有ります。
菊池渓琴(1799~1881)
名を保定と言い、紀州の人です。彼は、若い時に江戸に出て大窪詩仏に詩を学び、佐藤一斎・頼山陽・梁川星巌らと親交を結びます。紀州では、祇園南海以後の詩の第一人者です。その書に、『海荘集』三巻・『海荘遺稿』一巻・『秀餐楼詩集』二巻・『渓琴山房詩』六巻等が有ります。
土井ゴウ牙(1817~1880)
名を有恪と言い、伊賀の人です。彼は、二十七歳で有造館助教となり、文を斉藤拙堂に経義を石川竹厓に学び、有造館の教官になります。学は、最初朱子学を学びますが、晩年は清朝の考証学へと進んでいます。詩文・書画にも長じた人です。その書に、『兵語百計』一巻・『ゴウ牙遺稿』十六巻・『ゴウ牙斎詩稿』五巻・『ゴウ牙斎存稿』三巻等が有ります。
菊池三溪(1819~1891)
名を純と言い、紀州の人です。彼は、江戸に出て昌平黌の林培齋に学び、和歌山藩藩校明教館の教授となりますが、後に幕府の儒官となり、晩年は京都で講説に従事しています。特に詩文に長じた人です。その書に、『国史略』十五巻・『日本外史論文講義』一巻・『増評韓蘇詩鈔』三巻・『晴雪楼詩鈔』一巻等が有ります。
九州の人々
藪孤山(1735~1802)・・講学系
名を愨と言い、肥後の人です。彼は、藩命に因り江戸に遊学し、帰郷後は藩学の教授となり、中井履軒・尾藤二洲・頼春水らと交流を重ねる一方で、藩学の刷新に鋭意努力しています。その書に、『崇孟』一巻・『孤山遺稿』十六巻・『樂?集』十巻・『凡鳥館詩文集』四巻等が有ります。
原古処(1767~1827)
名を震と言い、筑前の人です。彼は、亀井南冥の門人で徂徠の学を受け、藩校稽古館で二十年に渉って徂徠学を講じています。詩文に長じて、広瀬淡窓・頼山陽らと親交を結んでいます。彼の長女が、幕末女流詩人として有名な、原采蘋です。その書に、『暁月山房集』二十四巻・『古処山堂詩稿』八巻等が有ります。
亀井昭陽(1773~1836)・・講学系
名を昱と言い、福岡の人です。彼は、亀井南冥の長子です。幼にして父から家学を受け、その後徳山藩鳴鳳館の学頭である役藍泉から学を受けています。帰郷後藩は父の後を嗣ぎ甘棠館で教授しています。その学は、徂徠の古文辞学を奉じて父南冥の説を主張しています。その書に、『論語語由述志』二十巻・『尚書考』十一巻・『孟子考』二巻・『大学考』一巻・『中庸考』一巻・『老子考』二巻・『昭陽文集』三巻等が有ります。
広瀬淡窓(1782~1856)
名を建と言い、豊後の人です。彼は、十六歳の時に亀井昭陽の門に入り、徂徠学の余風に馴染みますが、二十歳頃に唐宋の詩を読んで新機軸を打ち出し、二十一歳で郷里に私塾咸宜園を開き、門弟に教授しています。その学は、経学に老荘を加味した独特の学風ですが、それよりも詩名が高く、鎮西一の大漢詩人で門弟四千人に及ぶと言われ、その門下に、大村益次郎・高野長英らがいます。その書に、『論語三言解』一巻・『老子摘解』二巻・『遠思楼詩鈔』四巻・『淡窓詩話』二巻・『淡窓日記』八十二巻等が有ります。
中島米華(1801~1834)
名を大賚と言い、豊後の人です。彼は、若くして広瀬淡窓に学び、その後頼山陽・亀井昭陽らと従遊し、昌平黌に入り古賀?庵に学びます。後に佐伯藩の儒官となり、藩の学政を掌ります。その書に、『日本新楽府』一巻・『愛琴堂集』七巻・『愛琴堂詩醇』二巻・『米華遺稿』一巻等が有ります。
広瀬旭荘(1807~1863)
名を謙と言い、豊後の人です。彼は、淡窓の末弟で、兄同様に亀井昭陽の門に入り、次いで備後の管茶山に学んでいます。帰郷後は田代の東明館に教授する傍ら、兄の私塾を監督し、その後、大阪・江戸・北陸・中国を巡って日田に帰り、私塾雪来館を開いて教授しています。その書に、『梅?詩鈔』十二巻・『梅?遺稿』二巻・『九桂草堂随筆』十巻等が有ります。
秋月橘門(1809~1880)
名を龍と言い、豊後の人です。彼は、十六歳で広瀬淡窓の門に入り、次いで中島米華に家に寓して学び、更に亀井昭陽の門に入って徂徠学を学びますが、彼自身は朱子学や徂徠学をあまり論ぜず、むしろ詩文や書に長じ、和歌も善くしています。その書に、『橘門韻語』二巻等が有ります。
幕末の女流詩人達
江戸時代も幕末が近くなり国内が騒然として来ると、あたかも去りゆく夏を惜しむ立葵の如く、忽然として女流の漢詩人が登場します。それが、頼山陽の門弟であった江馬細香であり、亀井昭陽の娘である亀井小琴であり、原古処の娘である原采蘋であり、梁川星巌の妻である梁川紅蘭です。
江馬細香(1787~1861)
名をタオと言い、美濃の人です。彼女は、頼山陽に師事して詩文を学び、中林竹洞に画を学んだ人です。放蕩男の山陽が、結婚したいと思った程の才女ですが、梁川星巌らと詩社白鴎社の同人となり、終生詩・書・画を友として過ごした人です。その書に、『湘夢遺稿』二巻が有ります。
亀井小琴(1798~1857)
名を友と言い、筑前の人です。彼女は、亀井家の家学を受け継ぎ、詩と画を善くした人です。その書に、『小琴詩集』が有ります。
原采蘋(1798~1859)
名を猷と言い、筑前の人です。彼女は、原古処の娘で、秋月藩の儒官であった父の浮沈に、影の如く付き従っています。二十年間の江戸暮らしから帰郷した彼女の仕事は、名門原家の再興でした。彼女の生涯は、将に原家を背負った一生であった、と言えます。その書に、『采蘋詩集』一巻等が有ります。
梁川紅蘭(1804~1879)
名を景婉と言い、美濃の人です。彼女は、梁川星巌の又従妹ですが、十七歳で三十二歳の星巌の妻となっています。夫星巌に従い彦根や江戸に住みますが、星巌没後は、京で私塾を開き子女の教育に従事しています。その書は、全て夫の『星巌集』に入っていますが、『紅蘭小集』二巻・『紅蘭遺稿』三巻等が有ります。
幕末勤王の志士達
江戸時代も幕末動乱の時期になると、勤王の志士と呼ばれる人々が国事に奔走し出します。彼等は、各藩の若手藩士であったり或いは勤王の儒者であったりしますが、共に漢学の教養を身につけており、憂国の漢詩を多く作っています。代表的な人物として、若手藩士では長門の久坂江月斎・越前の橋本景岳・長州の高杉東行ら、儒者では梅田雲浜・大橋訥庵・日柳燕石らです。
梅田雲浜(1816~1859)
名を定明と言い、若狭の人です。彼は、初め小浜の儒者山口菅山に学び、次いで江戸の出て佐久間象山や藤田東湖らと交わり、後の京で講説に従事しますが、尊皇攘夷を高唱し安政の大獄で獄死しています。その書に、『雲浜遺稿』一巻が有ります。
大橋訥庵(1816~1862)
名を正順と言い、下野の人です。彼は、江戸の豪商大橋淡雅の養子となり、佐藤一斎の門に学んで講説に従事しますが、尊皇攘夷を唱えて捕らえられ、獄中で病死しています。その書に、『闢邪小言』四卷・『訥庵詩文鈔』四卷等が有ります。
日柳燕石(1817~1868)
名を政章と言い、讃岐の人です。彼は、琴平の儒医三井雲航に学んで史学を考究し、詩文や書画に長じて勤王の志が厚く、吉田松陰や久坂玄瑞らと交流を深め、倒幕軍にも自ら参加しています。その書に、『呑象楼遺稿』八巻・『呑象楼詩鈔』一巻・『柳東軒詩話』一巻等が有ります。
橋本景岳(1834~1859)
名を左内と言い、越前の人です。彼は、藩の儒者吉田東篁に学び、藩校明道館の学監となりますが、国事に奔走して安政の大獄で刑死しています。その書に、『藜園遺稿』三巻が有ります。
久坂江月斎(1839~1864)
名を通武と言い、長門の人です。彼は、世々医を業とする家に生まれますが、兵学を吉田松陰に、漢学を芳野金陵に学び、倒幕を謀って蛤御門の変で戦死しています。その書に、『江月斎遺集』二巻・『興風集』一巻等が有ります。
高杉東行(1839~1867)
名を春風と言い、長州の人です。彼は、吉田松陰の松下村塾に学び、勤王の大義を唱えて奇兵隊を組織し、幕府の征長軍と戦い倒幕運動を進めた人です。その書に、『東行詩文集』二巻・『東行遺文』一巻等が有ります。
江戸後期朱子学派の人々
寛政の改革以後の学術は、官学である朱子学が勢いを盛り返し、この時期の朱子学派の人々は、大概昌平黌に関わりを持つ人達が中心になります。例えば、林述斎を初めとして、古賀トウ庵・安積艮斎・松崎慊堂・羽倉簡堂・塩谷宕陰・安井息軒・佐久間象山・楠本端山・芳野金陵・友野霞舟・成島柳北らです。しかし、彼等の活動は、激変する社会の中で、辛うじて幕府の官学を支えている、と言う状況に過ぎません。実際の社会変動の中で活躍するのは、彼等官学の朱子学者達ではなく、諸藩の漢学者達です。
近藤篤山(1766~1846)
名を春崧と言い、伊予の人です。彼は、郷里の先学尾藤二洲に師事し、藩校の教授となって朱子学を講じ、一生宋学を修めた人ですが、その人柄が重厚謹厳であり、「伊予聖人」と称されています。その書に、『篤山遺稿』が有ります。
林述斎(1768~1841)
名を衡と言い、美濃の人です。彼は、美濃岩村藩主松平侯の第三子です。初め服部仲山に学び、次いで林家の高弟渋井太室に学びます。広く経史・和漢の学を修め詩芸を以て人と交わり、その名を知られるようになります。たまたま林大学頭錦峰が没して跡が無かったため、幕命に因り二十六歳で林家八世を嗣ぎます。以後四十九年間幕府の学政を総督し、林家を中興して昌平坂学問所を確立し、官学(朱子学)を復興させます。彼の学術的行為で最大の事は、中国で既に亡び日本に現存していた漢籍十七種を、「佚存叢書」として活字印行したことです。その書に、『述斎詩稿』六巻・『述斎文稿』十二巻・『武蔵国志』三十六巻・『南役小録』二巻・『朝野旧聞』千九十三巻等が有ります。
松崎慊堂(1771~1844)
名を復と言い、肥後の人です。彼は、十三歳の時に父の命で僧になりますが、十五歳の時に出奔して江戸に赴き、林簡順の門に入って昌平黌に寄寓し、林述斎に学びます。当時佐藤一斎も林塾におり、互いに切磋琢磨して林塾の双璧と称されるようになります。後に掛川藩の藩儒となり、致仕後は江戸に石経山房を築いて隠遁します。その学は、朱子学を修めていますが、漢唐の注疏から清朝の考証学までと幅の広い折衷学で、説文・石経の学に深く、日本に於ける石経の研究は、慊堂に始まると言われています。彼の交わった知友には、市野米庵・山梨稲川・狩谷(木+夜)斎ら、古注学派の人が多いです。慊堂の門下に、塩谷宕陰や安井息軒が現れます。その書に、『論語集注』二巻・『四書札記』二巻・『周礼札記』二巻・『爾雅札記』一巻・『慊堂文集』十五巻・『慊堂詩集』四巻等が有ります。
野村篁園(1775~1843)・・詩文系
名を直温と言い、大阪の人です。彼は、学を古賀精里に受け、昌平黌の儒員となります。古賀トウ庵とは僚友です。温厚な人柄で、特に詩が巧みですぐれています。その書に、『篁園全集』二十巻が有りますが、これは刊本ではなく自筆稿本で、現在内閣文庫に所蔵されています。
古賀穀堂(1778~1836)
名を燾と言い、佐賀の人です。彼は、古賀精里の第一子です。父に従い江戸に出て、柴野栗山や尾藤二洲に学びます。更に大阪の中井竹山や安芸の頼春水らと交わり、藩校の教授として朱子学を講じ、詩文にも長じています。その書に、『穀堂文集』十巻・『清風楼詩稿』六巻・『穀堂遺稿抄』八巻等が有ります。
赤井東海(1787~1862)
名を繩と言い、讃岐の人です。彼は、江戸に出て昌平黌の古賀精里に学び、高松藩の儒員となり渡辺華山らと親交を結んでいます。その書に、『四書質疑』十二巻・『学庸質疑』二巻・『春秋質疑』四巻・『晏子略解』三巻・『戦国策遺考』六巻等が有り、詩文集には、『東海文鈔』六巻・『東海詩鈔』四巻等が有ります。
古賀トウ庵(1788~1847)
名を煜と言い、佐賀の人です。彼は、古賀精里の第三子です。父に従い江戸に出て、八歳の時から柴野栗山・尾藤二洲に学びます。幕府儒者見習となり父精里と共に昌平黌に出仕し、合わせて佐賀藩の明善堂で学を講じています。学は朱子学ですが、詩は杜甫を宗としています。その書に、『論語問答』二十巻・『大学問答』四巻・『中庸問答』六巻・『孟子集説』四巻・『トウ庵文鈔』二十六巻・『トウ庵詩鈔』二十巻等が有ります。
草場佩川(1788~1867)・・詩文系
名を?と言い、肥前の人です。彼は、十八歳の時に佐賀藩の弘道館で学び、二十三歳で江戸に出て古賀精里の門に入ります。宋学を修めた後佐賀藩に仕えて弘道館教授となります。博学多識を以て知られた人ですが、特に詩文に長じ墨竹画にも巧みであったと言われています。その書に、『佩川詩鈔』四巻・『阿片紀事』四巻・『烟茶独語』一巻等が有ります。
羽倉簡堂(1790~1862)
名を用九と言い、伏見の人です。彼の家は代々幕臣で、父の赴任に伴い初めは広瀬淡窓に従学し、江戸に移って古賀精里に学を受けます。諸州の代官を努める傍ら、韓愈の文や歴史を学びます。その書に、『資治通鑑評』二巻・『読史箚記』八巻・『詠史』一巻・『非詩人詩』二巻等が有ります。
友野霞舟(1791~1849)・・詩文系
名を?と言い、江戸の人です。彼は、初め赤井東海に学びますが、その後昌平黌に入り野村篁園に師事します。後に甲府徽典館学頭に任ぜられ、次いで昌平黌教授となります。彼は、学よりも詩の方が遙かに優れています。その書に、『煕朝詩薈』百十巻・『錦天山房詩話』二巻・『霞舟吟』一巻・『霞舟文稿』一巻等が有ります。
安積艮斎(1791~1860)
名を信と言い、奥州の人です。彼は、初め二本松の儒臣今泉徳輔に学びますが、後に江戸に出て林述斎の門に入ります。学が成り塾を開いて講説し、四十一歳で『文略』を刊行して名声を高め、二本松藩の藩校敬学館教授となり、後に昌平黌教授となっています。彼は、文を以て鳴らした人です。その書に、『論孟衍旨』六巻・『大学略説』一巻・『中庸略説』一巻・『荀子略説』一巻・『艮斎文集』十五巻・『見山楼詩集』五巻等が有ります。
林培斎(1793~1846)
名をヒカル(皇+光)と言い、江戸の人です。彼は、林述齋の第三子で、佐藤一斎や松崎慊堂に学び、朱子学を修め詩文に長じ、林家第九代の大学頭になります。その書に、『観光集』二巻・『攀日光山記』一巻・『澡泉先後録』一巻等が有ります。
野田笛浦(1799~1859)・・詩文系
名を逸と言い、丹後の人です。彼は、十三歳で江戸に出て古賀精里に従い、昌平黌に入って古賀?庵に学びます。中国語にも通じ詩文を善くし、江戸で講説を生業としていましたが、田辺藩に仕えて儒員となり藩政にも参与しています。特に文章が巧みで、当時の四大家(篠崎小竹・斉藤拙堂・坂井虎山)と称されています。その書に、『笛浦詩文集』四巻・『北越詩草』一巻・『笛浦小稿』一巻・『海紅園小稿』一巻等が有ります。
藤森弘庵(1799~1862)・・詩文系
名を大雅と言い、江戸の人です。彼は、古賀穀堂や古賀?庵らに就いて学を受け、土浦藩の教授となって藩教に尽力し、晩年は江戸で家塾を開き弟子に教授しています。その学は朱子学ですが、むしろ詩文と書の巧みさで名を馳せた人です。その書に、『春雨楼詩鈔』三巻・『如不及齋文鈔』三巻・『弘庵先生遺墨帖』二巻等が有ります。
安井息軒(1799~1876)
名を衡と言い、日向の人です。彼は、初め大阪に行き篠崎小竹に学びますが、その後江戸に出て昌平黌に入り、松崎慊堂に就いて学びます。後に肥後藩の儒臣になり藩政に参与し、再び江戸に出て昌平黌の教授となります。その学は、朱子学を学んでいても、漢唐の注疏を宗として衆説を用いたものです。彼の外孫が安井小太郎です。その書に、『論語集説』六巻・『大学説』一巻・『中庸説』一巻・『孟子定本』十四巻・『毛詩輯疏』十二巻・『左伝輯釈』二十五巻・『管子纂詁』二十四巻・『戦国策補正』二巻・『息軒文抄』六巻・『息軒遺稿』四巻等が有ります。
芳野金陵(1802~1878)・・詩文系
名を世育と言い、下総の人です。彼は、漢詩人芳野南山の子で、初め父から家学を受けますが、二十二歳の時に江戸に出て亀田綾瀬の門に入ります。最初浅草に私塾を開いて講義していますが、駿河の田中藩の儒臣となって藩教に尽力し、次いで幕府に招聘されて昌平黌の儒官となっています。その書に、『金陵文鈔』二巻・『金陵遺稿』十巻等が有ります。
塩谷宕陰(1809~1867)
名を世弘と言い、江戸の人です。彼は、父から句読を学び十六歳で昌平黌に入り、松崎慊堂に師事します。その後浜松藩の儒臣となりますが、幕命に因り昌平黌の教授となります。学は実用を旨として文を善くした人です。その書に、『宕陰存稿』十七巻・『宕陰?稿』三巻・『晩香堂文鈔』二巻・『昭代記』十巻等が有ります。
佐久間象山(1811~1864)
名を啓と言い、信州の人です。彼は、十六歳頃に算数を学びますが、儒者として経世の任に当るべく、藩儒鎌原桐山に就いて朱子学を学び、二十三歳で江戸に遊学して佐藤一斎の門に入ります。二十九歳で江戸に私塾象山書院を開いて門弟に教授しますが、藩主真田幸貫が老中となるに及んで、召されて顧問となり幕府の海防事務を担当します。帰郷後は、塾を開いて教育に従事しています。尚、彼の門下から吉田松陰が現れます。彼は、博学であったため多方面に渉って著作が有りますが、儒教関係のものは殆どありません。僅かに『春秋占筮書補正』とか『洪範今解』なる書が有ったと、伝えています。
森田節齋(1811~1868)
名を益と言い、大和の人です。彼は、初め古注学派の猪飼敬所に学び、次いで頼山陽に学び、更に江戸に出て昌平黌に入って宋学を学び、特に『孟子』と『史記』に精通し、文名の高かった人です。彼は、諸藩の招聘に応じて教授の任に当たっていますが、勤皇の志が篤く、晩年は剃髪して幕府の追求を避け、紀州で客死しています。その書に、『太史公序贊蠡測』二巻・『節齋遺稿』二巻・『節齋文稿』一巻等が有ります。
成島柳北(1837~1884)・・詩文系
名を惟弘と言い、江戸の人です。彼は、幕府儒官成島筑山の子で詩文を善くし、幕府に仕えて儒官となり、また将軍家定・家茂の二代に渉って侍講となり、経学を講じています。明治以後は、文筆を生業として朝野新聞の社長となっています。その書に、『柳橋新誌』二巻・『柳北詩鈔』一巻・『柳北奇文』二巻・『柳北遺稿』二巻等が有ります。
江戸後期陽明学派の人々
江戸後半期の陽明学派の人々は、江戸の佐藤一斎とその門下である池田草庵・吉村秋陽・山田方谷ら、及び佐久間象山門下の吉田松陰らです。これに対して上方では、米屋打ち壊し事件で有名な大塩中斎が代表で、その門下に林良斎が現れます。他にも独自に陽明学を唱えた人に、春日潜庵・横井小楠らがいます。全ての陽明学者がそうであるとは限りませんが、幕末と言う世相の中で、「知行合一」の考えがより先鋭的な行動に表れる点が見受けられます。
佐藤一斎(1772~1859)
名を坦と言い、美濃の人です。彼は、岩村藩の家老の子で、幼にして林述斎と共に学んでいます。京で皆川淇園に会い、大阪で中井竹山に学び、江戸に出て林簡順の門に入ります。その後岩村藩の藩政に参与しますが、林述斎が没したため、幕命に因り儒官に抜擢され昌平黌で教授することになります。彼は、朱子学を学びながらも内心は陽明学に惹かれていたため、昌平黌では朱子学を講じ、私塾では陽明学を述べると言う二面性を持っています。そのため、陽朱陰王の謗りを受けますが、学術も徳望も優れて当時の儒林中の泰斗であったため、将軍家や諸侯から厚い崇敬を受け、門弟は三千人を超えています。その書に、『言志四録』四巻・『論語欄外書』二巻・『孟子欄外書』二巻・『尚書欄外書』九巻・『詩経欄外書』四巻・『傳習録欄外書』三巻・『近思録欄外書』三巻・『愛日楼文詩』四巻・『愛日楼全集』二十巻等が有ります。
大塩中斎(1793~1837)
名を正高と言い、大阪の人です。彼は、大阪天満町の与力大塩氏の養子となり、与力業に努めていますが、学問の必要を感じ江戸の出て林述斎の門で学んでいます。その後、王陽明を慕ってその学を考究し、大阪西町奉行所の与力業の傍ら私塾洗心洞塾で、講説を行っています。彼の学は、単に先賢の書を端座して訓詁通読するを良しとせず、学の道の実践実行を重んじています。四十五歳の時、米価急騰に苦しむ貧民を救うべく兵を挙げようとして失敗し、自殺しています。その書に、『洗心洞箚記』三巻・『洗心洞詩文集』二巻・『洗心洞学名学則』一巻・『古本大学旁注補』一巻等が有ります。
一斎門下の人々
吉村秋陽(1797~1866)
名を晋と言い、安芸の人です。彼は、十五歳で古義学者山口西園に従い、十八歳の時に京に上り伊東東里から学びますが、後に江戸に出て佐藤一斎の門に入り、陽明学を信奉します。三原藩に仕えて儒臣となり、広島浅野邸内の朝陽館で教授します。その書に、『大学?議』一巻・『王学提要』二巻・『格致?議』一巻・『読我書楼文草』四巻・『読我書楼詩草』三巻等が有ります。
山田方谷(1805~1877)
名を球と言い、備中の人です。彼は、五歳で新見藩の藩儒丸川松隠の塾に入り朱子学と詩文を学び、二十一歳で京に上り寺島白鹿に学び、次いで三十歳の時に佐藤一斎の門に入ります。帰郷後は藩校有終館の学頭となり兼ねて藩政に参与し、明治に入ると、岡山の閑谷学校の復興に携わります。彼の門下から、三島中洲が現れます。その書に、『古本大学講義』『中庸講義』『方谷詩文集』『方谷詩遺稿』等が有ります。
池田草庵(1813~1878)
名を緝と言い、但馬の人です。彼は、初め京の相馬九方から朱子学を学びますが、その後陽明学者の山田方谷・春日潜庵らと交わり、陽明学に心を惹かれますが、何れにも組みせず中正を持し、躬行実践を旨とした学問を行います。郷里で私塾青渓書院を建てて子弟に教授し、後に豊岡藩の藩校で教授します。その書に、『大学略解』一巻・『中庸略解』一巻・『草庵文集』三巻・『草庵詩集』一巻等が有ります。
中斎門下の人々
林良斎(1808~1849)
名を時壮と言い、讃岐の人です。彼は、十五歳で丸亀藩の藩校正明館で儒学と詩文を学びます。十九歳で大阪の中井竹山に学び、二十四歳で江戸の昌平黌に入り尾藤二洲に学びます。その後二十八歳の時、大阪の大塩中斎の洗心洞塾に入り陽明学を学びます。帰郷すると父の後を嗣いで藩の家老職に就きますが、健康上の問題で致仕し、、私塾浜書院を開いて子弟の教育に従事しています。その書に、『良斎文鈔』一巻・『自明軒遺稿』一巻等が有ります。
門派以外の人々
横井小楠(1809~1869)
名を時存と言い、肥後の人です。彼は、藩校時習館に学び、二十九歳で時習館寮長になり、三十一歳の時に藩命で江戸に遊学し、水戸の藤田東湖らと交わります。帰郷後私塾を開いて経世の実学を提唱し子弟に教授します。後に諸国を遊歴し、梁川星巌・春日潜庵らと交わり、国事を論じあいます。その書に、『小楠遺稿』一巻等が有ります。
春日潜庵(1811~1878)
名を仲襄と言い、京都の人です。彼は、初め鈴木遺音らに師事して朱子学を修めますが、二十六歳頃から陽明学を奉ずるようになります。京都久我家の侍士となって家政を掌り、幕末には西郷隆盛らと交わります。その書に、『古本大学批点』一巻・『傳習録評点』四巻・『読易抄』八巻・『読史論略評点』一巻・『潜庵遺稿』三巻等が有ります。
吉田松陰(1830~1859)
名を矩方と言い、長州の人です。彼は、叔父の玉木文之進の私塾松下村塾で儒学と兵学を教わります。二十四歳で諸国遊学に出、大阪で阪本鼎斎・大和で森田節斎・和泉で相馬九方・伊勢で斉藤拙堂らと交わり、江戸に入って佐久間象山に従学します。一時獄に繋がれますが、二十八歳の時に許され松下村塾で子弟に教授します。しかし、僅か一年後に安政の大獄で捕らえられ、処刑されます。その門下から、高杉晋作・久坂玄瑞・木戸孝允らの幕末の志士が現れます。その書に、『講孟余話』七巻・『孫子評註』一巻・『野山獄文稿』一巻・『松陰詩稿』一巻等が有ります。
江戸後期敬義(崎門)学派の人々
江戸後期の崎門学派は、前期の「崎門の三傑」と称され儒者としても名を馳せた絅齋・直方・尚齋の如き著名な人はいませんが、実際には山崎闇斎の朱子学的部分を受け継ぐ人々と、またその神道学的部分を受け継ぐ人々とがおり、何れにしてもその学統を受け継ぐ人々は膨大な数にのぼり、幕末には王政復古運動に力を致す人や、崎門学を奉じて地方で活躍する人などがいます。
新井白蛾(1715~1792)
名をは直祐登と言い、江戸の人です。彼は、初め浅見絅斎の門下である父から家学を受け、その後三宅尚斎の門人菅野兼山に師事しますが、朱子学を遵奉するも固執せず、最も易学に精通した儒者です。その書に、『古周易経断』十卷・『古易精義』一卷・『古易対問』一卷・『古易一家言』二卷等が有ります。
落合東堤(1749~1841)
名をは直養と言い、羽後の人です。彼は、若林強齋の孫弟子に当る中山菁莪から儒学を学び、闇斎学の学統を受け継ぎ、家塾守拙亭で講説に従事した儒者で、「角間川聖人」と称されています。
古屋蜂城(1763~1852)
名を希真と言い、甲斐の人です。彼の本姓は伴氏で、山崎闇斎の弟子である三宅尚斎の孫弟子、つまり加賀美櫻塢の教えを受けた崎門学派の儒者ですが、儒学よりも垂加流神道の系統を強く受け継ぎ、国学にも造詣が深く甲斐の名士として活躍しています。
小牧天山(1776~1853)
名を?方と言い、土佐の人です。彼は、土佐の国老五藤氏に仕えた儒臣で、崎門学派の儒者である箕浦文斎に学んでいます。その学統は山崎闇斎から浅見絅斎へ、絅斎から若林強斎へ、強斎から戸部愿山へ、愿山から箕浦文斎へ、文斎から小牧天山へと繋がって行きます。
楠本端山(1828~1883)
名を後覚と言い、肥前の人です。彼は、十四歳で平戸藩の維新館に入って学び、次いで江戸に出て佐藤一斎の門に入り、吉村秋陽らから学を受けます。帰郷後は維新館の教授になり侍講も兼ねています。その学は、初め古学・陽明学を学んでいますが、次第に崎門派の心学に惹かれ朱子学を確信するようになっています。晩年は、私塾鳳鳴書院を開き郷里の子弟に教授しています。その書に、『松島紀行』『端山詩文集』端山文稿』『学習録』等が有ります。
楠本碩水(1832~1916)
名を孚嘉と言い、肥前の人です。彼は、楠本端山の弟で、平戸藩の維新館に入って学び、次いで江戸に出て佐藤一斎の門に入り、月田蒙斎・吉村秋陽らから学を受けます。帰郷後は維新館の教授になります。その学は、初め古学・陽明学を学んでいますが、次第に崎門派の心学に惹かれ朱子学を確信するようになっています。晩年は、兄端山と共に私塾鳳鳴書院を開き郷里の子弟に教授しています。その書に、『日本道学淵源録』『朱王合編』碩水遺書』『碩水文草』等が有ります。
江戸後期水戸学派の人々
江戸後期の水戸学は、幕末の動き(尊皇攘夷運動)に大きな影響を与えます。藩主斉昭は、光圀以来の意志を継いで、敬神崇儒の道に依って国体を明らかにしようとします。この様な斉昭の思考を押し進めさせたのが、当時の水戸学派の人々です。それは、藤田幽谷とその子である藤田東湖、及び幽谷の門人である会沢正志斎です。幕末の水戸学派は、藤田幽谷から始まったと言っても過言ではなく、東湖の『弘道館記述義』にしろ、正志斎の『下学邇言』にしろ、国体を論じて大義名分を明らかにするものです。
立原翠軒(1744~1823)
名を万と言い、水戸の人です。彼は、初め業を谷田部東?に師事し、次いで大内熊耳に学びます。その後は水戸藩に仕え漢唐の学を講じて侍読となります。更に藩の彰考館総裁となり『大日本史』の完成に尽力し、藩政にも参与して時勢を論じますが、弟子の藤田幽谷と対立するようになります。その書に、『六礼略説』一巻・『史記系図』二巻・『西山遺文』二巻・『翠軒雑録』・『東里文集』等が有ります。
藤田幽谷(1774~1826)
名を一正と言い、水戸の人です。彼は、初め青木侃斎に師事して四書五経を読了し、十一歳で詩を作り、十三歳で文を作ったと言う英才です。十六歳で江戸に出て、柴野栗山・大田錦城らと交わり名を高め、その後、藩の彰考館総裁となります。後期水戸学は、幽谷から始まったと言ってよく、その門下に会沢正志斎・国友善庵・飛田逸民・杉山復堂らが現れます。その書に、『修史始末』二巻・『勧農或問』二巻・『幽谷先生遺稿』・『幽谷詩纂』等が有ります。
会沢正志斎(1782~1863)
名を安と言い、水戸の人です。彼は、学を幽谷に学び、十八歳で彰考館写字生となり、江戸に移って諸公子の伴読となりますが、水戸に帰って四十二歳で彰考館総裁代役となります。藩主斉昭の信を得て学制改革を行い、弘道館設立に伴い弘道館総裁となります。その書に、『下学邇言』七巻・『孝経考』一巻・『中庸釈義』一巻・『新論』二巻・『正志斎詩稿』八巻・『正志斎文稿』四巻等が有ります。
藤田東湖(1806~1855)
名を彪と言い、水戸の人です。彼は、幽谷の第二子です。江戸で亀田鵬斎・大田錦城らに学び、幽谷没後に彰考館編修となっています。藩主斉昭に信任され、藩政の改革と水戸学の振興とに、尽力しています。その書に、『弘道館記述義』二巻・『回天詩史』二巻・『東湖遺稿』三巻・『東湖詩鈔』二巻・『東湖随筆』一巻等が有ります。
原伍軒(1830~1867)
名を忠成と言い、水戸の人です。彼は、会沢正志斎と藤田東湖に業を受けた後、江戸の昌平黌で古賀謹堂に学び、更に塩谷宕陰・藤森弘庵らに従学した人です。帰郷後に藩校弘道館訓導となり、同時に家塾を開いて子弟の教育に従事しています。その書に、『尚不愧斎存稿』四巻・『尚不愧斎遺稿』二巻等が有ります。
綿引東海(1837~1915)
名を泰と言い、水戸の人です。彼は、原伍軒の門に学び、東湖門の鬼才と称された人で、藩校弘道館訓導となりますが、国事に奔走して維新後は宮内省に出仕し、著述業者として名を成しています。その書に、『烈士詩伝』・『疑獄録』等が有ります。
江戸時代の総集
江戸時代は、漢詩文の制作が非常にに盛んな時代で、別集は言うまでも無く、総集も多く作られており、例えば『天保三十六家絶句』『安政三十二家絶句』『文久二十六家絶句』等々ですが、その中で総集の代表的なものと言えば、江村北海の『日本詩選』と市河寛斎の『日本詩記』及び友野霞舟の『煕朝詩薈』と藤元?の『日本名家詩選』等です。
『日本詩選』十八巻
本書は、江村北海の編修で、元和年間から安永年間に至るほぼ百六十年間の漢詩を集めたもので、五百二十名の詩人の作品が採取され、正編十巻・続編八巻で構成されています。
『日本詩記』五十三巻
本書は、市河寛斎の編修で、近江朝から平安朝までの漢詩を年代順に排列したもので、王朝時代の漢詩は殆ど網羅されています。本集五十巻・外集一巻・別集一巻・首集一巻と言う構成で、元来写本で伝わっていましたが、明治四十四年に一冊の書として出版されています。
『煕朝詩薈』百十巻
本書は、友野霞舟の編修で、林復斎大学頭の命に因り、江戸初期から天保年間に至る千四百八十四家の詩一万四千百四十五首を集めたものです。作者の小伝と評論及び編者の評語も加えられています。この書は写本で伝わり内閣文庫に納められていましたが、汲古書院の『詞華集日本漢詩』で、影印本が出されています。
『日本名家詩選』十巻
本書は、藤元?の編修で、江戸時代の名家の漢詩を集めたものです。七十八人の詩人の五百四十五首が採取され、大概『唐詩選』の体に倣って排列されています。
江戸時代の韻書
江戸時代は、漢字の音韻について研究が進んだ時代でもありますが、その音韻関係の書として代表的なものが、文雄上人の『磨光韻鏡』と太田全斎の『漢呉音図』、及び本居宣長の『漢字三音考』や三浦道斎の『韻学階梯』等です。
『磨光韻鏡』二巻
本書は、文雄上人の作で、韻鏡を著者の新見解で解説したもので、上巻は図説、下巻は韻鏡の使用方法が説明されています。当時韻鏡は、反切のために用いられていましたが、文雄は、韻鏡は音譜であり反切のために作られたものではない、としています。
『漢呉音図』一巻
本書は、太田全斎の作で、漢呉音図・漢呉音徴・漢呉音図説の三部構成になっています。日本が古来用いている漢呉音を韻鏡と比較し、韻図に因って漢呉両音を検することが出来るようにした書です。
『漢字三音考』一巻
本書は、本居宣長の作で、漢字の漢音・呉音・唐音について論弁し、字音の仮名遣いを定めるに当たり、万葉仮名として用いた漢字と韻鏡とを対比させ、結局日本の国音が、尤も正確に中国古代の正音を残している、と主張している書です。
『韻学階梯』二巻
本書は、三浦道斎の作で、本居宣長の説や太田全斎の説を取り入れながら、文雄上人の韻鏡説にも批正を加え、全体を五十五項目に分類して音韻学の概説を試みた書です。
江戸時代の史書
江戸時代は、平安朝時代に次いで本格的な史書が漢文で書かれた時代です。日本の国史の正史は六国史ですが、その最後は『三代実録』で光孝天皇で終わっており、宇多天皇以降が有りませんでしたが、江戸時代に入り、その後を続けるべく史書の編纂が大規模に行われます。その代表的なものが、水戸光圀の『大日本史』や林羅山の『本朝通鑑』、及び頼山陽の『日本外史』や飯田忠彦の『大日本野史』等です。
『大日本史』三百九十七巻
本書は、水戸光圀の修史の志から始まったもので、中国の正史と同様に紀伝体で書かれています。その内容は、本紀七十三巻・列伝百七十巻・志百二十六巻・表二十八巻、合計三百九十七巻に及ぶ神武天皇から後小松天皇に至る一大史書です。光圀の時からほぼ百五十年を経た明治三十九年に完成し、その年に子孫の徳川圀順が朝廷に献上しています。
『本朝通鑑』二百七十三巻
本書は、徳川家光が林家に命じ、朱子の『資治通鑑目録』に倣って編修させた、編年体の史書です。その内容は、神代から後陽成天皇に至ります。初め、林羅山が編修し、次いで林鵞峰・鳳岡らが編修して完成させた史書です。
『日本外史』二十二巻
本書は、頼山陽が源氏の興起から徳川十代将軍家治に至るまでの、武家七百年間の興亡盛衰を記述した史書で、源氏四巻・新田氏二巻・足利氏六巻・徳川氏十巻の、合計二十二巻の構成です。
『大日本野史』二百九十一巻
本書は、徳山藩の藩士飯田忠彦が光圀の精神を継ぎ、独力で三十八年の歳月をかけて完成させた史書で、後小松天皇から仁孝天皇に至るほぼ四百五十年間の歴史を、本紀と列伝との構成で記述してあります。
江戸時代の書肆
江戸時代は、何故この様に多くの儒者や文人が活躍出来たのでしょうか。最大の理由は、幕府の学問奨励と言う文教政策に他なりませんが、言うなればそれはソフトの面です。どんなに優秀であっても、実際に就ける儒官や藩儒の数には限りが有りますし、如何に詩文が上手くても、それで公的な役に就けるとは限りません。
畢竟彼等は、家塾とか私塾を開いて講説を生業とすることになりますが、これとて無名であれば塾生は集まりません。要するに、彼等の名を世に喧伝した媒体は、周囲の評判と言う口評と、彼等の著した書籍です。この書籍の出版と言う行為こそが、彼等の活躍を裏で支えたハードな面であったと言えます。
江戸時代は、木版技術の進歩と言うハード面と、学問奨励と言うソフト面が相俟って、多量の出版物が刊行された時代です。それを支えたのが書肆(本屋)であり、それは漢籍の部に在っても同様です。江戸時代の書肆は、幕末に至ると全国で五千以上に上りますが、江戸が千六百強、京が千七百強、大阪が千二百強、地方が五百強と言う具合です。
これら書肆の中で、特に漢籍を多く出した書肆として有名なのは、江戸では、大書肆須原屋茂兵衞から別れた須原屋新兵衞や東叡山御用達の和泉屋金衞右門、京では、江戸にも出店を出した大店の出雲寺文治郎や風月荘左衛門、大阪では、伊丹屋善兵衞・河内屋茂兵衞、名古屋では永樂屋東四郎、紀州では帯屋伊兵衞らです。
江戸
須原屋新兵衞
場所は日本橋で、堂号は嵩山房で、『孝經集伝』『増注孔子家語』『四書集註』『四書大全』『詩聖堂詩集』『古文真宝』等の書を出しています。荻生徂徠・太宰春台・服部南郭らの書が多いです。
和泉屋金衞右門
場所は両国で、堂号は玉巌堂で、『荀子箋釈』『小学句読集疏』『増評唐宋八家文読本』『愛日楼文詩』『錦城文録』等の書を出しています。東叡山御用達で、唐本・仏書等が多いです。
京
出雲寺文治郎
場所は二条通で、堂号は松柏堂で、『官版五経』『呉志』『後漢書』『近思録』『箋注蒙求』等の書を出しています。知恩院・比叡山御用達で、江戸の出店は、横山町で出雲寺万治郎です。
風月荘左衛門
場所は二条通で、堂号は風月堂で、『尚書註疏』『四書集註』『伊洛淵源録新増』『小説奇言』『小説精言』等の書を出しています。
大阪
伊丹屋善兵衞
場所は高麗橋で、堂号は文榮堂で、『楚辞』『杜工部集』『唐韓昌黎集』『唐柳河東集』『読書録』等の書を出しています。
河内屋茂兵衞
場所は心斎橋で、堂号は群鳳堂・群玉堂で、『王陽明文粋』『詩経示蒙句解』『茶山集』『山陽遺稿』『王心斎先生全集』等の書を出しています。
名古屋
永樂屋東四郎
場所は本町で、堂号は東璧堂で、『国語定本』『楚辞燈』『文選』『新序』『説苑』等の書を出しています。
紀州
帯屋伊兵衞
場所は新通で、堂号は青霞堂で、『貞観政要』『群書治要』等の書を出しています。
《閑話休題・5》
江戸時代の後半は、所謂文人と称される人々が多く登場します。その彼等の嗜好が文人趣味と言われる一種の中華趣味です。彼等は、詩文を操ることは当然として、それ以外に諸々の諸芸も自由にこなします。当時の典型的な文人は、人の師たる芸は十六以上と言われている柳沢淇園です。
また、諸芸とは、書・画・篆刻・琴・煎茶・投壺・盆栽・小動物の飼育等々です。これらの中で、特に幅広く隆盛を極めた書では、三都(江戸・京・大阪)を中心に活躍したのが、唐様の森佚山・河原井台山・平林東嶽・三井親和・細井九皐・趙陶齋・細井竹岡・韓天寿・雨森白山・沢田東江・関其寧・松本龍沢・山梨稲川・上田止々斎・芝田汶嶺・中井董堂・関克明・関思孝・亀田鵬斎・白井赤水・白井木斎・松山天姥・脇田赤峰・野呂陶斎・永田観鵞・釈道本・松元研斎・多賀谷向陵・高島雲溟・亀田綾瀬・井田磐山・佐野東洲・男谷燕齋・石川梧堂・中根半仙・小島成斎・桂帰一堂・松本董齋・藤原不退堂・戸川蓮仙・筒井鑾溪・中川憲齋・三井南陽・市河恭齋・荒庭平仲・呉策(肥前屋又兵衛)・飯田義山・柳田正齋・榊原月堂・山内香雪・川上花顛・三瓶信庵・生方鼎斎・大竹蒋塘・中沢雪城・萩原秋嚴・朝川同斎・香川琴橋・秋山正光・土肥丈谷ら、幕末の三筆と称される貫名海屋・市河米庵・卷菱湖ら、女流漢字書家としては、河村如蘭・高島竹雨・吉田袖蘭・小笠原湘英・長橋東原らで、和様(御家流や大師流)では、加藤千蔭・細合半齋・岡本方円齋・岡本修正齋・岡本近江守・花山院愛徳・花山院家厚・佐々木玩易斎・中邨穆堂・江田伴松・梅沢敬典らが名を残し、画では、池大雅・与謝蕪村・谷文晁・山本梅所ら、篆刻では、望月啓斎・高芙蓉(大島逸記)・細川林谷・小俣蠖庵・呉北渚・濱村藏六(初代・二代・三代)・田辺玄々・十河節堂・立原杏所・羽倉可亭・頼立斎・益田遇所らが有名です。
一方地方で活躍した人々には、秋田の書大家戸村杉陵・根本果堂、能筆家石田無得、盛岡の書家久慈東皐、庄内の名手重田鳥岳、会津の祐筆糟谷磐梯・星研堂・能書家平尾松亭、仙台の能書家菅野志宣斎・千葉三余、利根の三筆の一人萩原墨齋、上野の書僧角田無幻、下野の大家小山霞外、武蔵の磯田健斎・千島岫雲、信州の大家馬島禅長・大森曲川、甲斐の能書家志村天目・古屋蜂城、越前の能書家関明霞、尾張の祐筆丹羽盤桓・名手柳沢新道、飛騨の書家岩佐一亭、桑名の能書家尾嶋樸齋、丹後の書師範梶川景典・祐筆沢村墨庵、備前の能書家武元登登庵、安芸の能書家沢三石、長州の才人矢野竹舌、長門の書師範草場大麓、伊予の名手大野約庵・能書家万沢癡堂・女流書家石原玉鴛、阿波の能書家井川鳴門・才人吉田南陽・赤松藍洲、筑前の大家二川松陰・二川相遠・中牟田浙江、長崎の名手野村雲洞・笹山花溪、肥後の能書家草野潜溪・書師大槻蜻浦、薩摩の能書家鮫島白鶴らが居ります。
更に、江戸後期に於ける諸芸の隆盛を受けて、幕末から維新(明治20年頃)にかけての近代化の中で、書・画・篆刻ともに新たな発展を示しますが、当時能書家として特に名を馳せていた人々に、高橋不可得・大亦墨隠・大島堯田・石井潭香・安藤龍淵・宮原節菴・亀田鶯谷・高斎単山・服部隨庵・平尾松亭・永井盤谷・松本董仙・宮小路浩潮・齋藤百外・渡邊水翁・原田柳外・市河遂庵・中根半嶺・太田竹城・小山内暉山・青山暘城・三好竹陰・岡崎越溪・伊藤桂洲・久永其潁・武知五友・伊佐如是・久世龍皐・樋口逸斎・長梅外・村田柳厓・宗像雲閣・桑野霞松・伊東遜斎・平井東堂・小野湖山・莊田膽斎・高橋石斎・三輪田米山・大沼枕山・寺西易堂・林雪蓬・遠山廬山・佐瀬得所・中村淡水・関雪江・成瀬大域・中林梧竹・恒川宕谷・坪井山舟・大沼蓮斎・副島蒼海・小林卓斎・吉田晩稼・菊池晁塘・神波即山・長三洲・三枝五江・金井金洞・片桐霞峯・秋月楽山・巌谷一六・市河得庵・卷菱沢・卷菱潭・岡三橋・小山梧岡・小山遜堂・新岡旭宇・小林穣洲・岩城玉山・杉聴雨・卷菱洲・卷鴎洲・松田雪柯・浅野蒋潭・堀尾天山・内田栗陰・越智仙心・高林二峰・村田海石・大城谷桂樵・副島蒼海・清水蓮成や、女流仮名書の稲葉鯤、幕末三舟の勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟らがおり、亦、画では、平野五岳・張晋斎・鈴木百年・藤田呉江・王欽古・千原夕田・長井桂山ら、篆刻では細川林斎・中村水竹・山本竹雲・小林愛竹・濱村藏六(四代)・成瀬石癡・小曽根乾堂・山本拜石・中井敬所らがいます。
~授業用備忘録~
江 戸 後 期 (儒林時代・ 主たる担い手は儒者)
江戸後半期の漢学(1736~1867)
反ケン園派の漢詩人達
徂徠派の人々
寛政の三博士
寛政の三奇人
漢文戯作の世界
江戸の漢詩人達
関西の漢詩人達
地方の漢詩人達
幕末の女流詩人達
幕末勤王の志士達
江戸後期朱子学派の人々
江戸後期陽明学派の人々
江戸後期敬義(崎門)学派の人々
江戸後期水戸学派の人々
江戸時代の総集
江戸時代の韻書
江戸時代の史書
江戸時代の書肆
《閑話休題・5》
江戸後半期の漢学(1736~1867)
反ケン園派の漢詩人達
九代将軍家重(1746~1760)・十代将軍家治(1761~1786)時代に入ると、一世を風靡したケン園派の詩文に対し、異を唱える漢詩人達が関西に登場して来ます。それが江村北海・龍草廬・片山北海・釈六如らです。またこの時期は、幽蘭社・混沌社・長嘯社・賜杖堂等々、各地で詩人の集まりである詩社が作られ出す時代でもあります。
江村北海(1713~1788)
名を綬と言い、京都の人です。彼は、伊藤竜洲の第二子で、兄の伊藤錦里と弟の清田?叟と共に、伊藤の三珠樹と呼ばれた人です。二十二歳の時、江村毅庵に請われてその後を嗣ぎ、詩文を生業として、毎月十三日に門弟や名士を賜杖堂に集めて詩を作っています。その書に、『日本詩選』十八巻・『日本詩史』五巻・『北海文鈔』三巻・『北海詩鈔』十二巻等が有ります。
龍草廬(1714~1792)
名を公美と言い、伏見の人です。学は宇野明霞に学んでいますが、明霞と不和になると常師無しと称し、詩が巧みであったため自ら門を開いて教授しています。彼の詩社を「幽蘭社」と言います。彦根藩に文学として仕えていますが、致仕後は著述に専念し、書も一家を成しています。その書に、『草廬文集』三十四巻・『草廬詩集』一巻等が有ります。
片山北海(1723~1790)
名を猷と言い、越後の人です。彼の家は代々農業を営んでいますが、彼の能力を非凡として回りが学問を勧めたため、京に上って宇野明霞に学んでいます。明霞没後は大阪に居を構え、門を開いて教授しています。彼が結成した詩社が「混沌社」ですが、これは作詩を媒介とした一種のサロンで、身分に関係無く多くの人が参集しています。例えば、儒者の鳥山崧岳・両替商の篠崎三島・鋳物師の田中鳴門・造り酒屋の木村蒹霞堂・薬屋の小山伯鳳・医者の葛子琴らです。その書に、『北海詩集』七巻・『北海文集』十二巻が有りますが、未刊です。
釈六如(1737~1801)
名を慈周と言い、近江の人です。彼は、十一歳で釈慈門に就いて仏学を修め、野村東皐に就いて詩文を学んでいます。東叡山公遵法親王に召されて明静院に住し、晩年は嵯峨の長床坊に隠棲しています。彼は、宋詩を好み特に陸游を宗として、宋詩唱導の先駆者となります。その書に、『六如庵詩鈔』六巻・『葛原詩話』八巻等が有ります。
徂徠派の人々
荻生徂徠の没後、その一派に対する風当たりが強くなる中で、それでも徂徠派を以て任じる人々がいます。湯浅常山・亀井南冥・戸崎淡園・伊東藍田・市川鶴鳴らが、その代表です。
湯浅常山(1708~1781)
名を元禎と言い、備前の人です。彼は、江戸に赴き服部南郭に師事して古文辞学を学び、二十四歳で家督を継ぎ、寺社奉行や町奉行を歴任した後、蟄居を命ぜられています。その書に、『大学或問』一巻・『常山文集』二十巻・『常山楼集』五巻等が有ります。
戸崎淡園(1729~1806)
名を允明と言い、常陸の人です。彼は、常陸守山藩の藩儒で、平野金華の門人です。終生徂徠の学を奉じて変わらず、詩文を作るを楽しみとして生きた人です。その書に、『老子正訓』二巻・『戦国策』五巻・『唐詩選箋註』八巻・『淡園詩文集』数巻等が有ります。
伊東藍田(1735~1809)
名を亀年と言います。彼は、徂徠の養子金谷に師事しますが、後に徂徠の門弟大内熊耳に従学し、学が成ると講説に従事します。その後豊後の日出藩に仕えて儒学を講じています。その書に、『楊子方言補註』二巻・『大戴礼記補註』十巻・『重訂唐詩選』七巻・『藍田文集』十巻等が有ります。
篠崎三島(1737~1813)
名を応道と言い、伊予の人です。彼は、大阪で財をなした父を継いで商家の業を修めますが、同時に菅谷甘谷に従って徂徠の学を修め、四十歳の時に儒を生業として子弟の教育に専念します。尾藤二洲や頼春水らと交友し、片山北海の「混沌社」の一員としても活躍しています。その書に、『語孟述意』五巻・『草彙』八巻・『郁洲摘草』四巻・『碧紗籠集』十二巻等が有ります。
市川鶴鳴(1738~17944)
名を匡と言い、上州の人です。彼は、徂徠の門弟大内熊耳に師事して経史に精通し、諸藩の招きを受けて諸国に講説し、その後高崎藩に仕えて教授に従事しています。その書に、『論語輯義』十巻・『尚書輯義』十六巻・『帝範国字解』二巻・『臣軌国字解』一巻・『鶴鳴舎文集』十二巻等が有ります。
亀井南冥(1743~1814)
名を魯と言い、筑前の人です。彼は、初め釈大潮に学び、次いで長州で山県周南に学んでいます。後に福岡藩の儒臣となりますが、人の讒言に因り失職し、悲憤のあまり焼身自殺をしています。鎮西一の大文豪と称された人で、その書に、『論語語由』二十巻・『左伝講義』二巻・『司馬法解』一巻・『素書解』一巻・『南冥詩集』十巻・『南冥文集』二十二巻等が有ります。
寛政の三博士
元禄時代以後になると、品行宜しからざる儒者が現れだし、儒者自身が文人化傾向を示すようになります。その様な中で十一代将軍家斉が登場して、白川藩主松平定信が老中となり幕政を指揮します。定信は、社会風俗の矯正と倫理概念の確立を志し、その拠り所を家康以来の朱子学に求め、昌平黌の建て直しを図ります。彼は、寛政二年(1790)に林大学頭信敬に諭達を下し、朱子学以外を禁止する所謂「寛政異学の禁」が行われます。
この禁止令の目的は、風俗の矯正・精神の高揚・思想の統制などであり、本来全国に向けたものではなく、昌平黌に向けて諭達されたものです。しかし、この禁止令の影響は大きく、諸藩の藩校でこれに倣うもの多く、人々の批判を呼び起こします。
当時林家の権威は地に落ち、むしろ在野に碩学大儒が多くいたため、定信はその中から、幕府の儒官として三人を抜擢しますが、それが寛政の三博士と言われた柴野栗山・尾藤二洲・古賀精里らです。同時に、後嗣の無かった林錦峰の跡に、岩村藩主の子松平信衡(定信の孫)を入れて跡継ぎとし、林家の信頼確立に努めます。この信衡が林述斎で、寛政九年(1797)に古賀精里らと学制を改革し、昌平黌も昌平坂学問所と改称します。
柴野栗山(1734~1807)
名を邦彦と言い、讃岐の人です。彼は、初め崎門派の後藤芝山に学びますが、十八歳で江戸に出て林復軒に学びます。阿波藩の儒官となり、後に京で朱子学を講じ、赤松滄洲・皆川淇園らと親交を結びます。後に抜擢されて昌平黌の教官となります。その書に、『栗山堂文集』二十二巻・『栗山堂詩集』六巻等が有ります。
尾藤二洲(1745~1813)
名を孝肇と言い、伊予の人です。彼は、大阪の片山北海の門に遊び、中井兄弟や頼春水らと親交を結びます。後に抜擢されて昌平黌の教官となります。その書に、『論孟衍旨』二巻・『学庸衍旨』一巻・『静寄軒文集』十二巻・『静寄軒詩集』二十巻等が有ります。
古賀精里(1750~1817)
名を撲と言い、佐賀の人です。彼は、藩に仕え藩命で京の西依成斎の門に学び、大阪で中井竹山や尾藤二洲と交わり、帰藩して藩内の教育に尽力しています。その後抜擢されて昌平黌の教官となります。その書に、『大学章句纂釈』二巻・『中庸章句纂釈』二巻・『近思録集説』八巻・『精里全書』二十巻・『精里文鈔』十巻等が有ります。
寛政の三奇人
寛政時代になると、単なる机上の学問や詩文ではなく、経世の志を抱いて天下を周遊し、貴権に屈する事無く、当世の要務を論じ出す人々が現れます。また彼等は、思想的に尊皇的考えを強く打ち出し、幕末の勤皇思想の魁的様相をも示します。その代表的人々が「寛政の三奇人」と称される人達や、その同調者である唐崎赤斎等です。
林子平(1738~1793)
名を友直と言い、江戸の人です。彼は、幕臣で書物奉行であった岡村良通の次男ですが、父が士籍を削られた後は叔父の林從吾に養育され、その後兄と友に仙台に移り、荻生徂徠の学を学んでいますが、特に徂徠の兵学に着目し、蝦夷や長崎に遊学して外国の知識も学び、鎖国の安眠に警告を鳴らして海防政策を唱え、蟄居を申し渡された警世家です。
高山彦九郎(1747~1793)
名を正之と言い、上野の人です。彼は、十八歳で京に上って山崎闇斎学派の儒学を学び、学者や文人との交流を深めて、反幕的尊皇思想を高唱し、各地を遊歴して筑後の久留米で自刃した、社会活動家にして思想家で、幕末の尊皇運動に影響を与えた先駆的存在です。
蒲生君平(1768~1813)
名を秀實と言い、下野の人です。彼は初め郷里の儒者鈴木石橋に学び、江戸に出て山本北山の門に入って漢学を、本居宣長に国学を学び、天下を周遊して貴権に屈せず、当世の要務を論じた尊皇主義の儒者です。
漢文戯作の世界
八代将軍吉宗の時代に入ると、漢文で書かれた戯作や狂詩・繁昌記ものと称される作品が登場するようになります。これは、江戸の町人文化の発達や文人儒者の登場と、当時の漢詩文趣味とが合致して発生したものである、と言われていますが、何れにしても、漢文で洒落のめした遊びの世界に於ける漢詩文です。
その内容は、主に遊里の世界の遣り取りを記述した『両巴巵言』『史林残花』等に代表される戯作もの、風刺を込めて人情・風俗を描いた『江戸繁昌記』『都繁昌記』等の繁昌記もの、そして寝惚先生太田南畝や銅脈先生畠中観斎らが作った狂詩等が有ります。
戯作作品
戯作は戯作であるが故に、作者も書肆も仮名のものが多く、実際の所、誰の作品なのか殆ど分かりません。以下に、代表的な作品を挙げます。
『両巴巵言』
享保十三年(1728)、江戸遊戯堂刊、金天魔撃鉦著、大人先生の吉原遊びを記述し、最後の落ちは「帰去来兮」で、最後に吉原の細見が付いています。
『史林残花』
享保十五年(1730)、江戸遊戯堂刊、遊女の正史を著さんと試みたと言い、最後に吉原の細見が付いています。
『南花余芳』
享保十五年(1730)、江戸遊戯堂芝居役者の評判記で、最後に京・大坂・名古屋・江戸の役者の細見が付いています。「南」は「男」にかけてあります。
『嶹陽英華』
寛保二年(1742)、玉臂館刊、南郭先生著、嶋之内の遊女遊びを述べたもので、最後に嶋之内の細見が付いています。「南郭先生」とは服部南郭を当てこすったもので、『嶹陽英華』とは『文苑英華』の洒落です。
『瓢金窟』
延享四年(1747)、和泉屋・播磨屋合刊、近江屋源左衛門著、大阪の新町のことを述べたもので、最後に新町の細見が付いています。『瓢金窟』とは『遊仙窟』の洒落です。
『唐詩笑』
玩世教主著、玩世教主とは井上蘭台のことですが、『唐詩選』を自家薬籠中のものとして自由に使いこなし、猥雑な文中に内容の合った詩句をはめ込んでいます。
この他にも、『異素六帖』『本草妓要』『本朝色鑑』『瓢軽雑病論』等々、書名からして何を洒落たのか、すぐに分かるような作品が多くあります。
繁昌記作品
繁昌記ものは、対象とする場所の風俗や人情を描いたものですが、そこには作者の世相に対する風刺が含まれています。
『江戸繁昌記』
天保三年(1832)刊、寺門静軒著、崩壊に向かっている当時の江戸の都市風俗を、吉原・芝居・相撲・書肆・湯堂等から千住・深川等の様子まで、覚めた目で淡々と述べられています。
この他には、天保八年(1837)に中島棕隠が出した『都繁昌記』や、安政六年(1859)の成島柳北の『柳橋新誌』等が有ります。
狂詩作家
狂詩や狂文の作品としては、文に岡田白駒の『奇談一笑』や『開口新語』、山本北山の『笑堂福集』、平賀源内の『風来山人春遊記』等が有り、詩は、服部南郭や祇園南海らが作っていますが、狂詩作家としての代表者は、東の寝惚先生太田南畝と西の銅脈先生畠中観斎です。
太田南畝(1749~1823)
名を覃と言い、江戸の人です。彼は、早くから漢詩文に親しみ、松崎観海に学び夙に詩名が有りますが、十九歳の時に狂詩集の『寝惚先生文集』を刊行し、一躍狂名を唱われます。これ以外にも狂詩集『通詩選』『通詩選笑知』や、滑稽本の『売飴土平伝』等を出しますが、寛政異学の禁以後は、狂詩・狂文を作らなくなります。普通の漢詩集としては、『杏園詩集』が有ります。
畠中観斎(1752~1801)
名を正春と言い、京都の人です。彼は、京都聖護院の寺侍ですが、十八歳の時に狂詩集『太平楽府』を出し、狂詩作家として一躍江戸の太田南畝と並称されるようになります。その後、二十歳で『勢多唐巴詩』、二十七歳で『太平遺響』、三十七歳で『二大家風雅』等の狂詩集を出しますが、彼も寛政異学の禁以後は、狂詩の実作を行っていません。ただ以前の作品を集めた『太平遺響二編』を、四十七歳の時に出しています。
江戸の漢詩人達
江戸時代も後半期に入ると、徂徠の唐詩崇敬に対して異を唱え、宋詩を提唱する山本北山や釈六如らが現れますが、寛政の改革を経て朱子学が再び英気を取り戻すと、詩壇に在っても宋詩の提唱が益々強く言われるようになります。
この時江戸に在って、詩壇を指導したのが市河寛斎であり、その門下の柏木如亭・大窪詩仏・小島梅外・菊池五山(江湖の四才子)らです。
市河寛斎(1749~1820)
名を世寧と言い、上野の人です。彼は、初め徂徠の門人大内熊耳に従って古文辞を学び、次いで関松窓から朱子学を学び、更に井上蘭台の門人高橋九峯に就いて折衷学を学びます。その後林鳳潭の門人となり昌平黌の員長となりますが、鳳潭没後は職を辞し、詩社の江湖詩社を設立します。その後富山藩の儒臣となり、致仕後は長崎に遊んでいます。その書に、『日本詩紀』五十巻・『全唐詩逸』三巻・『寛斎遺稿』五巻・『寛斎百絶』一巻・『寛斎余稿』八巻・『陸詩意註』七巻・『宋百家詩』七巻等が有ります。
岡本花亭(1768~1850)
名を成と言い、江戸の人です。彼は、折衷学派の南宮大湫に師事して詩を善くし、天保年間に在っては、詩壇の耆宿として名を馳せます。彼は、幕府に仕えて勘定奉行となり近江守に任ぜられています。その書に、『花亭詩集』が有りますが未刊で、彼の詩は『天保三十六家絶句』に収められています。
寛斎門下の人々
柏木如亭(1763~1819)
名を昶と言い、江戸の人です。彼は、幕府小普請方大工の棟梁の裕福な家に生まれ、生業を事とせず遊興に生き、寛斎の門に入って菊池五山らと親交を結びますが、その後は国内を放浪して一生を終えます。彼は、三十三歳で江戸を去って信州へ行き、更に新潟に赴き、次いで京都・四国へと足を延ばし、伊勢・伊賀を回り京で客死しています。この遊歴をしながら漢詩を作って行く様は、和歌の西行・俳諧の芭蕉に連なる遊歴詩人の一人であると言えます。その書に、『海内才子詩』五巻・『如亭集』二巻・『聯珠詩格釈註』三巻・『如亭遺稿』三巻・『如亭百絶』一巻等が有ります。
大窪詩仏(1767~1837)
名を行と言い、常陸の人です。彼は、若い時は山中天水に学びますが、長じて寛斎の門に入り江湖の四才子(柏木如亭・菊池五山・小島梅外)と称されます。二十四歳の時に儒家を志して山本北山の門に入り、寛斎が富山に移った後、如亭と二人で二痩詩社を開き、清新の詩風を唱えます。その後各地を遊歴し、一時秋田藩の儒臣となりますが、すぐに辞して再び遊歴を始めます。その書に、『宋詩礎』二巻・『北遊詩草』二巻・『西遊詩草』二巻・『詩聖堂詩集』三十三巻等が有ります。
小島梅外(1772~1841)
名を?と言い、江戸の人です。彼は、裕福な商家に生まれ、家業を営む傍ら寛斎の門に入って漢詩を学び、江湖の四才子と称されるまでになります。また俳諧を鈴木道彦に学んでいます。生業を持った上で詩文に遊ぶと言う、所謂文人です。その書に、『梅外詩集』等が有ります。
菊池五山(1772~1855)
名を桐孫と言い、讃岐の人です。彼は、幼時に後藤芝山に学び、京に上って柴野栗山に就き、栗山が儒官となると共に江戸に下り、寛斎の門に入っています。寛斎が江戸を去り、如亭も詩仏も遊歴の空の下で、五山一人が江戸漢詩壇を背負うような状況になります。その後五十七歳の時に、祖父の跡目を継いで高松藩の記室となります。その書に、『五山堂詩話』十六巻・『五山堂詩存』七巻・『西湖竹枝』二巻・『水東竹枝』一巻・『清人詠物詩鈔』一巻・『明人絶句』二巻等が有ります。
関西の漢詩人達
関西でも宋詩の提唱は盛んで、また江戸以上に自由な雰囲気が有り、片山北海の混沌社に属して浪花の寵児と唱われた葛城子琴や、釈六如の影響を強く受けて関西の詩壇に重きをなした管茶山や、安芸藩の儒臣である頼春水等が活躍し、次いで頼山陽・篠崎小竹・中島棕隠・坂井虎山・藤井竹外等が詩名を唱われます。その彼等の交遊の詩客に、文人として名高い浦上玉堂や田能村竹田がいます。
葛城子琴(1738~1784)
名を張と言い、大阪の人です。一般的には葛子琴と称しています。彼は、大阪の医家の子で、京に上って医を学び大阪で医を生業としています。学は菅谷甘谷に師事して『春秋左氏伝』に通じ、書画篆刻も巧みで、混沌社に属して詩名高きものが有り、諸芸に通じた才能と謙虚な人柄とから、上方文人の間で寵児となっています。その書は写本でのみ伝わっていますが、『葛子琴詩抄』七巻・『葛氏遺香集』七巻・『葛子琴詠物』一巻・『小園詩話』二巻等が有ります。
頼春水(1746~1816)
名を惟完と言い、安芸の人です。彼は、初め平賀中南に学び、次いで崎門派の塩谷志帥に学び、志帥没後大阪に出て片山北海の門に入ります。この時、尾藤二洲・古賀精里らと朱子学を考究し、広島藩の儒臣となり世子侍読として江戸詰めになります。江戸で親交を結んだ人々は、共に各藩の世子侍読で朱子学者達です。帰郷後は藩学の宿老として、人々の崇敬を集めています。本来彼は朱子学者ですが、子弟の教育に重きを置いた教育者で、詩名を以てその名が知られています。その書に、『師友志』一巻・『春水詩草』三巻・『春水遺稿』十二巻・『春水日記』三十五巻等が有ります。
管茶山(1748~1827)
名を晋帥と言い、備後の人です。彼は、恐らく江戸後半期を代表する漢詩人です。病弱であったため医を志し、京に上って和田東郭に医術を学び、那波魯堂の門に入って朱子学を学んでいます。その後大阪の混沌社に加盟して篠崎三島らと交わりを結び、帰郷して私塾の黄葉夕陽村舎を立て、門弟に教授しています。その詩名高きを以て福山藩の儒員となり、大目付まで進んでいます。その書に、『黄葉夕陽村舎詩集』二十三巻・『茶山文集』四巻・『茶山遺稿』七巻等が有ります。
頼春風(1753~1825)
名を惟疆と言い、安芸の人です。彼は、頼春水の次弟で、兄の春水に就いて学問を学び、更に古林見宜に医学を学んだ人で、郷里の竹原で子弟の教授に従事し、君子の風格が有ったと言われています。その書に、『春風館詩鈔』二巻が有ります。
頼杏坪(1756~1834)
名を惟柔と言い、安芸の人です。彼は、頼春水の季弟で、大阪に出て兄と共に片山北海の門に入ります。更に江戸に出て服部栗斎の門に入り、帰藩後は藩儒となって宋学の復興に尽力します。儒者として詩文のみに名が有った訳では無く、藩の奉行職を歴任して治績も高かった人で、更に兄春水に代わって、春水の長子山陽を養育教導しています。その書に、『諭俗要言』一巻・『杏坪詩集』四巻・『杏坪文集』六巻・『春草堂詩鈔』四巻等が有ります。
梅辻春樵(1776~1857)
名を希聲と言い、近江の人です。彼は、代々の家業である日枝神社の神官職を嗣いで禰宜となりますが、皆川淇園や村瀬栲亭に学び、弟に職を譲り京に出て家塾を開き教授に従事しますが、特に詩が巧みで詩名の高かった人です。その書に、『春樵詩草初編』二巻・『春樵家稿』十卷・『春樵遺稿』二卷等が有ります。
中島棕隠(1779~1855)
名を徳規と言い、京都の人です。彼は、学を村瀬栲亭に受け、詩文を善くし戯作も行っています。その楼名を銅駝余霞楼と言いますが、青楼の主人であったとも伝えています。その書に、『都繁昌記』一巻・『金帚集』六巻・『鴨川朗詠集』二巻・『棕隠軒文集』六巻・『棕隠軒詩集』十四巻等が有ります。
頼山陽(1780~1832)
名を襄と言い、安芸の人です。彼は、春水の子で、恐らく江戸随一の散文家です。彼は、十二歳で四書の素読を終わり、十八歳で叔父の杏坪に伴われて江戸に遊学しますが、一年で帰郷して脱藩し、修史で一旗挙げんと志します。しかし、大阪では中井氏に敵するべくも無く、京に赴いて門弟に学を講じ名声を高めます。その後文政九年四十七歳の時に『日本外史』の修訂が終わり、松平定信の求めに応じて献上し、文政十二年に定信の手に因って公刊され、彼の文名は海内に喧伝されます。確かに文名は高いですが、学者としては当時の佐藤一斎や安積艮斎らの後塵を拝すと言えます。その書に、『日本外史』二十二巻・『日本楽府』一巻・『宋詩鈔』八巻・『東坡詩鈔』三巻・『山陽文集』十三巻・『山陽詩集』二十三巻等が有ります。
篠崎小竹(1781~1851)
名を弼と言い、豊後の人です。彼は、九歳の時に篠崎三島に学んでその養子となり、十九歳で江戸に遊び尾藤二洲の学を聞き、一度帰阪後に再び江戸に出て古賀精里に学び、その後大阪に帰り父三島に代わって門弟に教授しています。学は朱子学ですが、詩文と書で名高かった人です。その書に、『小竹詩集』一巻・『小竹文集』一巻・『小竹斎詩鈔』五巻・『小竹斎文稿』四巻等が有ります。
坂井虎山(1798~1850)
名を華と言い、安芸の人です。彼は、広島藩の藩儒坂井東派の子で、父に家学を受け、藩校に入って頼春水に学びます。後に藩の学問所教授方となって朱子学を講じますが、むしろ詩文に長じて名が有った人です。その書に、『杞憂策』一巻・『虎山文集』一巻等が有ります。
河野鉄兜(1825~1867)
名を維熊と言い、播磨の人です。彼は、初め讃岐の吉田仙鶴に学び、その後梁川星巌の門に入って詩名を馳せ、江戸や西国を歴訪して草場佩川や広瀬淡窓らと親交を結び、晩年は家塾を開いて子弟に教授した人です。その書に、『鉄兜遺稿』三巻等が有ります。
山陽門下の人々
村瀬藤城(1791~1853)
名を?と言い、美濃の人です。彼は、初め篠崎三島に従い、その子小竹の家で頼山陽の来遊に際会して教えを受け、以後山陽に師事して学んでいます。後に家塾を開いて経史・詩文を教授し、更に犬山藩の藩校敬道館でも経史を講じています。その書に、『宋詩合璧』四巻・『藤城詩文集』・『藤城遺稿』等が有ります。
後藤松陰(1797~1864)
名を機と言い、美濃の人です。彼は、初め菱田毅斎に学びますが、頼山陽の門に入って詩を善くし、篠崎小竹の娘婿となって大阪で教授に従事した人です。その書に、『評註山陽詩鈔』四巻・『松陰詩稿』九巻・『松陰文稿』三巻等が有ります。
門田樸斎(1797~1873)
名を重隣と言い、備後の人です。彼は、初め管茶山に学んで彼の養子となりますが、茶山没後に門田姓に復して頼山陽に師事し、福山藩に仕えて学政を掌った人です。その書に、『樸斎遺稿』・『樸斎葦北詩鈔』等が有ります。
牧百峯(1801~1863)
名をゲイ(車+兒)と言い、美濃の人です。彼は、頼山陽の門に学んで詩文を善くし、講説に従事した後に学習所の教授となった人です。その書に、『トウ斎漫稿』が有ります。
村瀬太乙(1803~1881)
名を青黎と言い、美濃の人です。彼は、初め同郷の村瀬藤城に学び、次いで頼山陽に師事して詩文を修めます。名古屋で家塾を開きますが、犬山藩に仕えて儒臣となり、藩校敬道館で講説しています。彼は、経史・詩文以外にも書画を善くした人です。その書に、『幼学詩選』二巻・『太乙堂詩鈔』一巻等が有ります。
宮原節庵(1806~1885)
名を龍と言い、尾道の人です。彼は、初め頼山陽に師事して詩文を修め、後に江戸の昌平黌に入って学び、その後京都に家塾を開いて講説に従事し、書も善くした人です。その書に、『節庵遺稿』四巻等が有ります。
藤井竹外(1807~1866)
名を啓と言い、摂津の人です。彼は、藩の儒臣で詩を善くし、頼山陽の門に学び、梁川星巌・広瀬淡窓らと親交を結んでいます。致仕した後は、京に居を構え作詩に耽っています。その書に、『竹外詩文稿』一巻・『竹外詩鈔』一巻・『竹外亭百絶』一巻・『竹外二十八字詩』二巻等が有ります。
関藤藤陰(1807~1876)
名を成章と言い、備中の人です。彼は、頼山陽に師事して経学・詩文を修め、後に福山藩に仕えて藩校で教授に従事しています。その書に、『藤陰舎遺稿』七巻等が有ります。
詩客
浦上玉堂(1745~1820)
名を弼と言い、備前の人です。彼は、初め池田藩に仕えていますが、致仕して京に居を構え、画家を生業としますが、儒学に通じ詩文にも巧みであったため、京阪の詩人達と交流を深めています。その書に、『玉堂詩稿』一巻・『玉堂琴譜』一巻・『奇事小誌』四巻等が有ります。尚、玉堂の二人の子、浦上春琴・浦上秋琴の兄弟も、詩文を善くした画家として有名です。
田能村竹田(1777~1835)
名を孝憲と言い、豊後の人です。彼は、幼にして学を好み詩を善くし、江戸に出て大竹東海に師事して古文辞学を修め、同時に谷文晁に就いて画法を学んでいます。その後、京で皆川淇園に学び、頼山陽や篠崎小竹らと交流し、詩文書画に長じた人です。その書に、『竹田荘詩話』一巻・『竹田詩集』一巻・『竹田文集』一巻・『今才調集』十三巻・『豊後紀行』一巻等が有ります。
地方の漢詩人達
江戸時代も寛政以後になりますと、江戸や上方のみならず、地方に在っても詩名・文名を唱われる人々が登場して来ます。それは、秋田で文教の振興に尽力した石田無得、紀州で文名を唱われた斉藤拙堂や土井ゴウ牙、詩名を唱われた菊池渓琴らであったり、九州の藪孤山や亀井昭陽・原古処、鎮西の詩聖と称された広瀬淡窓や中島米華・広瀬旭荘らです。
東北の人々
石田無得(1773~1840)
名を道と言い、秋田の人です。彼は、幼時より詩書を善くし、初め来藩していた国学者で歌人である津村ソウ庵に学び、ソウ庵に伴われて十七歳で江戸に出て管茶山に師事し、佐藤一斎・伊沢蘭軒・狩谷ヤ齋・太田南畝・蠣崎波響ら、当時の一流文人や儒者と交流し、家督を継ぐため帰郷して郷里で詩書会などを開き、藩の文運発展に寄与した儒者です。彼は、詩書画に渉って巧みな文人儒者ですが、その中でも特に書は優れており、淡墨を駆使した行草の連綿体に特徴的な書風を示す能書家で、江戸に永住していれば、米庵や海屋らと名を馳せたであろうことは疑い無いと言われています。尚、森鴎外の『伊沢蘭軒』には、無得が巳之助・惣助の名で登場しています。
紀州の人々
斉藤拙堂(1799~1865)
名を正謙と言い、伊勢の人です。彼は、昌平黌に学び古賀精里から学を受けていますが、文章に尤も力を注ぎ一家を成した人です。津藩に有造館が創立されるに当たり、二十四歳で教官になって督学に進み、『資治通鑑』を刊行して着実に藩校の実を挙げ、昌平黌から儒官に召されますが、藩主の知遇を思い辞退しています。朱子学を宗としていますが、歴史・詩文にも長じ、特に文名を以て鳴らした人です。その書に、『拙堂文話』八巻・『続拙堂文話』八巻・『拙堂文集』六巻・『月瀬記勝』二巻・『海外異伝』一巻等が有ります。
菊池渓琴(1799~1881)
名を保定と言い、紀州の人です。彼は、若い時に江戸に出て大窪詩仏に詩を学び、佐藤一斎・頼山陽・梁川星巌らと親交を結びます。紀州では、祇園南海以後の詩の第一人者です。その書に、『海荘集』三巻・『海荘遺稿』一巻・『秀餐楼詩集』二巻・『渓琴山房詩』六巻等が有ります。
土井ゴウ牙(1817~1880)
名を有恪と言い、伊賀の人です。彼は、二十七歳で有造館助教となり、文を斉藤拙堂に経義を石川竹厓に学び、有造館の教官になります。学は、最初朱子学を学びますが、晩年は清朝の考証学へと進んでいます。詩文・書画にも長じた人です。その書に、『兵語百計』一巻・『ゴウ牙遺稿』十六巻・『ゴウ牙斎詩稿』五巻・『ゴウ牙斎存稿』三巻等が有ります。
菊池三溪(1819~1891)
名を純と言い、紀州の人です。彼は、江戸に出て昌平黌の林培齋に学び、和歌山藩藩校明教館の教授となりますが、後に幕府の儒官となり、晩年は京都で講説に従事しています。特に詩文に長じた人です。その書に、『国史略』十五巻・『日本外史論文講義』一巻・『増評韓蘇詩鈔』三巻・『晴雪楼詩鈔』一巻等が有ります。
九州の人々
藪孤山(1735~1802)・・講学系
名を愨と言い、肥後の人です。彼は、藩命に因り江戸に遊学し、帰郷後は藩学の教授となり、中井履軒・尾藤二洲・頼春水らと交流を重ねる一方で、藩学の刷新に鋭意努力しています。その書に、『崇孟』一巻・『孤山遺稿』十六巻・『樂?集』十巻・『凡鳥館詩文集』四巻等が有ります。
原古処(1767~1827)
名を震と言い、筑前の人です。彼は、亀井南冥の門人で徂徠の学を受け、藩校稽古館で二十年に渉って徂徠学を講じています。詩文に長じて、広瀬淡窓・頼山陽らと親交を結んでいます。彼の長女が、幕末女流詩人として有名な、原采蘋です。その書に、『暁月山房集』二十四巻・『古処山堂詩稿』八巻等が有ります。
亀井昭陽(1773~1836)・・講学系
名を昱と言い、福岡の人です。彼は、亀井南冥の長子です。幼にして父から家学を受け、その後徳山藩鳴鳳館の学頭である役藍泉から学を受けています。帰郷後藩は父の後を嗣ぎ甘棠館で教授しています。その学は、徂徠の古文辞学を奉じて父南冥の説を主張しています。その書に、『論語語由述志』二十巻・『尚書考』十一巻・『孟子考』二巻・『大学考』一巻・『中庸考』一巻・『老子考』二巻・『昭陽文集』三巻等が有ります。
広瀬淡窓(1782~1856)
名を建と言い、豊後の人です。彼は、十六歳の時に亀井昭陽の門に入り、徂徠学の余風に馴染みますが、二十歳頃に唐宋の詩を読んで新機軸を打ち出し、二十一歳で郷里に私塾咸宜園を開き、門弟に教授しています。その学は、経学に老荘を加味した独特の学風ですが、それよりも詩名が高く、鎮西一の大漢詩人で門弟四千人に及ぶと言われ、その門下に、大村益次郎・高野長英らがいます。その書に、『論語三言解』一巻・『老子摘解』二巻・『遠思楼詩鈔』四巻・『淡窓詩話』二巻・『淡窓日記』八十二巻等が有ります。
中島米華(1801~1834)
名を大賚と言い、豊後の人です。彼は、若くして広瀬淡窓に学び、その後頼山陽・亀井昭陽らと従遊し、昌平黌に入り古賀?庵に学びます。後に佐伯藩の儒官となり、藩の学政を掌ります。その書に、『日本新楽府』一巻・『愛琴堂集』七巻・『愛琴堂詩醇』二巻・『米華遺稿』一巻等が有ります。
広瀬旭荘(1807~1863)
名を謙と言い、豊後の人です。彼は、淡窓の末弟で、兄同様に亀井昭陽の門に入り、次いで備後の管茶山に学んでいます。帰郷後は田代の東明館に教授する傍ら、兄の私塾を監督し、その後、大阪・江戸・北陸・中国を巡って日田に帰り、私塾雪来館を開いて教授しています。その書に、『梅?詩鈔』十二巻・『梅?遺稿』二巻・『九桂草堂随筆』十巻等が有ります。
秋月橘門(1809~1880)
名を龍と言い、豊後の人です。彼は、十六歳で広瀬淡窓の門に入り、次いで中島米華に家に寓して学び、更に亀井昭陽の門に入って徂徠学を学びますが、彼自身は朱子学や徂徠学をあまり論ぜず、むしろ詩文や書に長じ、和歌も善くしています。その書に、『橘門韻語』二巻等が有ります。
幕末の女流詩人達
江戸時代も幕末が近くなり国内が騒然として来ると、あたかも去りゆく夏を惜しむ立葵の如く、忽然として女流の漢詩人が登場します。それが、頼山陽の門弟であった江馬細香であり、亀井昭陽の娘である亀井小琴であり、原古処の娘である原采蘋であり、梁川星巌の妻である梁川紅蘭です。
江馬細香(1787~1861)
名をタオと言い、美濃の人です。彼女は、頼山陽に師事して詩文を学び、中林竹洞に画を学んだ人です。放蕩男の山陽が、結婚したいと思った程の才女ですが、梁川星巌らと詩社白鴎社の同人となり、終生詩・書・画を友として過ごした人です。その書に、『湘夢遺稿』二巻が有ります。
亀井小琴(1798~1857)
名を友と言い、筑前の人です。彼女は、亀井家の家学を受け継ぎ、詩と画を善くした人です。その書に、『小琴詩集』が有ります。
原采蘋(1798~1859)
名を猷と言い、筑前の人です。彼女は、原古処の娘で、秋月藩の儒官であった父の浮沈に、影の如く付き従っています。二十年間の江戸暮らしから帰郷した彼女の仕事は、名門原家の再興でした。彼女の生涯は、将に原家を背負った一生であった、と言えます。その書に、『采蘋詩集』一巻等が有ります。
梁川紅蘭(1804~1879)
名を景婉と言い、美濃の人です。彼女は、梁川星巌の又従妹ですが、十七歳で三十二歳の星巌の妻となっています。夫星巌に従い彦根や江戸に住みますが、星巌没後は、京で私塾を開き子女の教育に従事しています。その書は、全て夫の『星巌集』に入っていますが、『紅蘭小集』二巻・『紅蘭遺稿』三巻等が有ります。
幕末勤王の志士達
江戸時代も幕末動乱の時期になると、勤王の志士と呼ばれる人々が国事に奔走し出します。彼等は、各藩の若手藩士であったり或いは勤王の儒者であったりしますが、共に漢学の教養を身につけており、憂国の漢詩を多く作っています。代表的な人物として、若手藩士では長門の久坂江月斎・越前の橋本景岳・長州の高杉東行ら、儒者では梅田雲浜・大橋訥庵・日柳燕石らです。
梅田雲浜(1816~1859)
名を定明と言い、若狭の人です。彼は、初め小浜の儒者山口菅山に学び、次いで江戸の出て佐久間象山や藤田東湖らと交わり、後の京で講説に従事しますが、尊皇攘夷を高唱し安政の大獄で獄死しています。その書に、『雲浜遺稿』一巻が有ります。
大橋訥庵(1816~1862)
名を正順と言い、下野の人です。彼は、江戸の豪商大橋淡雅の養子となり、佐藤一斎の門に学んで講説に従事しますが、尊皇攘夷を唱えて捕らえられ、獄中で病死しています。その書に、『闢邪小言』四卷・『訥庵詩文鈔』四卷等が有ります。
日柳燕石(1817~1868)
名を政章と言い、讃岐の人です。彼は、琴平の儒医三井雲航に学んで史学を考究し、詩文や書画に長じて勤王の志が厚く、吉田松陰や久坂玄瑞らと交流を深め、倒幕軍にも自ら参加しています。その書に、『呑象楼遺稿』八巻・『呑象楼詩鈔』一巻・『柳東軒詩話』一巻等が有ります。
橋本景岳(1834~1859)
名を左内と言い、越前の人です。彼は、藩の儒者吉田東篁に学び、藩校明道館の学監となりますが、国事に奔走して安政の大獄で刑死しています。その書に、『藜園遺稿』三巻が有ります。
久坂江月斎(1839~1864)
名を通武と言い、長門の人です。彼は、世々医を業とする家に生まれますが、兵学を吉田松陰に、漢学を芳野金陵に学び、倒幕を謀って蛤御門の変で戦死しています。その書に、『江月斎遺集』二巻・『興風集』一巻等が有ります。
高杉東行(1839~1867)
名を春風と言い、長州の人です。彼は、吉田松陰の松下村塾に学び、勤王の大義を唱えて奇兵隊を組織し、幕府の征長軍と戦い倒幕運動を進めた人です。その書に、『東行詩文集』二巻・『東行遺文』一巻等が有ります。
江戸後期朱子学派の人々
寛政の改革以後の学術は、官学である朱子学が勢いを盛り返し、この時期の朱子学派の人々は、大概昌平黌に関わりを持つ人達が中心になります。例えば、林述斎を初めとして、古賀トウ庵・安積艮斎・松崎慊堂・羽倉簡堂・塩谷宕陰・安井息軒・佐久間象山・楠本端山・芳野金陵・友野霞舟・成島柳北らです。しかし、彼等の活動は、激変する社会の中で、辛うじて幕府の官学を支えている、と言う状況に過ぎません。実際の社会変動の中で活躍するのは、彼等官学の朱子学者達ではなく、諸藩の漢学者達です。
近藤篤山(1766~1846)
名を春崧と言い、伊予の人です。彼は、郷里の先学尾藤二洲に師事し、藩校の教授となって朱子学を講じ、一生宋学を修めた人ですが、その人柄が重厚謹厳であり、「伊予聖人」と称されています。その書に、『篤山遺稿』が有ります。
林述斎(1768~1841)
名を衡と言い、美濃の人です。彼は、美濃岩村藩主松平侯の第三子です。初め服部仲山に学び、次いで林家の高弟渋井太室に学びます。広く経史・和漢の学を修め詩芸を以て人と交わり、その名を知られるようになります。たまたま林大学頭錦峰が没して跡が無かったため、幕命に因り二十六歳で林家八世を嗣ぎます。以後四十九年間幕府の学政を総督し、林家を中興して昌平坂学問所を確立し、官学(朱子学)を復興させます。彼の学術的行為で最大の事は、中国で既に亡び日本に現存していた漢籍十七種を、「佚存叢書」として活字印行したことです。その書に、『述斎詩稿』六巻・『述斎文稿』十二巻・『武蔵国志』三十六巻・『南役小録』二巻・『朝野旧聞』千九十三巻等が有ります。
松崎慊堂(1771~1844)
名を復と言い、肥後の人です。彼は、十三歳の時に父の命で僧になりますが、十五歳の時に出奔して江戸に赴き、林簡順の門に入って昌平黌に寄寓し、林述斎に学びます。当時佐藤一斎も林塾におり、互いに切磋琢磨して林塾の双璧と称されるようになります。後に掛川藩の藩儒となり、致仕後は江戸に石経山房を築いて隠遁します。その学は、朱子学を修めていますが、漢唐の注疏から清朝の考証学までと幅の広い折衷学で、説文・石経の学に深く、日本に於ける石経の研究は、慊堂に始まると言われています。彼の交わった知友には、市野米庵・山梨稲川・狩谷(木+夜)斎ら、古注学派の人が多いです。慊堂の門下に、塩谷宕陰や安井息軒が現れます。その書に、『論語集注』二巻・『四書札記』二巻・『周礼札記』二巻・『爾雅札記』一巻・『慊堂文集』十五巻・『慊堂詩集』四巻等が有ります。
野村篁園(1775~1843)・・詩文系
名を直温と言い、大阪の人です。彼は、学を古賀精里に受け、昌平黌の儒員となります。古賀トウ庵とは僚友です。温厚な人柄で、特に詩が巧みですぐれています。その書に、『篁園全集』二十巻が有りますが、これは刊本ではなく自筆稿本で、現在内閣文庫に所蔵されています。
古賀穀堂(1778~1836)
名を燾と言い、佐賀の人です。彼は、古賀精里の第一子です。父に従い江戸に出て、柴野栗山や尾藤二洲に学びます。更に大阪の中井竹山や安芸の頼春水らと交わり、藩校の教授として朱子学を講じ、詩文にも長じています。その書に、『穀堂文集』十巻・『清風楼詩稿』六巻・『穀堂遺稿抄』八巻等が有ります。
赤井東海(1787~1862)
名を繩と言い、讃岐の人です。彼は、江戸に出て昌平黌の古賀精里に学び、高松藩の儒員となり渡辺華山らと親交を結んでいます。その書に、『四書質疑』十二巻・『学庸質疑』二巻・『春秋質疑』四巻・『晏子略解』三巻・『戦国策遺考』六巻等が有り、詩文集には、『東海文鈔』六巻・『東海詩鈔』四巻等が有ります。
古賀トウ庵(1788~1847)
名を煜と言い、佐賀の人です。彼は、古賀精里の第三子です。父に従い江戸に出て、八歳の時から柴野栗山・尾藤二洲に学びます。幕府儒者見習となり父精里と共に昌平黌に出仕し、合わせて佐賀藩の明善堂で学を講じています。学は朱子学ですが、詩は杜甫を宗としています。その書に、『論語問答』二十巻・『大学問答』四巻・『中庸問答』六巻・『孟子集説』四巻・『トウ庵文鈔』二十六巻・『トウ庵詩鈔』二十巻等が有ります。
草場佩川(1788~1867)・・詩文系
名を?と言い、肥前の人です。彼は、十八歳の時に佐賀藩の弘道館で学び、二十三歳で江戸に出て古賀精里の門に入ります。宋学を修めた後佐賀藩に仕えて弘道館教授となります。博学多識を以て知られた人ですが、特に詩文に長じ墨竹画にも巧みであったと言われています。その書に、『佩川詩鈔』四巻・『阿片紀事』四巻・『烟茶独語』一巻等が有ります。
羽倉簡堂(1790~1862)
名を用九と言い、伏見の人です。彼の家は代々幕臣で、父の赴任に伴い初めは広瀬淡窓に従学し、江戸に移って古賀精里に学を受けます。諸州の代官を努める傍ら、韓愈の文や歴史を学びます。その書に、『資治通鑑評』二巻・『読史箚記』八巻・『詠史』一巻・『非詩人詩』二巻等が有ります。
友野霞舟(1791~1849)・・詩文系
名を?と言い、江戸の人です。彼は、初め赤井東海に学びますが、その後昌平黌に入り野村篁園に師事します。後に甲府徽典館学頭に任ぜられ、次いで昌平黌教授となります。彼は、学よりも詩の方が遙かに優れています。その書に、『煕朝詩薈』百十巻・『錦天山房詩話』二巻・『霞舟吟』一巻・『霞舟文稿』一巻等が有ります。
安積艮斎(1791~1860)
名を信と言い、奥州の人です。彼は、初め二本松の儒臣今泉徳輔に学びますが、後に江戸に出て林述斎の門に入ります。学が成り塾を開いて講説し、四十一歳で『文略』を刊行して名声を高め、二本松藩の藩校敬学館教授となり、後に昌平黌教授となっています。彼は、文を以て鳴らした人です。その書に、『論孟衍旨』六巻・『大学略説』一巻・『中庸略説』一巻・『荀子略説』一巻・『艮斎文集』十五巻・『見山楼詩集』五巻等が有ります。
林培斎(1793~1846)
名をヒカル(皇+光)と言い、江戸の人です。彼は、林述齋の第三子で、佐藤一斎や松崎慊堂に学び、朱子学を修め詩文に長じ、林家第九代の大学頭になります。その書に、『観光集』二巻・『攀日光山記』一巻・『澡泉先後録』一巻等が有ります。
野田笛浦(1799~1859)・・詩文系
名を逸と言い、丹後の人です。彼は、十三歳で江戸に出て古賀精里に従い、昌平黌に入って古賀?庵に学びます。中国語にも通じ詩文を善くし、江戸で講説を生業としていましたが、田辺藩に仕えて儒員となり藩政にも参与しています。特に文章が巧みで、当時の四大家(篠崎小竹・斉藤拙堂・坂井虎山)と称されています。その書に、『笛浦詩文集』四巻・『北越詩草』一巻・『笛浦小稿』一巻・『海紅園小稿』一巻等が有ります。
藤森弘庵(1799~1862)・・詩文系
名を大雅と言い、江戸の人です。彼は、古賀穀堂や古賀?庵らに就いて学を受け、土浦藩の教授となって藩教に尽力し、晩年は江戸で家塾を開き弟子に教授しています。その学は朱子学ですが、むしろ詩文と書の巧みさで名を馳せた人です。その書に、『春雨楼詩鈔』三巻・『如不及齋文鈔』三巻・『弘庵先生遺墨帖』二巻等が有ります。
安井息軒(1799~1876)
名を衡と言い、日向の人です。彼は、初め大阪に行き篠崎小竹に学びますが、その後江戸に出て昌平黌に入り、松崎慊堂に就いて学びます。後に肥後藩の儒臣になり藩政に参与し、再び江戸に出て昌平黌の教授となります。その学は、朱子学を学んでいても、漢唐の注疏を宗として衆説を用いたものです。彼の外孫が安井小太郎です。その書に、『論語集説』六巻・『大学説』一巻・『中庸説』一巻・『孟子定本』十四巻・『毛詩輯疏』十二巻・『左伝輯釈』二十五巻・『管子纂詁』二十四巻・『戦国策補正』二巻・『息軒文抄』六巻・『息軒遺稿』四巻等が有ります。
芳野金陵(1802~1878)・・詩文系
名を世育と言い、下総の人です。彼は、漢詩人芳野南山の子で、初め父から家学を受けますが、二十二歳の時に江戸に出て亀田綾瀬の門に入ります。最初浅草に私塾を開いて講義していますが、駿河の田中藩の儒臣となって藩教に尽力し、次いで幕府に招聘されて昌平黌の儒官となっています。その書に、『金陵文鈔』二巻・『金陵遺稿』十巻等が有ります。
塩谷宕陰(1809~1867)
名を世弘と言い、江戸の人です。彼は、父から句読を学び十六歳で昌平黌に入り、松崎慊堂に師事します。その後浜松藩の儒臣となりますが、幕命に因り昌平黌の教授となります。学は実用を旨として文を善くした人です。その書に、『宕陰存稿』十七巻・『宕陰?稿』三巻・『晩香堂文鈔』二巻・『昭代記』十巻等が有ります。
佐久間象山(1811~1864)
名を啓と言い、信州の人です。彼は、十六歳頃に算数を学びますが、儒者として経世の任に当るべく、藩儒鎌原桐山に就いて朱子学を学び、二十三歳で江戸に遊学して佐藤一斎の門に入ります。二十九歳で江戸に私塾象山書院を開いて門弟に教授しますが、藩主真田幸貫が老中となるに及んで、召されて顧問となり幕府の海防事務を担当します。帰郷後は、塾を開いて教育に従事しています。尚、彼の門下から吉田松陰が現れます。彼は、博学であったため多方面に渉って著作が有りますが、儒教関係のものは殆どありません。僅かに『春秋占筮書補正』とか『洪範今解』なる書が有ったと、伝えています。
森田節齋(1811~1868)
名を益と言い、大和の人です。彼は、初め古注学派の猪飼敬所に学び、次いで頼山陽に学び、更に江戸に出て昌平黌に入って宋学を学び、特に『孟子』と『史記』に精通し、文名の高かった人です。彼は、諸藩の招聘に応じて教授の任に当たっていますが、勤皇の志が篤く、晩年は剃髪して幕府の追求を避け、紀州で客死しています。その書に、『太史公序贊蠡測』二巻・『節齋遺稿』二巻・『節齋文稿』一巻等が有ります。
成島柳北(1837~1884)・・詩文系
名を惟弘と言い、江戸の人です。彼は、幕府儒官成島筑山の子で詩文を善くし、幕府に仕えて儒官となり、また将軍家定・家茂の二代に渉って侍講となり、経学を講じています。明治以後は、文筆を生業として朝野新聞の社長となっています。その書に、『柳橋新誌』二巻・『柳北詩鈔』一巻・『柳北奇文』二巻・『柳北遺稿』二巻等が有ります。
江戸後期陽明学派の人々
江戸後半期の陽明学派の人々は、江戸の佐藤一斎とその門下である池田草庵・吉村秋陽・山田方谷ら、及び佐久間象山門下の吉田松陰らです。これに対して上方では、米屋打ち壊し事件で有名な大塩中斎が代表で、その門下に林良斎が現れます。他にも独自に陽明学を唱えた人に、春日潜庵・横井小楠らがいます。全ての陽明学者がそうであるとは限りませんが、幕末と言う世相の中で、「知行合一」の考えがより先鋭的な行動に表れる点が見受けられます。
佐藤一斎(1772~1859)
名を坦と言い、美濃の人です。彼は、岩村藩の家老の子で、幼にして林述斎と共に学んでいます。京で皆川淇園に会い、大阪で中井竹山に学び、江戸に出て林簡順の門に入ります。その後岩村藩の藩政に参与しますが、林述斎が没したため、幕命に因り儒官に抜擢され昌平黌で教授することになります。彼は、朱子学を学びながらも内心は陽明学に惹かれていたため、昌平黌では朱子学を講じ、私塾では陽明学を述べると言う二面性を持っています。そのため、陽朱陰王の謗りを受けますが、学術も徳望も優れて当時の儒林中の泰斗であったため、将軍家や諸侯から厚い崇敬を受け、門弟は三千人を超えています。その書に、『言志四録』四巻・『論語欄外書』二巻・『孟子欄外書』二巻・『尚書欄外書』九巻・『詩経欄外書』四巻・『傳習録欄外書』三巻・『近思録欄外書』三巻・『愛日楼文詩』四巻・『愛日楼全集』二十巻等が有ります。
大塩中斎(1793~1837)
名を正高と言い、大阪の人です。彼は、大阪天満町の与力大塩氏の養子となり、与力業に努めていますが、学問の必要を感じ江戸の出て林述斎の門で学んでいます。その後、王陽明を慕ってその学を考究し、大阪西町奉行所の与力業の傍ら私塾洗心洞塾で、講説を行っています。彼の学は、単に先賢の書を端座して訓詁通読するを良しとせず、学の道の実践実行を重んじています。四十五歳の時、米価急騰に苦しむ貧民を救うべく兵を挙げようとして失敗し、自殺しています。その書に、『洗心洞箚記』三巻・『洗心洞詩文集』二巻・『洗心洞学名学則』一巻・『古本大学旁注補』一巻等が有ります。
一斎門下の人々
吉村秋陽(1797~1866)
名を晋と言い、安芸の人です。彼は、十五歳で古義学者山口西園に従い、十八歳の時に京に上り伊東東里から学びますが、後に江戸に出て佐藤一斎の門に入り、陽明学を信奉します。三原藩に仕えて儒臣となり、広島浅野邸内の朝陽館で教授します。その書に、『大学?議』一巻・『王学提要』二巻・『格致?議』一巻・『読我書楼文草』四巻・『読我書楼詩草』三巻等が有ります。
山田方谷(1805~1877)
名を球と言い、備中の人です。彼は、五歳で新見藩の藩儒丸川松隠の塾に入り朱子学と詩文を学び、二十一歳で京に上り寺島白鹿に学び、次いで三十歳の時に佐藤一斎の門に入ります。帰郷後は藩校有終館の学頭となり兼ねて藩政に参与し、明治に入ると、岡山の閑谷学校の復興に携わります。彼の門下から、三島中洲が現れます。その書に、『古本大学講義』『中庸講義』『方谷詩文集』『方谷詩遺稿』等が有ります。
池田草庵(1813~1878)
名を緝と言い、但馬の人です。彼は、初め京の相馬九方から朱子学を学びますが、その後陽明学者の山田方谷・春日潜庵らと交わり、陽明学に心を惹かれますが、何れにも組みせず中正を持し、躬行実践を旨とした学問を行います。郷里で私塾青渓書院を建てて子弟に教授し、後に豊岡藩の藩校で教授します。その書に、『大学略解』一巻・『中庸略解』一巻・『草庵文集』三巻・『草庵詩集』一巻等が有ります。
中斎門下の人々
林良斎(1808~1849)
名を時壮と言い、讃岐の人です。彼は、十五歳で丸亀藩の藩校正明館で儒学と詩文を学びます。十九歳で大阪の中井竹山に学び、二十四歳で江戸の昌平黌に入り尾藤二洲に学びます。その後二十八歳の時、大阪の大塩中斎の洗心洞塾に入り陽明学を学びます。帰郷すると父の後を嗣いで藩の家老職に就きますが、健康上の問題で致仕し、、私塾浜書院を開いて子弟の教育に従事しています。その書に、『良斎文鈔』一巻・『自明軒遺稿』一巻等が有ります。
門派以外の人々
横井小楠(1809~1869)
名を時存と言い、肥後の人です。彼は、藩校時習館に学び、二十九歳で時習館寮長になり、三十一歳の時に藩命で江戸に遊学し、水戸の藤田東湖らと交わります。帰郷後私塾を開いて経世の実学を提唱し子弟に教授します。後に諸国を遊歴し、梁川星巌・春日潜庵らと交わり、国事を論じあいます。その書に、『小楠遺稿』一巻等が有ります。
春日潜庵(1811~1878)
名を仲襄と言い、京都の人です。彼は、初め鈴木遺音らに師事して朱子学を修めますが、二十六歳頃から陽明学を奉ずるようになります。京都久我家の侍士となって家政を掌り、幕末には西郷隆盛らと交わります。その書に、『古本大学批点』一巻・『傳習録評点』四巻・『読易抄』八巻・『読史論略評点』一巻・『潜庵遺稿』三巻等が有ります。
吉田松陰(1830~1859)
名を矩方と言い、長州の人です。彼は、叔父の玉木文之進の私塾松下村塾で儒学と兵学を教わります。二十四歳で諸国遊学に出、大阪で阪本鼎斎・大和で森田節斎・和泉で相馬九方・伊勢で斉藤拙堂らと交わり、江戸に入って佐久間象山に従学します。一時獄に繋がれますが、二十八歳の時に許され松下村塾で子弟に教授します。しかし、僅か一年後に安政の大獄で捕らえられ、処刑されます。その門下から、高杉晋作・久坂玄瑞・木戸孝允らの幕末の志士が現れます。その書に、『講孟余話』七巻・『孫子評註』一巻・『野山獄文稿』一巻・『松陰詩稿』一巻等が有ります。
江戸後期敬義(崎門)学派の人々
江戸後期の崎門学派は、前期の「崎門の三傑」と称され儒者としても名を馳せた絅齋・直方・尚齋の如き著名な人はいませんが、実際には山崎闇斎の朱子学的部分を受け継ぐ人々と、またその神道学的部分を受け継ぐ人々とがおり、何れにしてもその学統を受け継ぐ人々は膨大な数にのぼり、幕末には王政復古運動に力を致す人や、崎門学を奉じて地方で活躍する人などがいます。
新井白蛾(1715~1792)
名をは直祐登と言い、江戸の人です。彼は、初め浅見絅斎の門下である父から家学を受け、その後三宅尚斎の門人菅野兼山に師事しますが、朱子学を遵奉するも固執せず、最も易学に精通した儒者です。その書に、『古周易経断』十卷・『古易精義』一卷・『古易対問』一卷・『古易一家言』二卷等が有ります。
落合東堤(1749~1841)
名をは直養と言い、羽後の人です。彼は、若林強齋の孫弟子に当る中山菁莪から儒学を学び、闇斎学の学統を受け継ぎ、家塾守拙亭で講説に従事した儒者で、「角間川聖人」と称されています。
古屋蜂城(1763~1852)
名を希真と言い、甲斐の人です。彼の本姓は伴氏で、山崎闇斎の弟子である三宅尚斎の孫弟子、つまり加賀美櫻塢の教えを受けた崎門学派の儒者ですが、儒学よりも垂加流神道の系統を強く受け継ぎ、国学にも造詣が深く甲斐の名士として活躍しています。
小牧天山(1776~1853)
名を?方と言い、土佐の人です。彼は、土佐の国老五藤氏に仕えた儒臣で、崎門学派の儒者である箕浦文斎に学んでいます。その学統は山崎闇斎から浅見絅斎へ、絅斎から若林強斎へ、強斎から戸部愿山へ、愿山から箕浦文斎へ、文斎から小牧天山へと繋がって行きます。
楠本端山(1828~1883)
名を後覚と言い、肥前の人です。彼は、十四歳で平戸藩の維新館に入って学び、次いで江戸に出て佐藤一斎の門に入り、吉村秋陽らから学を受けます。帰郷後は維新館の教授になり侍講も兼ねています。その学は、初め古学・陽明学を学んでいますが、次第に崎門派の心学に惹かれ朱子学を確信するようになっています。晩年は、私塾鳳鳴書院を開き郷里の子弟に教授しています。その書に、『松島紀行』『端山詩文集』端山文稿』『学習録』等が有ります。
楠本碩水(1832~1916)
名を孚嘉と言い、肥前の人です。彼は、楠本端山の弟で、平戸藩の維新館に入って学び、次いで江戸に出て佐藤一斎の門に入り、月田蒙斎・吉村秋陽らから学を受けます。帰郷後は維新館の教授になります。その学は、初め古学・陽明学を学んでいますが、次第に崎門派の心学に惹かれ朱子学を確信するようになっています。晩年は、兄端山と共に私塾鳳鳴書院を開き郷里の子弟に教授しています。その書に、『日本道学淵源録』『朱王合編』碩水遺書』『碩水文草』等が有ります。
江戸後期水戸学派の人々
江戸後期の水戸学は、幕末の動き(尊皇攘夷運動)に大きな影響を与えます。藩主斉昭は、光圀以来の意志を継いで、敬神崇儒の道に依って国体を明らかにしようとします。この様な斉昭の思考を押し進めさせたのが、当時の水戸学派の人々です。それは、藤田幽谷とその子である藤田東湖、及び幽谷の門人である会沢正志斎です。幕末の水戸学派は、藤田幽谷から始まったと言っても過言ではなく、東湖の『弘道館記述義』にしろ、正志斎の『下学邇言』にしろ、国体を論じて大義名分を明らかにするものです。
立原翠軒(1744~1823)
名を万と言い、水戸の人です。彼は、初め業を谷田部東?に師事し、次いで大内熊耳に学びます。その後は水戸藩に仕え漢唐の学を講じて侍読となります。更に藩の彰考館総裁となり『大日本史』の完成に尽力し、藩政にも参与して時勢を論じますが、弟子の藤田幽谷と対立するようになります。その書に、『六礼略説』一巻・『史記系図』二巻・『西山遺文』二巻・『翠軒雑録』・『東里文集』等が有ります。
藤田幽谷(1774~1826)
名を一正と言い、水戸の人です。彼は、初め青木侃斎に師事して四書五経を読了し、十一歳で詩を作り、十三歳で文を作ったと言う英才です。十六歳で江戸に出て、柴野栗山・大田錦城らと交わり名を高め、その後、藩の彰考館総裁となります。後期水戸学は、幽谷から始まったと言ってよく、その門下に会沢正志斎・国友善庵・飛田逸民・杉山復堂らが現れます。その書に、『修史始末』二巻・『勧農或問』二巻・『幽谷先生遺稿』・『幽谷詩纂』等が有ります。
会沢正志斎(1782~1863)
名を安と言い、水戸の人です。彼は、学を幽谷に学び、十八歳で彰考館写字生となり、江戸に移って諸公子の伴読となりますが、水戸に帰って四十二歳で彰考館総裁代役となります。藩主斉昭の信を得て学制改革を行い、弘道館設立に伴い弘道館総裁となります。その書に、『下学邇言』七巻・『孝経考』一巻・『中庸釈義』一巻・『新論』二巻・『正志斎詩稿』八巻・『正志斎文稿』四巻等が有ります。
藤田東湖(1806~1855)
名を彪と言い、水戸の人です。彼は、幽谷の第二子です。江戸で亀田鵬斎・大田錦城らに学び、幽谷没後に彰考館編修となっています。藩主斉昭に信任され、藩政の改革と水戸学の振興とに、尽力しています。その書に、『弘道館記述義』二巻・『回天詩史』二巻・『東湖遺稿』三巻・『東湖詩鈔』二巻・『東湖随筆』一巻等が有ります。
原伍軒(1830~1867)
名を忠成と言い、水戸の人です。彼は、会沢正志斎と藤田東湖に業を受けた後、江戸の昌平黌で古賀謹堂に学び、更に塩谷宕陰・藤森弘庵らに従学した人です。帰郷後に藩校弘道館訓導となり、同時に家塾を開いて子弟の教育に従事しています。その書に、『尚不愧斎存稿』四巻・『尚不愧斎遺稿』二巻等が有ります。
綿引東海(1837~1915)
名を泰と言い、水戸の人です。彼は、原伍軒の門に学び、東湖門の鬼才と称された人で、藩校弘道館訓導となりますが、国事に奔走して維新後は宮内省に出仕し、著述業者として名を成しています。その書に、『烈士詩伝』・『疑獄録』等が有ります。
江戸時代の総集
江戸時代は、漢詩文の制作が非常にに盛んな時代で、別集は言うまでも無く、総集も多く作られており、例えば『天保三十六家絶句』『安政三十二家絶句』『文久二十六家絶句』等々ですが、その中で総集の代表的なものと言えば、江村北海の『日本詩選』と市河寛斎の『日本詩記』及び友野霞舟の『煕朝詩薈』と藤元?の『日本名家詩選』等です。
『日本詩選』十八巻
本書は、江村北海の編修で、元和年間から安永年間に至るほぼ百六十年間の漢詩を集めたもので、五百二十名の詩人の作品が採取され、正編十巻・続編八巻で構成されています。
『日本詩記』五十三巻
本書は、市河寛斎の編修で、近江朝から平安朝までの漢詩を年代順に排列したもので、王朝時代の漢詩は殆ど網羅されています。本集五十巻・外集一巻・別集一巻・首集一巻と言う構成で、元来写本で伝わっていましたが、明治四十四年に一冊の書として出版されています。
『煕朝詩薈』百十巻
本書は、友野霞舟の編修で、林復斎大学頭の命に因り、江戸初期から天保年間に至る千四百八十四家の詩一万四千百四十五首を集めたものです。作者の小伝と評論及び編者の評語も加えられています。この書は写本で伝わり内閣文庫に納められていましたが、汲古書院の『詞華集日本漢詩』で、影印本が出されています。
『日本名家詩選』十巻
本書は、藤元?の編修で、江戸時代の名家の漢詩を集めたものです。七十八人の詩人の五百四十五首が採取され、大概『唐詩選』の体に倣って排列されています。
江戸時代の韻書
江戸時代は、漢字の音韻について研究が進んだ時代でもありますが、その音韻関係の書として代表的なものが、文雄上人の『磨光韻鏡』と太田全斎の『漢呉音図』、及び本居宣長の『漢字三音考』や三浦道斎の『韻学階梯』等です。
『磨光韻鏡』二巻
本書は、文雄上人の作で、韻鏡を著者の新見解で解説したもので、上巻は図説、下巻は韻鏡の使用方法が説明されています。当時韻鏡は、反切のために用いられていましたが、文雄は、韻鏡は音譜であり反切のために作られたものではない、としています。
『漢呉音図』一巻
本書は、太田全斎の作で、漢呉音図・漢呉音徴・漢呉音図説の三部構成になっています。日本が古来用いている漢呉音を韻鏡と比較し、韻図に因って漢呉両音を検することが出来るようにした書です。
『漢字三音考』一巻
本書は、本居宣長の作で、漢字の漢音・呉音・唐音について論弁し、字音の仮名遣いを定めるに当たり、万葉仮名として用いた漢字と韻鏡とを対比させ、結局日本の国音が、尤も正確に中国古代の正音を残している、と主張している書です。
『韻学階梯』二巻
本書は、三浦道斎の作で、本居宣長の説や太田全斎の説を取り入れながら、文雄上人の韻鏡説にも批正を加え、全体を五十五項目に分類して音韻学の概説を試みた書です。
江戸時代の史書
江戸時代は、平安朝時代に次いで本格的な史書が漢文で書かれた時代です。日本の国史の正史は六国史ですが、その最後は『三代実録』で光孝天皇で終わっており、宇多天皇以降が有りませんでしたが、江戸時代に入り、その後を続けるべく史書の編纂が大規模に行われます。その代表的なものが、水戸光圀の『大日本史』や林羅山の『本朝通鑑』、及び頼山陽の『日本外史』や飯田忠彦の『大日本野史』等です。
『大日本史』三百九十七巻
本書は、水戸光圀の修史の志から始まったもので、中国の正史と同様に紀伝体で書かれています。その内容は、本紀七十三巻・列伝百七十巻・志百二十六巻・表二十八巻、合計三百九十七巻に及ぶ神武天皇から後小松天皇に至る一大史書です。光圀の時からほぼ百五十年を経た明治三十九年に完成し、その年に子孫の徳川圀順が朝廷に献上しています。
『本朝通鑑』二百七十三巻
本書は、徳川家光が林家に命じ、朱子の『資治通鑑目録』に倣って編修させた、編年体の史書です。その内容は、神代から後陽成天皇に至ります。初め、林羅山が編修し、次いで林鵞峰・鳳岡らが編修して完成させた史書です。
『日本外史』二十二巻
本書は、頼山陽が源氏の興起から徳川十代将軍家治に至るまでの、武家七百年間の興亡盛衰を記述した史書で、源氏四巻・新田氏二巻・足利氏六巻・徳川氏十巻の、合計二十二巻の構成です。
『大日本野史』二百九十一巻
本書は、徳山藩の藩士飯田忠彦が光圀の精神を継ぎ、独力で三十八年の歳月をかけて完成させた史書で、後小松天皇から仁孝天皇に至るほぼ四百五十年間の歴史を、本紀と列伝との構成で記述してあります。
江戸時代の書肆
江戸時代は、何故この様に多くの儒者や文人が活躍出来たのでしょうか。最大の理由は、幕府の学問奨励と言う文教政策に他なりませんが、言うなればそれはソフトの面です。どんなに優秀であっても、実際に就ける儒官や藩儒の数には限りが有りますし、如何に詩文が上手くても、それで公的な役に就けるとは限りません。
畢竟彼等は、家塾とか私塾を開いて講説を生業とすることになりますが、これとて無名であれば塾生は集まりません。要するに、彼等の名を世に喧伝した媒体は、周囲の評判と言う口評と、彼等の著した書籍です。この書籍の出版と言う行為こそが、彼等の活躍を裏で支えたハードな面であったと言えます。
江戸時代は、木版技術の進歩と言うハード面と、学問奨励と言うソフト面が相俟って、多量の出版物が刊行された時代です。それを支えたのが書肆(本屋)であり、それは漢籍の部に在っても同様です。江戸時代の書肆は、幕末に至ると全国で五千以上に上りますが、江戸が千六百強、京が千七百強、大阪が千二百強、地方が五百強と言う具合です。
これら書肆の中で、特に漢籍を多く出した書肆として有名なのは、江戸では、大書肆須原屋茂兵衞から別れた須原屋新兵衞や東叡山御用達の和泉屋金衞右門、京では、江戸にも出店を出した大店の出雲寺文治郎や風月荘左衛門、大阪では、伊丹屋善兵衞・河内屋茂兵衞、名古屋では永樂屋東四郎、紀州では帯屋伊兵衞らです。
江戸
須原屋新兵衞
場所は日本橋で、堂号は嵩山房で、『孝經集伝』『増注孔子家語』『四書集註』『四書大全』『詩聖堂詩集』『古文真宝』等の書を出しています。荻生徂徠・太宰春台・服部南郭らの書が多いです。
和泉屋金衞右門
場所は両国で、堂号は玉巌堂で、『荀子箋釈』『小学句読集疏』『増評唐宋八家文読本』『愛日楼文詩』『錦城文録』等の書を出しています。東叡山御用達で、唐本・仏書等が多いです。
京
出雲寺文治郎
場所は二条通で、堂号は松柏堂で、『官版五経』『呉志』『後漢書』『近思録』『箋注蒙求』等の書を出しています。知恩院・比叡山御用達で、江戸の出店は、横山町で出雲寺万治郎です。
風月荘左衛門
場所は二条通で、堂号は風月堂で、『尚書註疏』『四書集註』『伊洛淵源録新増』『小説奇言』『小説精言』等の書を出しています。
大阪
伊丹屋善兵衞
場所は高麗橋で、堂号は文榮堂で、『楚辞』『杜工部集』『唐韓昌黎集』『唐柳河東集』『読書録』等の書を出しています。
河内屋茂兵衞
場所は心斎橋で、堂号は群鳳堂・群玉堂で、『王陽明文粋』『詩経示蒙句解』『茶山集』『山陽遺稿』『王心斎先生全集』等の書を出しています。
名古屋
永樂屋東四郎
場所は本町で、堂号は東璧堂で、『国語定本』『楚辞燈』『文選』『新序』『説苑』等の書を出しています。
紀州
帯屋伊兵衞
場所は新通で、堂号は青霞堂で、『貞観政要』『群書治要』等の書を出しています。
《閑話休題・5》
江戸時代の後半は、所謂文人と称される人々が多く登場します。その彼等の嗜好が文人趣味と言われる一種の中華趣味です。彼等は、詩文を操ることは当然として、それ以外に諸々の諸芸も自由にこなします。当時の典型的な文人は、人の師たる芸は十六以上と言われている柳沢淇園です。
また、諸芸とは、書・画・篆刻・琴・煎茶・投壺・盆栽・小動物の飼育等々です。これらの中で、特に幅広く隆盛を極めた書では、三都(江戸・京・大阪)を中心に活躍したのが、唐様の森佚山・河原井台山・平林東嶽・三井親和・細井九皐・趙陶齋・細井竹岡・韓天寿・雨森白山・沢田東江・関其寧・松本龍沢・山梨稲川・上田止々斎・芝田汶嶺・中井董堂・関克明・関思孝・亀田鵬斎・白井赤水・白井木斎・松山天姥・脇田赤峰・野呂陶斎・永田観鵞・釈道本・松元研斎・多賀谷向陵・高島雲溟・亀田綾瀬・井田磐山・佐野東洲・男谷燕齋・石川梧堂・中根半仙・小島成斎・桂帰一堂・松本董齋・藤原不退堂・戸川蓮仙・筒井鑾溪・中川憲齋・三井南陽・市河恭齋・荒庭平仲・呉策(肥前屋又兵衛)・飯田義山・柳田正齋・榊原月堂・山内香雪・川上花顛・三瓶信庵・生方鼎斎・大竹蒋塘・中沢雪城・萩原秋嚴・朝川同斎・香川琴橋・秋山正光・土肥丈谷ら、幕末の三筆と称される貫名海屋・市河米庵・卷菱湖ら、女流漢字書家としては、河村如蘭・高島竹雨・吉田袖蘭・小笠原湘英・長橋東原らで、和様(御家流や大師流)では、加藤千蔭・細合半齋・岡本方円齋・岡本修正齋・岡本近江守・花山院愛徳・花山院家厚・佐々木玩易斎・中邨穆堂・江田伴松・梅沢敬典らが名を残し、画では、池大雅・与謝蕪村・谷文晁・山本梅所ら、篆刻では、望月啓斎・高芙蓉(大島逸記)・細川林谷・小俣蠖庵・呉北渚・濱村藏六(初代・二代・三代)・田辺玄々・十河節堂・立原杏所・羽倉可亭・頼立斎・益田遇所らが有名です。
一方地方で活躍した人々には、秋田の書大家戸村杉陵・根本果堂、能筆家石田無得、盛岡の書家久慈東皐、庄内の名手重田鳥岳、会津の祐筆糟谷磐梯・星研堂・能書家平尾松亭、仙台の能書家菅野志宣斎・千葉三余、利根の三筆の一人萩原墨齋、上野の書僧角田無幻、下野の大家小山霞外、武蔵の磯田健斎・千島岫雲、信州の大家馬島禅長・大森曲川、甲斐の能書家志村天目・古屋蜂城、越前の能書家関明霞、尾張の祐筆丹羽盤桓・名手柳沢新道、飛騨の書家岩佐一亭、桑名の能書家尾嶋樸齋、丹後の書師範梶川景典・祐筆沢村墨庵、備前の能書家武元登登庵、安芸の能書家沢三石、長州の才人矢野竹舌、長門の書師範草場大麓、伊予の名手大野約庵・能書家万沢癡堂・女流書家石原玉鴛、阿波の能書家井川鳴門・才人吉田南陽・赤松藍洲、筑前の大家二川松陰・二川相遠・中牟田浙江、長崎の名手野村雲洞・笹山花溪、肥後の能書家草野潜溪・書師大槻蜻浦、薩摩の能書家鮫島白鶴らが居ります。
更に、江戸後期に於ける諸芸の隆盛を受けて、幕末から維新(明治20年頃)にかけての近代化の中で、書・画・篆刻ともに新たな発展を示しますが、当時能書家として特に名を馳せていた人々に、高橋不可得・大亦墨隠・大島堯田・石井潭香・安藤龍淵・宮原節菴・亀田鶯谷・高斎単山・服部隨庵・平尾松亭・永井盤谷・松本董仙・宮小路浩潮・齋藤百外・渡邊水翁・原田柳外・市河遂庵・中根半嶺・太田竹城・小山内暉山・青山暘城・三好竹陰・岡崎越溪・伊藤桂洲・久永其潁・武知五友・伊佐如是・久世龍皐・樋口逸斎・長梅外・村田柳厓・宗像雲閣・桑野霞松・伊東遜斎・平井東堂・小野湖山・莊田膽斎・高橋石斎・三輪田米山・大沼枕山・寺西易堂・林雪蓬・遠山廬山・佐瀬得所・中村淡水・関雪江・成瀬大域・中林梧竹・恒川宕谷・坪井山舟・大沼蓮斎・副島蒼海・小林卓斎・吉田晩稼・菊池晁塘・神波即山・長三洲・三枝五江・金井金洞・片桐霞峯・秋月楽山・巌谷一六・市河得庵・卷菱沢・卷菱潭・岡三橋・小山梧岡・小山遜堂・新岡旭宇・小林穣洲・岩城玉山・杉聴雨・卷菱洲・卷鴎洲・松田雪柯・浅野蒋潭・堀尾天山・内田栗陰・越智仙心・高林二峰・村田海石・大城谷桂樵・副島蒼海・清水蓮成や、女流仮名書の稲葉鯤、幕末三舟の勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟らがおり、亦、画では、平野五岳・張晋斎・鈴木百年・藤田呉江・王欽古・千原夕田・長井桂山ら、篆刻では細川林斎・中村水竹・山本竹雲・小林愛竹・濱村藏六(四代)・成瀬石癡・小曽根乾堂・山本拜石・中井敬所らがいます。
「詩の日本語」 (大岡信)
投稿日時:2014/05/09(金) 09:45
「詩の日本語」 (大岡信)(その1)
CATEGORY/その他の趣味
「詩の日本語」 大岡信 著
中央公論社 1980年 初版
中公文庫 2001年 初版
詩の日本語
1972年から1980年にかけて発表された解説、論文をまとめたものです。
それぞれが加筆されまとめられているので、流れのある本になっています。
大岡氏の言葉で表せば、いままで考え悩んだことの「決算報告」であり、16の章からなる「なぜ」を抱え込んだまままの「自問自答集」になっています。
俊成、芭蕉、子規が命をかけてきた詩歌の厳しい世界にも、挑もうとされる大岡氏の執念にも気圧されます。
詩歌の鑑賞、読み込みの深さは、もちろん尊敬しますが、それがあまりにも手の届かないところにおられることに意気阻喪しているのも正直な気持ちです。
中学生の頃、朝日新聞に連載されていた「折々の歌」は、当時どれほども分かっていなかったのでしょうが、スクラップにして繰り返し読んでいました(2年間くらいですが)。
詩歌に何かを感じていたのかもしれません。
この本であらためて、詩歌には日本人の言語観、色彩観、自然観を解く鍵があり、美術や音楽を含めた文化を最も表していることを感じさせてもらいました。
いま読み終えたばかりで、打ちのめされた衝撃も加わりちょっと熱くなっていのが分かります。
ボードレールの「アルバトロス」(1859)の日本語訳として、上田敏の「信天翁(おきのたいふ)」(1905)、三好達治の「「信天翁(あほうどり)」(1935頃)、福永武彦の「あほう鳥」(1963頃)が比較され、近代日本にあらわれた日本語の激烈な変化が示されます。
この言葉の変化・流動化こそが日本語の本質であり、日本人の言語観を次のように言われています。
言葉を堅固な構造と法則性を持ったものというのではなく、むしろ社会構造の変化につれていつのまにか変わってゆく部分を多く持った、ある種の流動性を本質とする生ものとみなし、その流行の側面に一層敏感であろうとする態度・・・・
この精神の根は、1000年の昔に遡ることができ、「うつろい」の相によってこの生をみるという態度は、民族的な特性ともいえる。
そもそも、「言葉」という言葉は、「こと」に「端」がくっついたもので、「端」によって「こと」に命が与えられると思われていたようです。
「てにをは」こそ、日本語の総体の中で最も敏感に、事や物の変容、すなわち乾坤の変の微妙な細部を写しとることのできる部分にほかならない・・・
日本語においては、「言」の「端」においてこそ、霊妙な「ことば」の命が結晶して乾坤の変化とともにうちふるえる姿が最も鮮やかに見てとられる
「乾坤」というものを「変」の姿においてとらえることをもって風雅の要諦とする思想につうじていた
古来より日本の詩歌は、「動き」や「変化」を重要な要素としていましたし、芭蕉は「てにをは」の霊妙な働きを強調していました。
男と女の恋愛や情事を表す言葉で「色恋」という言葉がありますが、王朝の頃より恋愛感情を色に例え歌が詠まれました。
「色」という言葉は、植物による染色では色を安定させるのが難しく、また望み通りの一定の色を得ることが容易でないことから、恋の難しさを表現するのにふさわしい言葉だったのでしょう。
古来日本には、色彩を表す形容詞は「白い」「黒い」「赤い」「青い」の四つしかもっていませんでした。
しかし、例えば淡紅色を表す色として、撫子、桃、桜、葵、牡丹、合歓木、蓼・・・・といくつももっています。
色の数は、事物の数と同じだけあります。
この色彩感覚は研ぎ澄まされてゆき、色に「染まる」から「染む」「しみる」という感覚をもつようになります。
風に色を見るということは、もはや視覚の領域の問題ではない。心の眼の問題である。風のなかに色をみる「心」があるのだ。・・・・・現実界の色を拒絶することによって、無色のもののなかに色を見る一種の透視的な眼を獲得しようとして、彼らは骨身をけずった。
日本の詩歌というものが、現実生活のなかのさまざまな事物を即座に色として感じとっていた物心一体の境から、しだいに個々の「事物の色」を離れ、「心の色」を積極的に定立していこうとする姿がはっきりしてくるといえるだろう。
一言でいえば、ここに日本の詩歌の反俗主義があり、一見華麗なもの優美なものを豊かにもっているとみえながら、日本の詩歌が全体として「ひえさびた」境地へとたえず磁針を合わせてきた理由も、この反俗主義の現実的あらわれとしての禁欲主義によるだろう。
色ある世界にあって、いかに色を透脱するかということに、日本の詩歌は思いをこらし、反俗の「まこと」をそこにかけてきたといってよい。
先ほどの「しみる」という感覚は、男女の間の接触によって生まれるものですが、恋愛を歌った歌を西洋のものと比較すると、その違いには改めて驚かされます。
これは、詩の成り立ちの違いとともに、人間観の違いを表しているようです。
「月や太陽さえも彼女の髪に吊るされ、その額には星が冠のようにつらなる」(セバスタツィ)といったような女性讃美の詩とは、まったく異なった世界に日本の歌人たちは生きてきました。
おびただしい数歌われた恋の歌からは、おおむね自己中心的な特徴をみられていましたが、これは意外でした。
たしかに、「ひとり寝」の侘しさを歌うのは、相手へではなく自分への優しさからですね。
日本の恋歌の動機は、相手を精神的存在としてではなく、性的な接触・離反の対象としてとらえていたところに、おおむねは発していた・・・・
肌と肌の直接的接触からの距離の多少によって、ある時には「ひとり寝」の嘆きの歌となり、別の時には「後朝(きぬぎぬ)」の嘆きの歌となり、また「ながめ」(眺め/長雨)の嘆きの歌となった。
「大和物語」は、「伊勢物語」に比べ拙劣で世俗的であるという評価がありますが、その異端性こそ自由に「物語る」精神の翼がひろげられて姿ととらえる見方も興味深かったです。
「さ月」ときたら「郭公」、「花橘」なら「昔の人」(かつての恋の思い出)、「月」なら「かなし」と繋がるのは、確かに調和的な世界といえますが、作者の際立った個性が無視された姿は、「万葉集」の作者のものとは対象的です。
貫之が「土佐日記」を仮名文字で書いたことで、「古今集」的美意識に立脚しながらも、その内側から日本詩歌史を展開していこうという自覚があったとされています。
実はこの伝統と創造の問題は、和歌の問題に留まらす、日本の文学ひいては日本の芸術の問題と重なっています。
「歌道は風月延年の飾りなれば、もつともこれを用ふべし。」
これは、世阿弥が「風姿花伝」で「風月延年(=申楽)を美ならしめているのは歌道である」という意味で述べた言葉です。
「古今和歌集」仮名序の冒頭部には、次のようにあります。
「やまとうたは、人のこころを種として、よろづの言の葉とぞなりける。
・・・・・力をもいれずして、天地(あめつち)をうがかし、目に見える鬼神をもあはれとおもはせ、男女(おとこおんあ)のなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは歌なり。
この歌、天地のひらけはじまりける時よりいできにけり。」
言葉のもつ呪力は、日本に限られたことではなく、世界中の民族にみられることでした。
それでも、「歌の徳といふものは、日本では誠に神怪不可思議なもの」(柳田国男)があるとすれば、それはどういうものなのでしょう。
これは、和歌と漢詩を比べてみると見えてきそうです。
日本語の特徴である「てにをは」に、霊妙な命が凝縮されていて、これが歌に呪術的性格をもたらしているようです。
中国の南北朝時代に、劉勰(りゅうきょう)が著した文学理論書「文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう)」(499~501年完成)がありますが、
(劉勰の認識は)、天地の心が息づけば言葉が現われ、言語が現われて文章が姿を明らかにする、といっているが、それと同時に、それ以上に重要だったのは、人間こそこの天地の中心であり、・・・・・
というものでした。
強烈な人間中心主義の思想ですが、これは自然性からの「超越」ではなく、自然との同一化、重ね合わせていこうとする日本の諸芸能とは対象的です。
中世和歌の主導的な理念あるいはその展開の姿について考えてみると、象徴主義的な性質がそこに多分に認められる
当時、中国の文化は模倣すべきものであったにも拘らず、日本の詩歌はかなり対照的な道を進んでいきます。
日本の芸術に浸透していった思想に、「幽玄」というものがあります。
美しさを測る尺度でありながら、客観的な測定を許さない不思議な言葉です。
能勢朝次氏は、「幽玄論」のなかで、
「この語は、美の性質や色彩を表現する点に特色がなくて、美の深度や高度を示す所に特色を持って居る
無限に縹緲と拡がって行く余情美、無限に深く深くと深まっていく沈潜美、・・・を示す言葉」
であると語っておられます。
この美の高さと深さは、心の深浅に応じて、対象の美は深くも浅くもなるものと考えられ、
詩人たちは、主として諸感覚の驚くべき練磨を通じ、言葉の世界における「色からの脱」、「色離れ」の中に、「幽玄」の原義である深遠、窕冥の境地をめざしたのだった。
美意識の深化、純化の問題は「古今和歌集」と「新古今和歌集」の対比がその手がかりとなりそうです。
これらの成立した時代背景は全く違っていて、それが色濃く反映されています。
世の中が乱れ、朝廷の力が衰退していく中で、無常観であれ醒めた認識者の悲しみが歌われてゆきます。
藤原定家が源実朝に贈った歌論「近代秀歌」には、「昔、貫之、歌の心巧みに、たけ及び難く、詞強く、姿おもしろきさまを好みて、余情妖艶の躰をよまず」
とあります。
「晴」的な歌風を遠ざけ、「褻(け)」的な歌風に現代的な重要性を見
優美艶麗さにおいてさえ常に正面向いてみえを切っているような歌は、もはやわれわれのものではない
こうして、日本の詩歌は「優艶美から冷厳美への質的な転換」を遂げてゆきます。
そしてそこにもうひとつ、日本の詩歌、日本の文学全体に深く影響を及ぼしたものがあります。
「歌合せ」です。
後鳥羽院は、自身の回想録「御口伝」に、歌合せの判定をする定家の折り合いの悪さや執着心の強さにあきれたと書きとどめています。
この歌への執念こそ彼の秀歌の源泉でしたし、集団での制作という手法は、「連歌」「俳諧」にも受け継がれた日本の文芸の主流を占めていたものでした。
「制作」と「批判」の密接に関わりについて、大岡氏はかなり厳しいことを書かれています。
これは、くりかえすが、単なる古い時代の詩歌の話ではない。私の念頭には、現代文学、現代詩歌における実作と批評の問題が、二重映しのものとして浮んでいる。
今日、上等な小説や詩歌の作者が、同時に上等な批評家であるということは比較的に困難なことに属している。
単に知的な怠け者にすぎないという資格において「実作者」であるにすぎない実作者までが、自作の批評もろくに出来ないくせに、批評という精神の動き一般を軽んじてとくとくとしているという喜劇的な事態が、ひろく一般化している。こういう現象は、歴史を振返ってみれば、まだ百年にも満たない最近の現象であって、明治時代という近代においても、そういうことはまだ到底生じてはいなかった。
日本の詩歌が「集団制作」とそれと重複する「批判」によって、鍛え上げられてきたわけですが、和歌、俳諧、近代詩という流れだけでない、もっと様々な流れがありました。
(長くなりましたので、ちょっと休憩、続きは明日に)
「詩の日本語」 (大岡信)(その2)
CATEGORY/その他の趣味
昨日の続きです。
私たちが日本の詩歌というとき、和歌、俳諧、近代詩という道筋で考えることは、限定的な見方であるというところからはじめます。
大河「平清盛」でも毎回流れていた「遊びをせむと~」の「梁塵秘抄」など歌謡は、近代までほとんど触れられることがありませんでした。
残念なことに私たちの目にすることのできる「梁塵秘抄」は、原本のうちの1割程度であるということからも、その不当な扱いが想像されます。
実はこの「梁塵秘抄」を、北原白秋、斎藤茂吉、佐藤春夫、芥川龍之介らが興味らが興味をそそられ読み込んでいたというのは面白い話でした。
岡倉天心も大の愛好家で、多くの俗謡をのこしています。
谷中(やなか)、うぐいす、初音(はつね)の血に染む紅梅花、堂々男子は死んでもよい。
奇骨侠骨、開落栄枯は何のため、堂々男子は死んでもよい。
これは、東京谷中の初音町に東京美術院が開設された時の歌で、(3・4)(4.3)(3.4)(5) 都都逸の形式を踏んでいます。
和讃というものがあります。
大和言葉で、仏や菩薩の徳を讃嘆し、仏教の教理を歌謡の形でわかりやすく展開した歌で、七五調で句を重ねてゆき、4句をひと塊をなします。
一遍の「百利口語」のように192句を重ねた長編もあります。
ここには、現実世界の枠組みをやすやすと超え、非現実的な世界に張り出していく場があるといわれます。
このような場は、われわれが「詩」と呼んでいるものが生きて働く場として、最も密度の濃い場の、少なくとも一つである
おそらく現代の詩人宮沢賢治も、このような場に自由に出没する呼吸を心得ていた人だったろう
この和讃に関し、興味深い発見をされています。
同じ七五調でも短歌が太い線のような印象を受けるのに対し、和讃は軽快に繋がっていく面のような印象だと説明されています。
この違いを、壁画と絵巻の違い、唐絵と大和絵の違いと言われていました。
絵巻についてそれほど考えたことはありませんでしたが、45度の角度から俯瞰し、屋根・天井を取り払う「吹抜屋台」の描法をとりいれることと合わせて、次々と展開する進行形の物語は実にユニークなものだし、「うつろい」に美を見出す日本人の感性に合ったものだったのですね。
「古今集」「伊勢物語」の成立、仮名の発明、これらと同時に生まれた大和絵は、文学的、物語的人間を描くことに関心をはらい、大きな影響を受けたはずの中国の山水画や故実を描くことに興味を示さなかったという指摘もおもしろいです。
日本の絵は、人間の生活する場を尺度として森羅万象を見ようとする態度を、実に鮮明にかかげた。
人間が画面構成の中心になる以上、鑑賞者にとっては、近接し位置でしげしげと見入ることのできる絵が好ましいことはいうまではない。
こうして、天地が狭く横に延びてゆく絵巻の形式は、一見窮屈な形態的制約ゆえに、かえって自由奔放に、人間界の物語を語ってゆくことができた。
話を戻しますが、和讃はその口調の軽快さが弱点になりました。
明治30年代、日露戦争前後という時代背景がありましたが、詩人たちはこの七五調を使って、史詩、譚詩、劇詩の試みに熱中します。
与謝野鉄幹、蒲原有明、岩野泡鳴、伊良子清白、坪内逍遥、森鴎外らです。
明治36~37年に、この叙事詩の波は一気にひき、抒情詩の圧倒的優勢の時代に入っていきます。
ここで、長い歴史をもった和讃は詩歌としての終局を迎えます。
そうして日本の詩歌は「言文一致」の問題にとりくんでゆきますが、これは話し言葉と書き言葉という問題以上に、深いものがありました。
先蹤を離れ、詩歌というものをもっと直接に自分たちの若い心に近づけようとした藤村の詩にも、王朝和歌の余韻が認められる。
感情をその通念的様相の奥にまで分け入って、独自な様態において把握しようとしたのは、藤村ではなくて、彼に続く蒲原有明だった。その意味で、厳密には、日本の近代詩は、有明においてはじめて新しい時代の新しい詩の姿をとるに至ったといえるかもしれない。しかし、皮肉にも、それと同時に早くも近代詩の孤立化の道も始まったというのが、実情であった。
言文一致を「実情をありのままに描写」することと捉えるのなら、江戸時代後期の狂歌のなかにも、その精神は見出せます。
銅脈先生の「豆腐」「蕎麦」、大田南畝の「屁臭い」「野雪隠に至りて」などはあまりのリアルさに思わず噴出してしまいそうな作品です。
幸田露伴は、言文一致について「続芭蕉俳句研究(共著)」(大正11年)で書かれていたのは、
古歌古詩を十分に踏まえて、その上に立っておのれ自身を自由に表現してゆくとき、たとえ用いる言葉は言文一致でなくとも、精神はまさに言文一致の精神なのだということがいえる。
ということであり、
「言」と「文」が形式的に一致していたところで、根本の精神に創造的活力が欠けているなら、要するにそこには何もありはしないのだ
ということです。
最初に問題とすべきは「真」ということだった。
子規は、言文一致を完成させたといわれていますが、 初めのうちは、懸詞こそ排したけれど、枕詞は晩年にいたってむしろ多く愛用していて、彼の長歌の独特な味わいは、枕詞の巧みさによる点が多いといわれています。
彼は語の新旧、雅俗にはとらわれず、必要なら古語でも雅語でも俗語でも自由に用いようとしました。
衰えを自覚し、死の予感を感じた子規の晩年の歌は、幸田露伴の「言葉のやすらかなるは極めてよし、言葉の確(しか)と実際に協(かな)ひたるは、ひときはよきなり」(~「雲のいろいろ」明治30年)の言葉によって説明されていたように思います。
身近なものすべてへのかぎりないいとおしみ、惜別の情で溢れています。
藤の歌十首の詞書には、
艶にもうつくしきかなとひとりごちつゝそゞろに物語の昔などしぬばるゝにつけてあやしくも歌心なん催されける。
そして、山吹きの花十首の終わりには、
吾は只歌のやすやすと口に乗りくるがうれしくて
とあります。
明治34年の子規の歌の透明な気品は、創造的精神がなしうる戦いの限界にいどみつづけてきた子規に対して贈られた、天のたまものといった感じさえある。
何よりも心うたれるのは、これらの歌で、子規が草花のひとつひとつを、明日はこの世にいなくなる人の眼で見、愛惜していることである。それは、いわば花のひとつひとつのために碑銘をきざんでやる行為に似ていた。そしてそれは、子規自身の、なお生きてこの世に活動している精神の、最も充実した頂点の姿を、一瞬一瞬において永遠に刻みつけることでもあった。
このときの子規の歌は、詠まれている花とともに言葉が呼吸をしています。
言文一致とは、精神の自由が獲得できたかどうか、なんですね。
それにしても、大岡氏の詩歌の読み込む力には驚かされます。
知識が前提であることは間違いありませんが、やはり最後は感性でしょうか。
俊成、芭蕉、子規らの生き方をみて、「何がそこまで彼らをかきたてるのか」と疑問をもちつつも、彼らの生き方に憧れる気持ちがあります。
そういえば、西行については全く触れられていませんでした。
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「詩の日本語」 大岡信 著
中央公論社 1980年 初版
中公文庫 2001年 初版
詩の日本語
1972年から1980年にかけて発表された解説、論文をまとめたものです。
それぞれが加筆されまとめられているので、流れのある本になっています。
大岡氏の言葉で表せば、いままで考え悩んだことの「決算報告」であり、16の章からなる「なぜ」を抱え込んだまままの「自問自答集」になっています。
俊成、芭蕉、子規が命をかけてきた詩歌の厳しい世界にも、挑もうとされる大岡氏の執念にも気圧されます。
詩歌の鑑賞、読み込みの深さは、もちろん尊敬しますが、それがあまりにも手の届かないところにおられることに意気阻喪しているのも正直な気持ちです。
中学生の頃、朝日新聞に連載されていた「折々の歌」は、当時どれほども分かっていなかったのでしょうが、スクラップにして繰り返し読んでいました(2年間くらいですが)。
詩歌に何かを感じていたのかもしれません。
この本であらためて、詩歌には日本人の言語観、色彩観、自然観を解く鍵があり、美術や音楽を含めた文化を最も表していることを感じさせてもらいました。
いま読み終えたばかりで、打ちのめされた衝撃も加わりちょっと熱くなっていのが分かります。
ボードレールの「アルバトロス」(1859)の日本語訳として、上田敏の「信天翁(おきのたいふ)」(1905)、三好達治の「「信天翁(あほうどり)」(1935頃)、福永武彦の「あほう鳥」(1963頃)が比較され、近代日本にあらわれた日本語の激烈な変化が示されます。
この言葉の変化・流動化こそが日本語の本質であり、日本人の言語観を次のように言われています。
言葉を堅固な構造と法則性を持ったものというのではなく、むしろ社会構造の変化につれていつのまにか変わってゆく部分を多く持った、ある種の流動性を本質とする生ものとみなし、その流行の側面に一層敏感であろうとする態度・・・・
この精神の根は、1000年の昔に遡ることができ、「うつろい」の相によってこの生をみるという態度は、民族的な特性ともいえる。
そもそも、「言葉」という言葉は、「こと」に「端」がくっついたもので、「端」によって「こと」に命が与えられると思われていたようです。
「てにをは」こそ、日本語の総体の中で最も敏感に、事や物の変容、すなわち乾坤の変の微妙な細部を写しとることのできる部分にほかならない・・・
日本語においては、「言」の「端」においてこそ、霊妙な「ことば」の命が結晶して乾坤の変化とともにうちふるえる姿が最も鮮やかに見てとられる
「乾坤」というものを「変」の姿においてとらえることをもって風雅の要諦とする思想につうじていた
古来より日本の詩歌は、「動き」や「変化」を重要な要素としていましたし、芭蕉は「てにをは」の霊妙な働きを強調していました。
男と女の恋愛や情事を表す言葉で「色恋」という言葉がありますが、王朝の頃より恋愛感情を色に例え歌が詠まれました。
「色」という言葉は、植物による染色では色を安定させるのが難しく、また望み通りの一定の色を得ることが容易でないことから、恋の難しさを表現するのにふさわしい言葉だったのでしょう。
古来日本には、色彩を表す形容詞は「白い」「黒い」「赤い」「青い」の四つしかもっていませんでした。
しかし、例えば淡紅色を表す色として、撫子、桃、桜、葵、牡丹、合歓木、蓼・・・・といくつももっています。
色の数は、事物の数と同じだけあります。
この色彩感覚は研ぎ澄まされてゆき、色に「染まる」から「染む」「しみる」という感覚をもつようになります。
風に色を見るということは、もはや視覚の領域の問題ではない。心の眼の問題である。風のなかに色をみる「心」があるのだ。・・・・・現実界の色を拒絶することによって、無色のもののなかに色を見る一種の透視的な眼を獲得しようとして、彼らは骨身をけずった。
日本の詩歌というものが、現実生活のなかのさまざまな事物を即座に色として感じとっていた物心一体の境から、しだいに個々の「事物の色」を離れ、「心の色」を積極的に定立していこうとする姿がはっきりしてくるといえるだろう。
一言でいえば、ここに日本の詩歌の反俗主義があり、一見華麗なもの優美なものを豊かにもっているとみえながら、日本の詩歌が全体として「ひえさびた」境地へとたえず磁針を合わせてきた理由も、この反俗主義の現実的あらわれとしての禁欲主義によるだろう。
色ある世界にあって、いかに色を透脱するかということに、日本の詩歌は思いをこらし、反俗の「まこと」をそこにかけてきたといってよい。
先ほどの「しみる」という感覚は、男女の間の接触によって生まれるものですが、恋愛を歌った歌を西洋のものと比較すると、その違いには改めて驚かされます。
これは、詩の成り立ちの違いとともに、人間観の違いを表しているようです。
「月や太陽さえも彼女の髪に吊るされ、その額には星が冠のようにつらなる」(セバスタツィ)といったような女性讃美の詩とは、まったく異なった世界に日本の歌人たちは生きてきました。
おびただしい数歌われた恋の歌からは、おおむね自己中心的な特徴をみられていましたが、これは意外でした。
たしかに、「ひとり寝」の侘しさを歌うのは、相手へではなく自分への優しさからですね。
日本の恋歌の動機は、相手を精神的存在としてではなく、性的な接触・離反の対象としてとらえていたところに、おおむねは発していた・・・・
肌と肌の直接的接触からの距離の多少によって、ある時には「ひとり寝」の嘆きの歌となり、別の時には「後朝(きぬぎぬ)」の嘆きの歌となり、また「ながめ」(眺め/長雨)の嘆きの歌となった。
「大和物語」は、「伊勢物語」に比べ拙劣で世俗的であるという評価がありますが、その異端性こそ自由に「物語る」精神の翼がひろげられて姿ととらえる見方も興味深かったです。
「さ月」ときたら「郭公」、「花橘」なら「昔の人」(かつての恋の思い出)、「月」なら「かなし」と繋がるのは、確かに調和的な世界といえますが、作者の際立った個性が無視された姿は、「万葉集」の作者のものとは対象的です。
貫之が「土佐日記」を仮名文字で書いたことで、「古今集」的美意識に立脚しながらも、その内側から日本詩歌史を展開していこうという自覚があったとされています。
実はこの伝統と創造の問題は、和歌の問題に留まらす、日本の文学ひいては日本の芸術の問題と重なっています。
「歌道は風月延年の飾りなれば、もつともこれを用ふべし。」
これは、世阿弥が「風姿花伝」で「風月延年(=申楽)を美ならしめているのは歌道である」という意味で述べた言葉です。
「古今和歌集」仮名序の冒頭部には、次のようにあります。
「やまとうたは、人のこころを種として、よろづの言の葉とぞなりける。
・・・・・力をもいれずして、天地(あめつち)をうがかし、目に見える鬼神をもあはれとおもはせ、男女(おとこおんあ)のなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは歌なり。
この歌、天地のひらけはじまりける時よりいできにけり。」
言葉のもつ呪力は、日本に限られたことではなく、世界中の民族にみられることでした。
それでも、「歌の徳といふものは、日本では誠に神怪不可思議なもの」(柳田国男)があるとすれば、それはどういうものなのでしょう。
これは、和歌と漢詩を比べてみると見えてきそうです。
日本語の特徴である「てにをは」に、霊妙な命が凝縮されていて、これが歌に呪術的性格をもたらしているようです。
中国の南北朝時代に、劉勰(りゅうきょう)が著した文学理論書「文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう)」(499~501年完成)がありますが、
(劉勰の認識は)、天地の心が息づけば言葉が現われ、言語が現われて文章が姿を明らかにする、といっているが、それと同時に、それ以上に重要だったのは、人間こそこの天地の中心であり、・・・・・
というものでした。
強烈な人間中心主義の思想ですが、これは自然性からの「超越」ではなく、自然との同一化、重ね合わせていこうとする日本の諸芸能とは対象的です。
中世和歌の主導的な理念あるいはその展開の姿について考えてみると、象徴主義的な性質がそこに多分に認められる
当時、中国の文化は模倣すべきものであったにも拘らず、日本の詩歌はかなり対照的な道を進んでいきます。
日本の芸術に浸透していった思想に、「幽玄」というものがあります。
美しさを測る尺度でありながら、客観的な測定を許さない不思議な言葉です。
能勢朝次氏は、「幽玄論」のなかで、
「この語は、美の性質や色彩を表現する点に特色がなくて、美の深度や高度を示す所に特色を持って居る
無限に縹緲と拡がって行く余情美、無限に深く深くと深まっていく沈潜美、・・・を示す言葉」
であると語っておられます。
この美の高さと深さは、心の深浅に応じて、対象の美は深くも浅くもなるものと考えられ、
詩人たちは、主として諸感覚の驚くべき練磨を通じ、言葉の世界における「色からの脱」、「色離れ」の中に、「幽玄」の原義である深遠、窕冥の境地をめざしたのだった。
美意識の深化、純化の問題は「古今和歌集」と「新古今和歌集」の対比がその手がかりとなりそうです。
これらの成立した時代背景は全く違っていて、それが色濃く反映されています。
世の中が乱れ、朝廷の力が衰退していく中で、無常観であれ醒めた認識者の悲しみが歌われてゆきます。
藤原定家が源実朝に贈った歌論「近代秀歌」には、「昔、貫之、歌の心巧みに、たけ及び難く、詞強く、姿おもしろきさまを好みて、余情妖艶の躰をよまず」
とあります。
「晴」的な歌風を遠ざけ、「褻(け)」的な歌風に現代的な重要性を見
優美艶麗さにおいてさえ常に正面向いてみえを切っているような歌は、もはやわれわれのものではない
こうして、日本の詩歌は「優艶美から冷厳美への質的な転換」を遂げてゆきます。
そしてそこにもうひとつ、日本の詩歌、日本の文学全体に深く影響を及ぼしたものがあります。
「歌合せ」です。
後鳥羽院は、自身の回想録「御口伝」に、歌合せの判定をする定家の折り合いの悪さや執着心の強さにあきれたと書きとどめています。
この歌への執念こそ彼の秀歌の源泉でしたし、集団での制作という手法は、「連歌」「俳諧」にも受け継がれた日本の文芸の主流を占めていたものでした。
「制作」と「批判」の密接に関わりについて、大岡氏はかなり厳しいことを書かれています。
これは、くりかえすが、単なる古い時代の詩歌の話ではない。私の念頭には、現代文学、現代詩歌における実作と批評の問題が、二重映しのものとして浮んでいる。
今日、上等な小説や詩歌の作者が、同時に上等な批評家であるということは比較的に困難なことに属している。
単に知的な怠け者にすぎないという資格において「実作者」であるにすぎない実作者までが、自作の批評もろくに出来ないくせに、批評という精神の動き一般を軽んじてとくとくとしているという喜劇的な事態が、ひろく一般化している。こういう現象は、歴史を振返ってみれば、まだ百年にも満たない最近の現象であって、明治時代という近代においても、そういうことはまだ到底生じてはいなかった。
日本の詩歌が「集団制作」とそれと重複する「批判」によって、鍛え上げられてきたわけですが、和歌、俳諧、近代詩という流れだけでない、もっと様々な流れがありました。
(長くなりましたので、ちょっと休憩、続きは明日に)
「詩の日本語」 (大岡信)(その2)
CATEGORY/その他の趣味
昨日の続きです。
私たちが日本の詩歌というとき、和歌、俳諧、近代詩という道筋で考えることは、限定的な見方であるというところからはじめます。
大河「平清盛」でも毎回流れていた「遊びをせむと~」の「梁塵秘抄」など歌謡は、近代までほとんど触れられることがありませんでした。
残念なことに私たちの目にすることのできる「梁塵秘抄」は、原本のうちの1割程度であるということからも、その不当な扱いが想像されます。
実はこの「梁塵秘抄」を、北原白秋、斎藤茂吉、佐藤春夫、芥川龍之介らが興味らが興味をそそられ読み込んでいたというのは面白い話でした。
岡倉天心も大の愛好家で、多くの俗謡をのこしています。
谷中(やなか)、うぐいす、初音(はつね)の血に染む紅梅花、堂々男子は死んでもよい。
奇骨侠骨、開落栄枯は何のため、堂々男子は死んでもよい。
これは、東京谷中の初音町に東京美術院が開設された時の歌で、(3・4)(4.3)(3.4)(5) 都都逸の形式を踏んでいます。
和讃というものがあります。
大和言葉で、仏や菩薩の徳を讃嘆し、仏教の教理を歌謡の形でわかりやすく展開した歌で、七五調で句を重ねてゆき、4句をひと塊をなします。
一遍の「百利口語」のように192句を重ねた長編もあります。
ここには、現実世界の枠組みをやすやすと超え、非現実的な世界に張り出していく場があるといわれます。
このような場は、われわれが「詩」と呼んでいるものが生きて働く場として、最も密度の濃い場の、少なくとも一つである
おそらく現代の詩人宮沢賢治も、このような場に自由に出没する呼吸を心得ていた人だったろう
この和讃に関し、興味深い発見をされています。
同じ七五調でも短歌が太い線のような印象を受けるのに対し、和讃は軽快に繋がっていく面のような印象だと説明されています。
この違いを、壁画と絵巻の違い、唐絵と大和絵の違いと言われていました。
絵巻についてそれほど考えたことはありませんでしたが、45度の角度から俯瞰し、屋根・天井を取り払う「吹抜屋台」の描法をとりいれることと合わせて、次々と展開する進行形の物語は実にユニークなものだし、「うつろい」に美を見出す日本人の感性に合ったものだったのですね。
「古今集」「伊勢物語」の成立、仮名の発明、これらと同時に生まれた大和絵は、文学的、物語的人間を描くことに関心をはらい、大きな影響を受けたはずの中国の山水画や故実を描くことに興味を示さなかったという指摘もおもしろいです。
日本の絵は、人間の生活する場を尺度として森羅万象を見ようとする態度を、実に鮮明にかかげた。
人間が画面構成の中心になる以上、鑑賞者にとっては、近接し位置でしげしげと見入ることのできる絵が好ましいことはいうまではない。
こうして、天地が狭く横に延びてゆく絵巻の形式は、一見窮屈な形態的制約ゆえに、かえって自由奔放に、人間界の物語を語ってゆくことができた。
話を戻しますが、和讃はその口調の軽快さが弱点になりました。
明治30年代、日露戦争前後という時代背景がありましたが、詩人たちはこの七五調を使って、史詩、譚詩、劇詩の試みに熱中します。
与謝野鉄幹、蒲原有明、岩野泡鳴、伊良子清白、坪内逍遥、森鴎外らです。
明治36~37年に、この叙事詩の波は一気にひき、抒情詩の圧倒的優勢の時代に入っていきます。
ここで、長い歴史をもった和讃は詩歌としての終局を迎えます。
そうして日本の詩歌は「言文一致」の問題にとりくんでゆきますが、これは話し言葉と書き言葉という問題以上に、深いものがありました。
先蹤を離れ、詩歌というものをもっと直接に自分たちの若い心に近づけようとした藤村の詩にも、王朝和歌の余韻が認められる。
感情をその通念的様相の奥にまで分け入って、独自な様態において把握しようとしたのは、藤村ではなくて、彼に続く蒲原有明だった。その意味で、厳密には、日本の近代詩は、有明においてはじめて新しい時代の新しい詩の姿をとるに至ったといえるかもしれない。しかし、皮肉にも、それと同時に早くも近代詩の孤立化の道も始まったというのが、実情であった。
言文一致を「実情をありのままに描写」することと捉えるのなら、江戸時代後期の狂歌のなかにも、その精神は見出せます。
銅脈先生の「豆腐」「蕎麦」、大田南畝の「屁臭い」「野雪隠に至りて」などはあまりのリアルさに思わず噴出してしまいそうな作品です。
幸田露伴は、言文一致について「続芭蕉俳句研究(共著)」(大正11年)で書かれていたのは、
古歌古詩を十分に踏まえて、その上に立っておのれ自身を自由に表現してゆくとき、たとえ用いる言葉は言文一致でなくとも、精神はまさに言文一致の精神なのだということがいえる。
ということであり、
「言」と「文」が形式的に一致していたところで、根本の精神に創造的活力が欠けているなら、要するにそこには何もありはしないのだ
ということです。
最初に問題とすべきは「真」ということだった。
子規は、言文一致を完成させたといわれていますが、 初めのうちは、懸詞こそ排したけれど、枕詞は晩年にいたってむしろ多く愛用していて、彼の長歌の独特な味わいは、枕詞の巧みさによる点が多いといわれています。
彼は語の新旧、雅俗にはとらわれず、必要なら古語でも雅語でも俗語でも自由に用いようとしました。
衰えを自覚し、死の予感を感じた子規の晩年の歌は、幸田露伴の「言葉のやすらかなるは極めてよし、言葉の確(しか)と実際に協(かな)ひたるは、ひときはよきなり」(~「雲のいろいろ」明治30年)の言葉によって説明されていたように思います。
身近なものすべてへのかぎりないいとおしみ、惜別の情で溢れています。
藤の歌十首の詞書には、
艶にもうつくしきかなとひとりごちつゝそゞろに物語の昔などしぬばるゝにつけてあやしくも歌心なん催されける。
そして、山吹きの花十首の終わりには、
吾は只歌のやすやすと口に乗りくるがうれしくて
とあります。
明治34年の子規の歌の透明な気品は、創造的精神がなしうる戦いの限界にいどみつづけてきた子規に対して贈られた、天のたまものといった感じさえある。
何よりも心うたれるのは、これらの歌で、子規が草花のひとつひとつを、明日はこの世にいなくなる人の眼で見、愛惜していることである。それは、いわば花のひとつひとつのために碑銘をきざんでやる行為に似ていた。そしてそれは、子規自身の、なお生きてこの世に活動している精神の、最も充実した頂点の姿を、一瞬一瞬において永遠に刻みつけることでもあった。
このときの子規の歌は、詠まれている花とともに言葉が呼吸をしています。
言文一致とは、精神の自由が獲得できたかどうか、なんですね。
それにしても、大岡氏の詩歌の読み込む力には驚かされます。
知識が前提であることは間違いありませんが、やはり最後は感性でしょうか。
俊成、芭蕉、子規らの生き方をみて、「何がそこまで彼らをかきたてるのか」と疑問をもちつつも、彼らの生き方に憧れる気持ちがあります。
そういえば、西行については全く触れられていませんでした。
日本における中国白話小説の受容
投稿日時:2014/05/09(金) 09:34
日本における中国白話小説の受容
日本に影響した中国文学といえば、「敦煌変文」がその起源と言われる「白話小説」が思い当たる。白話小説とは、いわゆる中国通俗文学のこと。「三国演義」、「水滸伝」、「西遊記」、「金瓶梅」など、有名なものは全てこのジャンルに属する。(管理人はこれらの作品が全て好きvvV)このページでは、日本文学への“白話小説”の影響を取り上げてみようと思う。
白話小説が日本でも読まれるようになるのは、江戸時代中期ごろだ。そこで、まずは中国思想と江戸時代の日本思想の関係を、“古文辞学派”の始祖である荻生徂徠にまで遡って見てみることにしよう。
荻生徂徠は、性即理(格物窮理)の朱子学を“内面の心理はおろか現実さえ包括できないものだ”と批判して、彼独自の実際的道徳論と経世論を説いた。そこでは、思想の規範を朱子学のように道徳・性理には求めずに、古代の聖人たちが陶冶した礼楽刑政を規範とし(とりわけ論語の影響を強く受ける)、これを「道」とよんだ。この「道」を押し出す徂徠の擬古主義的な見方が、江戸文学に「義理人情」を追いかけさせることになったのである。聖人の道とは人情に適ったものと解釈されたからだ。“聖人の人情”というのは、甚だ理解しにくいもののようだが(中国的であって、半ば日本的なのだ)、これは当時の見方からすれば、唐詩に表現されているような、不遇の自己を越えて高い格調でもって世界を表現し続けるような、そんな立場を指していたのだろう。 ところが、不遇の自己を越えて格調に走るという立場とはいささか違って、そうした自分をつくった社会を憤激し、風刺する立場というものも有り得たのである。これが京儒や上方の文人たちにしばしば典型した「狂者の意識」というもので(上田秋成も晩年の自分を「狂蕩」とよぶ)、この反徂徠学ともいうべき動向が陽明学をとりこみ、特に当時の文人たちを『水滸伝』などに流れる反逆の思想に傾倒させた。ここにおいて江戸文芸は、徂徠の思想よりも上方ふうの狂文狂詩を巧みに獲得する方へと流れていった。そして、銅脈先生こと畠中観斎や寝惚先生こと太田南畝を、さらには来山人こと平賀源内などを輩出することになった。これが“穿ち”の登場である。そうして“穿ち”はやがて「通」になっていく。
さてこの時期、こちらもやはり荻生徂徠を源流として、中国の白話小説が日本に流れこんできた。荻生徂徠の学派は「論語の教えを直に知るべし」ということで中国語習得を推奨した為、知識人の間で唐和学が盛んになる。知識人たちによる唐話学の学習は、その教科書として使用された白話小説を流行らせることになるのだ。当時の書籍目録「新増書籍目録」を見てみると、1764年(宝暦4年)初出の“小説”というジャンルが白話文学に相当するわけだが、ここでは白話文学が漢文で書かれているという理由から、いわゆる「真面目な本」の系統に分類されているのが興味深い。そして、この漢文の白話は、日本に無いストーリーの面白さを買われて、読本として和語に翻訳翻案(=日本を舞台に作り変えること)されるようになる。まず、長崎の唐通詞・岡島冠山(=荻生徂徠の師匠)や岡白駒らが出て白話小説の翻訳・翻案を試み、『水滸伝』の新解釈を生む。それまでは反権力的な部分が切り捨てられて紹介されていた『水滸伝』は、日本に入ってきた李卓吾の解釈に随った新しい翻案のスタイルに切り替えられたのだ。そしてその形式は建部綾足の『本朝水滸伝』において結実した。そして建部綾足は次いで『西山物語』を発表した。この手法を継承した者に、かの上田秋成がいる。 上田秋成は享保期の大坂に生まれた。代表作『雨月物語』の裏には、『水滸伝』があると言われている。このことには都賀庭鐘(つがていしょう)なる人物の影響が濃い。都賀庭鐘は医術に明るい大坂の人で、その一方で中国語も堪能であり、白話小説の翻案を20~30篇も書いたという。また彼は『英草紙』『繁野話』という読本の先駆的作品を書いた文章家でもあった。『英草紙』は“奇談”というジャンルをベースに据えて白話小説の翻案をミックスした作品で、“茶話+志”という精神圏をも意識した視点で新文体の創造を試みた。『英草紙』の内容の方を少し紹介しておくとしよう。第一話は「後醍醐の帝三たび藤房の諫めを折く話」といい、これは白話小説集『警世通言』所収の「王安石三難蘇学士」の翻案である。翻案の方法としては、時代を『太平記』の世界へと置き換えてある。人物は荊公を後醍醐天皇に、そして蘇東坡を万里小路藤房に置き換えてある。結末部分は、原話においては王安石の博識ぶりを賞賛する印象が強いが、都賀のほうはむしろ才知に驕る天皇像が批判的に描かれている。将軍綱吉を風刺しているという説もあるくらいだ。隠遁する藤房=隠逸思想こそが都賀の歴史観であると見てよいだろう。このような歴史上の人物に評価を語らせるという姿勢は、のちの上田秋成や読本へと引き継がれることになる。
さて、都賀庭鐘に次いで建部綾足が『西山物語』を発表する。彼の作品に上田秋成は大いにインスパイヤされたという。こうして秋成は、中国の白話小説を片っ端から渉猟したという。『雨月物語』という作品は、その趣向を巧みに日本の舞台に移したものだが、むろん単に換骨奪胎をしたわけではない。都賀などの作品に残存していた談義本臭さ(=教訓を平易に説く)を完全に消し去り、“循環する物語”という形式をその文章構成において実現しているのだ。 しかし、最後に注意しておきたいのは、中国白話小説から日本の“読本”というジャンルが生まれたのではないということだ。日本の文学に“読本”というジャンルの流れがもとからあり、その中に白話小説に大いに影響を受けた作品が出現した、ということなのだ。
以上が、今回調べたことである。江戸時代にこんなにも中国通俗文学がブームになっていたとは、あまり知らなかった。このように調べてみて、日本文学への白話小説の影響の大きいことには驚いた。
<参考文献>
◆「新日本古典文学全集巻78」(小学館、1995年)
英草紙 / [都賀庭鐘著] ; 中村幸彦校注・訳
西山物語 / [建部綾足著] ; 高田衛校注・訳
雨月物語 / [上田秋成著] ; 高田衛校注・訳
春雨物語 / [上田秋成著] ; 中村博保校注・訳
◆「日本思想体系36―荻生徂徠―」吉川幸次郎著(岩波書店、1973年)
◆「日本古典文学大系94―近世文学論集」(岩波書店、1966年)
徂徠先生答問書(抄) / [荻生徂徠著] ; 中村幸彦校・注
◆「明和九年刊書籍目録所載「奇談」書の研究 」 飯倉洋一ほか著
(大阪大学文学部研究課、2002年)
「西遊記とかが好きだから…」って理由で、ここまで調べちゃいました♪こんな面白くも無い論文を最後まで読んでくださった方なんて、果たして何人いなさるのでしょうか??とりあえず、有り難う御座いました♪
日本に影響した中国文学といえば、「敦煌変文」がその起源と言われる「白話小説」が思い当たる。白話小説とは、いわゆる中国通俗文学のこと。「三国演義」、「水滸伝」、「西遊記」、「金瓶梅」など、有名なものは全てこのジャンルに属する。(管理人はこれらの作品が全て好きvvV)このページでは、日本文学への“白話小説”の影響を取り上げてみようと思う。
白話小説が日本でも読まれるようになるのは、江戸時代中期ごろだ。そこで、まずは中国思想と江戸時代の日本思想の関係を、“古文辞学派”の始祖である荻生徂徠にまで遡って見てみることにしよう。
荻生徂徠は、性即理(格物窮理)の朱子学を“内面の心理はおろか現実さえ包括できないものだ”と批判して、彼独自の実際的道徳論と経世論を説いた。そこでは、思想の規範を朱子学のように道徳・性理には求めずに、古代の聖人たちが陶冶した礼楽刑政を規範とし(とりわけ論語の影響を強く受ける)、これを「道」とよんだ。この「道」を押し出す徂徠の擬古主義的な見方が、江戸文学に「義理人情」を追いかけさせることになったのである。聖人の道とは人情に適ったものと解釈されたからだ。“聖人の人情”というのは、甚だ理解しにくいもののようだが(中国的であって、半ば日本的なのだ)、これは当時の見方からすれば、唐詩に表現されているような、不遇の自己を越えて高い格調でもって世界を表現し続けるような、そんな立場を指していたのだろう。 ところが、不遇の自己を越えて格調に走るという立場とはいささか違って、そうした自分をつくった社会を憤激し、風刺する立場というものも有り得たのである。これが京儒や上方の文人たちにしばしば典型した「狂者の意識」というもので(上田秋成も晩年の自分を「狂蕩」とよぶ)、この反徂徠学ともいうべき動向が陽明学をとりこみ、特に当時の文人たちを『水滸伝』などに流れる反逆の思想に傾倒させた。ここにおいて江戸文芸は、徂徠の思想よりも上方ふうの狂文狂詩を巧みに獲得する方へと流れていった。そして、銅脈先生こと畠中観斎や寝惚先生こと太田南畝を、さらには来山人こと平賀源内などを輩出することになった。これが“穿ち”の登場である。そうして“穿ち”はやがて「通」になっていく。
さてこの時期、こちらもやはり荻生徂徠を源流として、中国の白話小説が日本に流れこんできた。荻生徂徠の学派は「論語の教えを直に知るべし」ということで中国語習得を推奨した為、知識人の間で唐和学が盛んになる。知識人たちによる唐話学の学習は、その教科書として使用された白話小説を流行らせることになるのだ。当時の書籍目録「新増書籍目録」を見てみると、1764年(宝暦4年)初出の“小説”というジャンルが白話文学に相当するわけだが、ここでは白話文学が漢文で書かれているという理由から、いわゆる「真面目な本」の系統に分類されているのが興味深い。そして、この漢文の白話は、日本に無いストーリーの面白さを買われて、読本として和語に翻訳翻案(=日本を舞台に作り変えること)されるようになる。まず、長崎の唐通詞・岡島冠山(=荻生徂徠の師匠)や岡白駒らが出て白話小説の翻訳・翻案を試み、『水滸伝』の新解釈を生む。それまでは反権力的な部分が切り捨てられて紹介されていた『水滸伝』は、日本に入ってきた李卓吾の解釈に随った新しい翻案のスタイルに切り替えられたのだ。そしてその形式は建部綾足の『本朝水滸伝』において結実した。そして建部綾足は次いで『西山物語』を発表した。この手法を継承した者に、かの上田秋成がいる。 上田秋成は享保期の大坂に生まれた。代表作『雨月物語』の裏には、『水滸伝』があると言われている。このことには都賀庭鐘(つがていしょう)なる人物の影響が濃い。都賀庭鐘は医術に明るい大坂の人で、その一方で中国語も堪能であり、白話小説の翻案を20~30篇も書いたという。また彼は『英草紙』『繁野話』という読本の先駆的作品を書いた文章家でもあった。『英草紙』は“奇談”というジャンルをベースに据えて白話小説の翻案をミックスした作品で、“茶話+志”という精神圏をも意識した視点で新文体の創造を試みた。『英草紙』の内容の方を少し紹介しておくとしよう。第一話は「後醍醐の帝三たび藤房の諫めを折く話」といい、これは白話小説集『警世通言』所収の「王安石三難蘇学士」の翻案である。翻案の方法としては、時代を『太平記』の世界へと置き換えてある。人物は荊公を後醍醐天皇に、そして蘇東坡を万里小路藤房に置き換えてある。結末部分は、原話においては王安石の博識ぶりを賞賛する印象が強いが、都賀のほうはむしろ才知に驕る天皇像が批判的に描かれている。将軍綱吉を風刺しているという説もあるくらいだ。隠遁する藤房=隠逸思想こそが都賀の歴史観であると見てよいだろう。このような歴史上の人物に評価を語らせるという姿勢は、のちの上田秋成や読本へと引き継がれることになる。
さて、都賀庭鐘に次いで建部綾足が『西山物語』を発表する。彼の作品に上田秋成は大いにインスパイヤされたという。こうして秋成は、中国の白話小説を片っ端から渉猟したという。『雨月物語』という作品は、その趣向を巧みに日本の舞台に移したものだが、むろん単に換骨奪胎をしたわけではない。都賀などの作品に残存していた談義本臭さ(=教訓を平易に説く)を完全に消し去り、“循環する物語”という形式をその文章構成において実現しているのだ。 しかし、最後に注意しておきたいのは、中国白話小説から日本の“読本”というジャンルが生まれたのではないということだ。日本の文学に“読本”というジャンルの流れがもとからあり、その中に白話小説に大いに影響を受けた作品が出現した、ということなのだ。
以上が、今回調べたことである。江戸時代にこんなにも中国通俗文学がブームになっていたとは、あまり知らなかった。このように調べてみて、日本文学への白話小説の影響の大きいことには驚いた。
<参考文献>
◆「新日本古典文学全集巻78」(小学館、1995年)
英草紙 / [都賀庭鐘著] ; 中村幸彦校注・訳
西山物語 / [建部綾足著] ; 高田衛校注・訳
雨月物語 / [上田秋成著] ; 高田衛校注・訳
春雨物語 / [上田秋成著] ; 中村博保校注・訳
◆「日本思想体系36―荻生徂徠―」吉川幸次郎著(岩波書店、1973年)
◆「日本古典文学大系94―近世文学論集」(岩波書店、1966年)
徂徠先生答問書(抄) / [荻生徂徠著] ; 中村幸彦校・注
◆「明和九年刊書籍目録所載「奇談」書の研究 」 飯倉洋一ほか著
(大阪大学文学部研究課、2002年)
「西遊記とかが好きだから…」って理由で、ここまで調べちゃいました♪こんな面白くも無い論文を最後まで読んでくださった方なんて、果たして何人いなさるのでしょうか??とりあえず、有り難う御座いました♪
狂詩狂歌
投稿日時:2014/05/09(金) 09:23
狂詩狂歌
人に滑稽趣味の必要なのは、一日のうちに欠伸《あくぴ》の必要なるがごとく必要である。傍
目《わきめ》も振らず勤労を続けた後、開口一番天を仰いで欠伸一両度、すなわち退屈の神疲労
の魔も、たちまちにして逃げ失せて行く。かくも欠伸は元気回復の良法であって、ま
た人間の健康上自然の調節である。滑稽趣味がちょうどそれで、人生自然の調節であ
り、人間元気の源泉である。で、その滑稽趣味が文芸化したものが、我に在りてはす
なわち狂詩狂歌および戯文ではあるまいか。
蜀山人《しよくさんじん》はたれにでも知られておるが、銅脈先生はさほど一般に知られておらぬ。
それは前者が狂歌と狂詩の両道に秀でた、言はば上戸にして下戸を兼ね得た猛者であ
ったに反して、銅脈先生が専ら狂詩の大家たるに止まるの所以《ゆえ》に因るかも知れぬ。し
かし天明ごろの狂詩壇では、蜀山と銅脈とは止しく東西の両大関で、江戸の蜀山人の
狂詩に対立し得る者は、当時独り京都の銅脈先生畠中観斎があったのみだ。特に狂詩
の方は、あるいは江戸よりも上方の方が、優っていたのではなかろうかと私は思う。
すなわち狂歌は江戸において発達し、狂詩は上方において一時繁昌を見たのではなか
ろうか。すなわち左の三句のごときは、対句の妙を得たるものとして有名である。
「八坂五重塔、三条六角堂」
「小僧参…北野→大仏在南都ご
「桜東山地主、梅北野天神」
そのいずれもが、京畿地方を謡ったものであるに見ても、上方における盛況の一斑
が窺える。
狂歌に至っては江戸の粋といってよかろうし、いわゆる文政風に比して天明風の風
格の高いのが、真に天下一品の観がある。時代は違うが上方の鯛屋風などは、見劣り
がするように感ぜられる。『千紫万紅』『万紅千紫』の中に、狂歌狂詩文の相交って、
珠玉を連ねた趣のあるのを見ると、蜀山こそは古今独歩だ。「ほととぎすなきつる片
身初がつお春と夏との入相の鐘」辞世すらこれほどである。
しかし狂詩に至っては平灰《ひようそく》こそシナ伝来であるが、用字の上においては音訓併用、
特にその併用上に一種の面白味を存しておる点は、明らかに我国特有のものと誇り得
るであろう。「頻食餅菓子又東《ひんしよくすもちがしまたひがし》」と干菓子に利かしたところなどがそれである。私
は少しばかり狂詩に関する古本を蒐めておるが、銅脈先生の『太平遺響』『太平楽府』
などはいささか珍たるを失わぬ。その他愚仏先生の『太平詩集』というのもあるが、
昨今庶民詩、市民詩などいう言葉が流行《はや》るところからすると、狂詩を太平詩と呼ぶも
また一興であろう。寛政ごろに至って同好の間に編まれたものに、寝惚《ねぽけ》銅脈東西二大
家の贈答狂詩集がある。寝惚先生から「聖護院辺君已聖、牛籠門前我如牛」と言って
やると、銅脈先生から「応生祠古祇園外、物沢楼高江戸中」と酬《むく》いるという風であっ
た。物沢楼《ぶつたくろう》は言うまでもない蜀山の阿房宮である。そこでこの東西の両先生はとうと
う会う機会がなく、蜀山門下の問屋酒船《といやのさかふね》、腹唐秋人《はらからのあきうど》両人が五十三次を股にかけて、
京へ上って銅脈先生と相見た。かくて天明東西の二大家が、奇才を韻字に訴えて、相
応酬したさまがよく看取される。「暮春十日書、卯月五日届」という句があるところ
から見ても、数篇の応酬に数旬を要したのであろう。一生に一度ぐらいは、寝惚気分
になって見たいものである。
人に滑稽趣味の必要なのは、一日のうちに欠伸《あくぴ》の必要なるがごとく必要である。傍
目《わきめ》も振らず勤労を続けた後、開口一番天を仰いで欠伸一両度、すなわち退屈の神疲労
の魔も、たちまちにして逃げ失せて行く。かくも欠伸は元気回復の良法であって、ま
た人間の健康上自然の調節である。滑稽趣味がちょうどそれで、人生自然の調節であ
り、人間元気の源泉である。で、その滑稽趣味が文芸化したものが、我に在りてはす
なわち狂詩狂歌および戯文ではあるまいか。
蜀山人《しよくさんじん》はたれにでも知られておるが、銅脈先生はさほど一般に知られておらぬ。
それは前者が狂歌と狂詩の両道に秀でた、言はば上戸にして下戸を兼ね得た猛者であ
ったに反して、銅脈先生が専ら狂詩の大家たるに止まるの所以《ゆえ》に因るかも知れぬ。し
かし天明ごろの狂詩壇では、蜀山と銅脈とは止しく東西の両大関で、江戸の蜀山人の
狂詩に対立し得る者は、当時独り京都の銅脈先生畠中観斎があったのみだ。特に狂詩
の方は、あるいは江戸よりも上方の方が、優っていたのではなかろうかと私は思う。
すなわち狂歌は江戸において発達し、狂詩は上方において一時繁昌を見たのではなか
ろうか。すなわち左の三句のごときは、対句の妙を得たるものとして有名である。
「八坂五重塔、三条六角堂」
「小僧参…北野→大仏在南都ご
「桜東山地主、梅北野天神」
そのいずれもが、京畿地方を謡ったものであるに見ても、上方における盛況の一斑
が窺える。
狂歌に至っては江戸の粋といってよかろうし、いわゆる文政風に比して天明風の風
格の高いのが、真に天下一品の観がある。時代は違うが上方の鯛屋風などは、見劣り
がするように感ぜられる。『千紫万紅』『万紅千紫』の中に、狂歌狂詩文の相交って、
珠玉を連ねた趣のあるのを見ると、蜀山こそは古今独歩だ。「ほととぎすなきつる片
身初がつお春と夏との入相の鐘」辞世すらこれほどである。
しかし狂詩に至っては平灰《ひようそく》こそシナ伝来であるが、用字の上においては音訓併用、
特にその併用上に一種の面白味を存しておる点は、明らかに我国特有のものと誇り得
るであろう。「頻食餅菓子又東《ひんしよくすもちがしまたひがし》」と干菓子に利かしたところなどがそれである。私
は少しばかり狂詩に関する古本を蒐めておるが、銅脈先生の『太平遺響』『太平楽府』
などはいささか珍たるを失わぬ。その他愚仏先生の『太平詩集』というのもあるが、
昨今庶民詩、市民詩などいう言葉が流行《はや》るところからすると、狂詩を太平詩と呼ぶも
また一興であろう。寛政ごろに至って同好の間に編まれたものに、寝惚《ねぽけ》銅脈東西二大
家の贈答狂詩集がある。寝惚先生から「聖護院辺君已聖、牛籠門前我如牛」と言って
やると、銅脈先生から「応生祠古祇園外、物沢楼高江戸中」と酬《むく》いるという風であっ
た。物沢楼《ぶつたくろう》は言うまでもない蜀山の阿房宮である。そこでこの東西の両先生はとうと
う会う機会がなく、蜀山門下の問屋酒船《といやのさかふね》、腹唐秋人《はらからのあきうど》両人が五十三次を股にかけて、
京へ上って銅脈先生と相見た。かくて天明東西の二大家が、奇才を韻字に訴えて、相
応酬したさまがよく看取される。「暮春十日書、卯月五日届」という句があるところ
から見ても、数篇の応酬に数旬を要したのであろう。一生に一度ぐらいは、寝惚気分
になって見たいものである。
『太平楽府他 江戸狂詩の世界』
投稿日時:2014/05/09(金) 09:13
『太平楽府他 江戸狂詩の世界』(日野龍夫・高橋圭一編)
2011/04/28
これぞ最高レベルの笑い? 自身の教養が
試される、江戸時代の狂詩ワールド。
日頃、冗談がすべりまくっている私は、「周囲の笑いのレベルが合わないんだ」と言い訳にもならぬ愚痴をこぼしているのだが、冗談でなく実際、「笑いのレベル」というものはあるんじゃないか、というのが今回の話。
映画で泣く。卒業式で泣く。……と「涙」はとかく共感しやすいのだが、「笑い」はそうじゃない。単純な笑いを別として、一般に「笑い」を支えているのは、「共通の教養」だ。例えば、パロディが成立するには、その大本を皆が知っていることが前提となる。
江戸の文化が、後世になっても評価され続けるのは、この「笑いの教養」レベルが高いからではないだろうか。滑稽本に洒落本しかり。どの新聞も欄を設ける「川柳」も、江戸時代に興ったものだ。その中でも「おぬし、やるなぁ」と私が唸ってしまうのが、「狂詩」である。何せこちらは、漢詩が母体だ。韻を踏んだり何だりと制約は極めて多く、かつ漢詩に親しんでいなければ、パロディにすらならない。
「狂詩」がメジャーになったのは、1767(明和4)年、江戸で寝惚先生(大田南畝)の『寝惚先生文集』が出たことによる。2年後には京都で銅脈先生(畠中観斎)が『太平楽府(たいへいがふ)』を刊行し、この両名は、〈天明・寛政期(1781~1801)まで東西の両大家として活動した〉(ジャパンナレッジ「ニッポニカ」)という。驚くべきは、この2人、当時まだ10代だった! 漢文という当時の公式文体を使って、「笑い」を持ち込む。いやはや恐るべき10代だ。
ではどんな調子なのか。銅脈先生「太平楽府」より。
〈弘法も筆の謬(あやま)り 猿も樹から落つ
吾も娼婦(おやま)に投(はま)って 多く銭(ぜに)を棄てたり
頭(こうべ)を回(めぐ)らせば 家財 残る物無し
今更籌(かぞ)え難し 死んだ子の年〉
「死んだ子の年を数える」とは諺で、取り返しのつかないことを未練たらしく振り返るという意味。この詩は「太平楽府」の締めくくりの作品で、当時、18歳の銅脈先生は、わが人生失敗だらけ、と自らを笑い飛ばしたのだ。
江戸時代に隆盛を極めた「詩」のパロディだが、狂歌(和歌)、狂詩(漢詩)、川柳(俳句)の中で、結局残ったのは川柳だけ。前二者は、作り手にとっては教養のハードルが高すぎたのか。実際、半可山人『半可山人詩鈔』や穴八先生『太平新書』も収められている狂詩集『太平楽府他』の質の高さに、正直、打ちのめされましたよ。
「笑い」を生み出すのはかくも難しい。仕方ない、皆からそのアホさを笑われるだけで、ヨシとしますか。
2011/04/28
これぞ最高レベルの笑い? 自身の教養が
試される、江戸時代の狂詩ワールド。
日頃、冗談がすべりまくっている私は、「周囲の笑いのレベルが合わないんだ」と言い訳にもならぬ愚痴をこぼしているのだが、冗談でなく実際、「笑いのレベル」というものはあるんじゃないか、というのが今回の話。
映画で泣く。卒業式で泣く。……と「涙」はとかく共感しやすいのだが、「笑い」はそうじゃない。単純な笑いを別として、一般に「笑い」を支えているのは、「共通の教養」だ。例えば、パロディが成立するには、その大本を皆が知っていることが前提となる。
江戸の文化が、後世になっても評価され続けるのは、この「笑いの教養」レベルが高いからではないだろうか。滑稽本に洒落本しかり。どの新聞も欄を設ける「川柳」も、江戸時代に興ったものだ。その中でも「おぬし、やるなぁ」と私が唸ってしまうのが、「狂詩」である。何せこちらは、漢詩が母体だ。韻を踏んだり何だりと制約は極めて多く、かつ漢詩に親しんでいなければ、パロディにすらならない。
「狂詩」がメジャーになったのは、1767(明和4)年、江戸で寝惚先生(大田南畝)の『寝惚先生文集』が出たことによる。2年後には京都で銅脈先生(畠中観斎)が『太平楽府(たいへいがふ)』を刊行し、この両名は、〈天明・寛政期(1781~1801)まで東西の両大家として活動した〉(ジャパンナレッジ「ニッポニカ」)という。驚くべきは、この2人、当時まだ10代だった! 漢文という当時の公式文体を使って、「笑い」を持ち込む。いやはや恐るべき10代だ。
ではどんな調子なのか。銅脈先生「太平楽府」より。
〈弘法も筆の謬(あやま)り 猿も樹から落つ
吾も娼婦(おやま)に投(はま)って 多く銭(ぜに)を棄てたり
頭(こうべ)を回(めぐ)らせば 家財 残る物無し
今更籌(かぞ)え難し 死んだ子の年〉
「死んだ子の年を数える」とは諺で、取り返しのつかないことを未練たらしく振り返るという意味。この詩は「太平楽府」の締めくくりの作品で、当時、18歳の銅脈先生は、わが人生失敗だらけ、と自らを笑い飛ばしたのだ。
江戸時代に隆盛を極めた「詩」のパロディだが、狂歌(和歌)、狂詩(漢詩)、川柳(俳句)の中で、結局残ったのは川柳だけ。前二者は、作り手にとっては教養のハードルが高すぎたのか。実際、半可山人『半可山人詩鈔』や穴八先生『太平新書』も収められている狂詩集『太平楽府他』の質の高さに、正直、打ちのめされましたよ。
「笑い」を生み出すのはかくも難しい。仕方ない、皆からそのアホさを笑われるだけで、ヨシとしますか。
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