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古典文学

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ーくずし字~美しい文明ーアダム・カバット先生

投稿日時:2014/05/10(土) 01:01

http://www.wajuku.jp/index.php/archives/1589 より

和塾通信
ーくずし字~美しい文明ーアダム・カバット先生 第六十三回和塾
ーくずし字~美しい文明ーアダム・カバット先生 第六十三回和塾
6月 9th, 2009「和」をたしなむ, お稽古[い組]sewanin_nio 0 Comments
日時:2009年6月9日(火) P.M.7:00開塾
場所:銀座 くのや 座敷

アダム・カバット先生、高校生の時、全部で14冊の英訳された日本文学の本を先生からいただいた。その中で、先生が一番感動した1冊が「源氏物語」。自分とはまったく異なる世界が広がっていて、ともかく心を打たれたそうです。その「源氏物語」は抄訳だったので、先生すぐに書店に走り全訳を手に入れた。250セントだった。家に持ち帰って休む間もなく一気読みした「源氏物語」がそれからのカバット先生をつくっていく基点になったのです。

今月の和塾は、3度目の、異国人先生による日本文化講座。アダム・カバット先生を迎えて「くずし字」の勉強です。

アダム・カバット先生


源氏物語が大好きなカバット先生、シェイクスピアには抵抗があるそうです。学校での辛い授業の印象がいつまでもつきまとうから。多くの日本人が源氏物語に抵抗を感じるのも同じ理由じゃないか、と先生は考えます。確かに、我々にとっての源氏物語は、忍耐と無味乾燥が幼い心を打ち続ける経験だった。恐ろしい古文の先生の存在しか思い出せない塾生もいるようで。文学を教材に使ってしまうと、文学嫌いを増やしてしまう。難しい問題ですね。

英訳の源氏物語に魅入られたカバット先生、次に出かけたのはニューヨークの日本語専門の書店。手に取った日本語の本を見て衝撃を受けたのは当然のことです。文字の向きすらわからない。上を向いているのか、下なのか。右から読むのか、左からか。初めての日本語は、先生にとってそもそも「文字」ですらなかったのです。その先生が、今ではその日本語の「くずし字」を教えている。本当に立派です。すごい。

やっと日本語が読めるようになったカバット先生は、やがて泉鏡花を研究するようになる。「高野聖」の泉鏡花ですね。 で、その鏡花の作品の中で、先生はカッパに出くわした。ある作品の中に、漁師が化け物に出会って、次のように話す一節がある。

「何しろ、水ものには違えねえだ。野山の狐鼬(いたち)なら、面が白いか、黄色ずら。青蛙のような色で、疣々(えぼえぼ)が立って、はあ、嘴(くちばし)が尖って、もずくのように毛が下った。」
「そうだ、そうだ。それでやっと思いつけた。絵に描いた河童そっくりだ。」
?『貝の穴に河童の居る事』泉鏡花

日本人ならこの部分は大きな疑問なく通過する。「そうだ、そうだ。・・・絵に描いた河童そっくりだ」に引っかかる人はほとんどいないでしょう。カッパに対する共通理解があるのですね。ところがニューヨークに生まれ育ったカバット先生、そうはいかない。「絵に描いたカッパ」? 「河童」って何? というわけで、先生今度は河童を調べ始める。辿り着いたのが江戸時代の絵本「草双紙」。やっとその「絵に描いた河童」に出会えたのです。ところがここで次なる大問題。書かれた文字が「くずし字」だったのです。平仮名を覚え、カタカナを学び、漢字に悶絶して、やっと泉鏡花を読めるまでの日本語能力を手にした先生、ここで再び「読めない日本語」に突き当たった。

草双紙の河童


そこから先生の「くずし字」との格闘が始まります。毎日国会図書館に通って、草双紙を片っ端から複写する。河童がきっかけだったから、妖怪・化け物が出てくる双紙ばかり複写する。それまで、そんな妙な双紙を複写する人などいなかったから、先生図書館の有名人になった。「化け物のカバット」というのが、その時ついた綽名だったとか。

55才の今、カバット先生は日本人にその「くずし字」を教えている。日本の化け物研究でも第一人者になっている。すごいことです。

では、本題の「くずし字」の読み方。
先生によると、くずし字は練習さえすれば誰でも容易に読めるようになる、とのこと。特に、現在の仮名とは全然違う形のものをしっかり覚える。数はそれほど多くない。それだけでも、くずし字はかなり読めるようになるのです。

具体的に見ていきましょう。

第一図


第一図は玉子のお化け。「卵(う)めがつけば玉子のばけもの」と書いてある。卯の字にテンをふたつ、つまり目を書き加えると卵になる、というわけ。「卵(う)。目が付けば、玉子の化け物。」と読めます。ここで問題になる文字があるとすれば、現在とは形が異なるものですね。例えば、3文字目。これは「が」です。「可」から変じた「か」で、現在の「加」から変じたものとは全然形が違う。だからこれを覚える。次は、最終行の一番上。「ば」ですが、我々が知っている「ば」とはまったく別の形です。これも覚える。それだけでこの例文は完璧に読めますね。確かに簡単。「か」と「ば」。覚えましたか?

次の例文も読んでみましょう。

第二図


まず二文字目がわかりませんね。これは「つ」。「川」から変じた「つ」です。なんで「川」が「つ」になるんだ、などということは今は考えないで覚えてしまう。次は3行目の最後。これは「ふ」に見えますが実は「に」です。草双紙に頻出するからしっかり覚える。4行目の頭は第一図にあった「ば」ですね。5行目の二文字目。これは漢字。「志」つまり「し」です。6行目の3文字目。先ほどの「に」です。「ふ」ではありません。同じ行(6行目)の最後はその前の文字「み」とつながっているからちょっとわかりにくいが「へ」です。最後の行は「ける」。「け」がわかりにくい。これも覚えましょう。
これで全文が判明した。「かつてのとうぐそれゝにばけてやしょくのていにみへける」とある。ただし、文字が判明しても文意が不明なこと、草双紙ではよくあります。句読点がなくて文の切れ目がわかりにくく改行のルールも適当。その上、当たり前のことですが旧仮名遣い。ここからはじっくり読み直して考えるしかない。二番目の例文は「勝手の道具、それぞれに化けて夜食の体に見えける」というわけです。台所の道具たち、鍋や釜が妖怪に変化して夜食つくってるようです。

第一段階で理解すべきくずし字の一覧は以下の通り。



といっても、ほとんどが、現在の仮名から類推できますから、明らかに形の異なるものだけをマスターすればなんとかなりそうです。あとは繰り返し。外国語の学習と同じです。

草双紙


その表4


中面


今回の稽古では、その草双紙や黄表紙の実物を拝見することもできました。何百年も経っているのにしっかりしている。和紙を糸で綴じた日本の古い書物は、近頃の書籍よりずっと丈夫で長持ちなんですね。
それから、草双紙はご覧のように基本的に平かなで書かれている。漢字はほとんどない。いわゆる「古文書」の類とは違います。だから、少し練習すれば誰でも読めるようになるということです。

こちらは黄表紙 貴重品です、


その中面


こうした草双紙の類は、これまで評価が低く、糸綴じの絵本を書籍とは認めない研究者もいたとか。だから、江戸時代の日本には書籍がなかった、なんて暴論もあるそうです。実際は、当時の日本は世界最大の出版王国だったのですがね。

丈夫にできています。


ところで、こうした木版の「くずし字」を入れ込んだ絵本は、明治の中頃までさかんに出版されていました。活字を使用する活版印刷は江戸時代の初期にあったということですから、読みやすさや効率を考えると「くずし字」が生き長らえたのは不思議なことです。カバット先生によるとそれは、「美しさ」を目的とする日本の文化・文明によるものではないか、ということ。木版で刷った挿絵と活字の文字の組み合わせは「美しくない」。活版の「活字」には「くずし字」にある「美しさ」が感じられない。だから、江戸期の日本人は、わざわざ「くずし字」を残したのです。本来の目的だけではなく、常に「美しさ」を組み込む。こうした考え方は日本が誇るべき独自の文化なんですな。 そういえば、日本刀や甲冑のお稽古の時にも、同じ文化を学びました。※参考リンク→:[第28回お稽古ー刀剣研磨?刃文の美ー]・[第54回お稽古ー甲冑~戦闘の芸術品ー] 戦闘に役立つという本来の目的を越えて、「美しさ」を追求する。刀に不必要なほどの刃文の美を加える。兜に「愛」の字の前立を付け加える。まことに日本人は美しくあることを大切にする人間なんですね。美しい国、それがニッポンなのです。



カバット先生、楽しくて為になるお話し、ありがとうございました。

アダム・カバット(Adam Kabat)
1954 米国ニューヨーク生まれ
1979 初めて来日
1985 東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了
1988 東京大学大学院比較文学比較文化専門課程博士課程満期
1988より武蔵大学の教鞭にたつ
現在 武蔵大学人文学部日本・東アジア比較文化学科教授
専門:日本近世文学

主な著書
『江戸化物草紙』(小学館、1999年)
『大江戸化物細見』(小学館、2000年)
『妖怪草紙 くずし字入門』(柏書房 2001年)
『江戸滑稽化物尽くし』(講談社メチエ、2003年)
『ももんがあ対見越入道 江戸の化物たち』(講談社、2006年)

お稽古「江戸の妖怪・化物」アダム・カバット

投稿日時:2014/05/10(土) 00:57

http://www.wajuku.jp/index.php/archives/6601 より

和塾通信
第九十九回「い組」お稽古「江戸の妖怪・化物」アダム・カバット
第九十九回「い組」お稽古「江戸の妖怪・化物」アダム・カバット
8月 14th, 2012「和」をたしなむ, お稽古[い組]sewanin_nio 0 Comments
日時:2012年8月14日(水)19:00開塾
会場:グランドプリンスホテル新高輪 秀明
講師:アダム・カバット

Text by : Fabienne


 お盆の時期に合わせて、今日はニューヨーク出身の文学専門家アダム・カバット先生が江戸時代の妖怪のお話をしてくださいました。しかし、皆様がイメージする怖い妖怪のお話ではなく、かわいらしい化け物のお話でした。
 先生は江戸時代の民衆文学である草双紙に登場する妖怪を研究しておられ、その中からいくつかのかわいらしい妖怪を紹介してくれました。草双紙は200年前に盛んに出版されましたが、今でいう漫画のようなもので、文章と絵が一緒になっています。そこに登場する妖怪や化け物は、怖いものもいますが、どちらかというとかわいらしいものが多いのです。なぜ化け物がかわいらしいかというのは今回のお話のテーマの一つでした。

 かわいらしいお化けについての話しの前に、なぜ先生が妖怪に興味を持ち始めたのか、気になりますね。
 先生は始めて1979年に来日、日本に住んで、すでに30年以上経ちます。大学生の頃、住んでいた安いアパートのすぐ隣にお寿司屋さんがあって、毎日のように通うようになったと話します。ベジタリアンでしたので、いつもかっぱ巻きばっかりを頼み、板前さんからすればきっと迷惑なお客でした。文学が専門なので、ある日、なぜかっぱ巻きは「かっぱ巻き」というのかを疑問に思うようになりました。板前さんに質問すると、「河童はキュウリを食べるから。河童の好物ですよ。」と教えてもらったそうです。また、よくテレビ宣伝に流れていた「かっぱえびせん」という言葉も自然に覚えて、辞書で引いたりすることもしましたが、「かっぱえびせん」という単語は出てこなかったとのことです。何年後かに分かったことは、カルビーの社長が河童が大好きで、自分の商品にどうしても「かっぱ」という言葉を付けたかったとのこと。そこで、河童がまだ現代の日本の日常生活でいろんなところに顔を出し、存在することに気づかれました。なぜまだ河童が人々の間に生き続いていられるのかというのは先生の研究の出発点となりました。

 江戸時代に遡って、草双紙や浮世絵にはよく河童が描かれています。初めに、先生に河童がキュウリを盗むところの絵を見せていただきました。しかし、先生は「実は、河童はキュウリだけではなく、別のものもよく食べてますよ。それは河童に詳しい人しか知らないが、それは尻子玉というもの。尻子玉は人間の内臓の一部とされていて、肝臓のようなもの」。なぜ「尻子玉」なのかというと、先生が草双紙の絵で証明してくれました。河童は人間の尻の中に手を入れて、そこから尻子玉を抜くところの絵を紹介してくれました。尻子玉を抜く、または抜かれる瞬間の絵は一枚しかなく、それを和塾の受講者が興味深く見つめていた。その尻子玉が抜かれると、一体何が起きるのか?たいていの人は死んでしまうようです。(非常に強い人間は気絶程度で済みます。)


 そのお話はどこに由来しているのかも、興味深いところです。ただの考えたお話ではないようです。昔は、人がよく川でおぼれました。おぼれた人間の尻が膨らんでしまうという科学的な事実がありますが、「ああ、これが河童の仕業だ」とするようになり、おばあちゃん等が、子供に「川の近くに遊ぶな、尻子玉を取られるよ」、と注意するようになったのだと考えます。また、先生は尻子玉はどういった形しているのかすごく興味があったので、この絵を発見したとき、とても喜んだそうです。抜きたての尻子玉は河童にとってもとても臭いようです。こちらの絵の中で河童が手に持っていますが、どういった形をしているのかよく分かります。
 次に、歌川広重の「雨の両国橋」の見立ての浮世絵も見せていただきました。

川に落ちてしまった雷神が河童にお尻を狙われ、必死に逃げようとしている場面。実は、非常にうまい逃げ方をしています。河童の屁は非常に臭く、あまりにもくさくて死ぬ場合もあるようです。ここでは、雷神が同じ手段で(屁をして)逆襲しています。河童がお尻を狙うことというイメージが定着していたことがよく分かります。

 一方、現代の河童のイメージは少し違うかもしれません。もっと和やかで、かわいい河童。
河童の新しいイメージは戦後の昭和28年に週刊朝日に掲載される「かっぱ天国」という漫画に始まります。

初の女性河童も登場し、新しい河童像が生まれます。パーマなどそれぞれの時代の流行を取り入れています。その時代のおしゃれな河童が登場します。新しい河童像ですが、元々の河童の特徴を残しているのが興味深い。たまに頭に皿があり、背中に甲羅があって、水かきがあって、くちばしみたいなものがあって...こういった特徴を描けば、誰でも、河童だとわかります。キャラクター商品の基本ではないかと先生は考えています。

江戸時代、そして現代において、どういったものがキャラクターになっているか?必要な条件は?それは以下の6点であると先生は発見しました。
? 形は単純で分かりやすい
? トレードマーク(TM)がある(河童の場合、頭の上の皿、見てすぐわかるようなもの)
? バリェション無限である。
? デフォルメ化だが、誰でも愛着がある
? 身近存在で、誰でも親しみやすい。庶民的。
? 伝統と新しさが一緒になる。

その例として「豆腐小僧」という妖怪が上げられます。
以下の豆腐小僧の絵は江戸時代に非常に流行った時期がありました。

子供のお化けで、傘を被り、常に豆腐を持つ、非常にかわいらしいお化け。その豆腐には紅葉のマークがあり、形は単純でわかりやすい。豆腐がTMとなっています。同時に様々なバリエーションを造ることはできます。豆腐は身近なものであり、親しみやすい存在。ここでは、伝統と新しさが一緒になっています。小僧は伝統的でありつつも、昔の伝説にでてこない、江戸時代に作られた新しいキャラクターなのです。豆腐小僧は、売り物として作られた妖怪でした。あまりにも怖すぎるものは人間に受け入れないので、江戸時代には、可愛い化け物が流行りました。豆腐小僧は4才くらいの子供で、よく豆腐を落とすという、ちょっと間抜けなところがある存在でした。怖い妖怪より笑わせる妖怪であったようです。
18世紀の江戸に豆腐ブームがあり、200軒くらいの豆腐屋がありました。不思議な子供が豆腐を売りに行ったのが豆腐小僧の始まりかもしれないと先生がおっしゃていました。原点は都市で、都市の文化から生まれた妖怪。意図的に商品のために造られたもの、この意味で現代的な妖怪です。実際に、特に吉原の豆腐に紅葉のマークがついてたのですが、「豆腐を紅葉(かうよう)に」→「豆腐を買うように」というメッセージとなっていました。なるほど。


草双紙


 草双紙は時代と共に内容が変わります。最初は18世紀前半の赤本で、表紙は赤かった。次は黒本。赤本と黒本はどちらかというと子供向けの絵本。黄表紙の時代に1785・1806年。この中には特に化け物がでてくる。黄表紙は大人のための漫画。当時の生活を反映しています。どういうものかというと、江戸っ子の粋な生活、江戸っ子のおしゃれさが強調されています。そのままではなく、笑いの形に作り直しています。見立て。パロディー。当時の生活を笑いの対象にしていますが、舞台としては吉原の遊郭の場合が多いようです。どうして化け物が登場するのか?



 「野暮と化け物は箱根より先」ということわざがあります。江戸の文化は新しく、箱根を越えれば江戸文化ではなくなると考えられており、都会人が田舎者を見下しているというニュアンスが入っているようです。化け物が野暮な存在になります。民頌伝承の中には元々お化けが怖い存在だったのですが、次第に商品化されて、野暮を象徴し、格好悪く、住む場所は江戸ではなく、箱根より先。その野暮とお化けが粋な江戸っ子に憧れる。自分が格好悪いという意識を持って人間のように格好良くなりたい。その化け物が失敗する。それこそが人間的。その失敗がお化け物のかわいいところ。人間の生活を真似て笑いの対象になる。違和感を感じて、お笑いをまねる。人間臭い化け物は我々現代人に多く通用するところがあります。江戸時代のお化けの仕事や恋愛の悩み、価値観などは現代人と全く同じで、我々が共感できるところがたくさんある。

 また、別の話で、小人の化け物が日本の大きい化け物に化け方を教えてもらうために日本に旅立ちます。しかし、大きな化け物は誰も化け方を教えてくれません。小人の化け物は日本に来たついでに観光もしてしまいます。花見をしたり、富士山に行ったりして。人間の江戸っ子に見つかってしまうのですが、怖がられるのではなく、「かわいい」と言われ遊ばれてしまうのです。やっぱりだめだ、とあきらめてしまい小人の化け物は国に帰ってしまいます。小さい化け物が大きい化け物、人間にばかにされ、見下されるところが面白くなっています。
 
 今日の可愛い化け物のお話を通じて、江戸時代の日本人でも、現代の日本人と同じようにユーモアな話が好きで、そのユーモアを見立てで表すことが非常に好まれます。また、日本人がかわいいものが好きなので、可愛い化け物を登場させることによって、お話をとても受け入れやすくします。それに、現代社会におけるかわいいキャラクターがTMとして使われると同じように江戸時代にもかわいい妖怪が使用されたことが興味深かったです。一番驚いたのは、黄表紙は今の本と異なってすべてがお正月に刊行される決まりがあるということで、おめでたいものでした。親がお年玉の代わりによく子供のために買ってあげたりしたそうです。つまり、縁起もので、どんな変な話でも「おめでたし、おめでたし」で終わます。今はお盆の時期に化け物を連想するかと思いますが、江戸時代はお正月が化け物の季節でした。化け物が新年の挨拶をすると「化けましておめでとうございます。」といいます。その意味では、「かわいい化け物のお話」は日本文化における重要な役割を果たすことがわかりました。
タグ:アダム・カバット, 化物, 妖怪

『対談集 妖怪大談義』 (角川文庫)

投稿日時:2014/05/10(土) 00:42

“妖怪研究の広がりと奥深さを伝える、各界から集まった妖怪好きのユニークな対談集”

『対談集 妖怪大談義』 (角川文庫)
 京極夏彦  
 ×水木しげる、養老孟司、中沢新一、夢枕獏、アダム・カバット
  宮部みゆき、山田野理夫、大塚英志、手塚眞、高田衛、保坂正康
  唐沢なをき、小松和彦、西山克、荒俣宏、尾上菊之助

 私の勝手なイメージではありますが、妖怪というともう民俗学に直結という感じで、他の分野への広がりは考えた事もありませんでした。それは『妖怪談義』の柳田國男の印象が強い事もありましたし、昔からよく読んでいた水木しげるの『日本妖怪大全』が、ページごとに妖怪の紹介と、各地に伝わる伝説や呼称の違いなどを図鑑のように構成しているせいもあったのですが、この対談集を読むと、妖怪はもっと広く文化や歴史にまで関連して研究されている学問対象である事がよく分かります。

 何よりも、これだけの錚々たるメンバーが妖怪に深い関心を寄せていた事が驚きですし、私にとっては初めて名前を見るような学者さんも、様々なフィールド、観点で妖怪を研究している。予想以上に奥行きの深い世界だったんだ、というのが正直な感想です。そのため、難しい議論も頻出しますし、妖怪のみならず、怪談文学や伝奇小説、昭和史などにテーマが絞られている対談もある一方、唐沢なをきとの対談など、子供向け妖怪本に関するマニアックなうんちく合戦になっていて楽しい箇所もあります。それにしても、全編に渡ってぶちまけられる京極夏彦の博学ぶり、恐るべし。

 特に興味深いのは、作家・大塚英志との対談にある、妖怪のほとんどが江戸期にキャラクターとして大量生産されていて、今でいうポケモンみたいな扱いを受けていた筈だという話。当時から、妖怪や狐狸の類いは子供ですら信じないという嘆きの声もあり、私達が「当時の人はこんな妖怪を信じていました」と認識するのは、今から三百年後の人々に私達が“ポケモンのキャラクターの実在を信じていた”と認識されるようなものだと。まさに目からウロコが落ちるような思いですが、こういう斬新な視点は本書のそこここにあり、必ずしも妖怪好きの読者にターゲットを絞らない、ユニークな対談本になっています。

http://www17.ocn.ne.jp/~linden/booklist75.html

上田秋成 雨月物語

投稿日時:2014/05/09(金) 10:01

上田秋成

雨月物語
角川文庫 1959
ISBN:404401101X
[訳注]鵜月洋

 ひとつ、秋成は享保期の大坂に生まれた。堂島である。侠客黒船忠右衛門が町のヒーローだった。秋成にはキタの上方気質と「浮浪子」(のらもの)の血が脈打っていた。このキタ気質が処女作『諸道聴耳世間狙』になる。
 ふたつ、青年期に俳諧に溺れた。懐徳堂に通って五井蘭州に影響をうけて国学をおもしろがった。諧謔と翻案の技法はここで育くまれた。『世間妾形気』などを書く。秋成はパロディ・コント作家であり、浮世草子の最後のランナーである。
 みっつ、『雨月物語』の裏に『水滸伝』がある。都賀庭鐘の影響が濃い。都賀は医術にあかるい大坂の人で、一方で『英草紙』『繁野話』という読本第1号を創った文章家であった。ついで建部綾足が『西山物語』を発表して、秋成はこれにくらっとした。
 これらの奥には中国小説があった。そのことを説明しなければならない。

 秋成は息咳きって中国の伝奇譚を読んだ。白話とか白話小説という。『雨月物語』はその趣向を巧みに日本の舞台に移したのだが、むろん単なる換骨奪胎をしたわけではない。
 秋成が『雨月物語』を書く気になった背景を追いかけていくと、中国思想と日本の関係を、おそらくは荻生徂徠にまでさかのぼる関係を見ることになる。最初にそういった秋成登場の前段をちょっとだけ眺めておきたい。儒学思想の高揚と消沈と江戸文学の関係はあまり議論されないけれど、ひとつの見方なのである。
 徂徠は、朱子学を内面の心理はおろか現実さえ包括できっこないと批判して、自分なりに工夫した社会観をつくろうとした。そこで規範を朱子学のようには道徳には求めずに、古代の聖人たちが陶冶した礼楽刑政を規範に採り、これを「道」とよんだ。
 この「道」を押し出す徂徠の擬古主義的な見方が、しばらく江戸文学に「人情」を追いかけさせたのである。聖人の道とは人情にか
なったものとおもわれたからだ。いったい"聖人の人情"というのははなはだわかりにくいことだが(中国的であって、半ば日本的なのだ)、これは当時の見方からすれば、唐詩に表現されているような、不遇の自己を越え高い格調で世界を表現しつづけるようなそんな立場をさしていた。

 ところが、不遇の自己をこらえて格調に走るという立場とはいささか違って、そうした自分をつくった社会を憤激し、風刺する立場というものもありえたのである。
 これが京儒や上方の文人たちにしばしば典型した「狂者の意識」というもので(秋成も晩年の自分を「狂蕩」とよぶ)、この反徂徠学ともいうべき動向が陽明学をとりこみ、とくに文人たちを『水滸伝』などに流れる反逆の思想に傾倒させた。
 ここにおいて江戸文芸は徂徠よりも、上方ふうの狂文狂詩をたくみに獲得するほうに流れていった。そして、銅脈先生こと畠中観斎や寝惚先生こと太田南畝を、さらにはご存知風来山人こと平賀源内などを生むことになった。これが"うがち"の登場である。"うがち"はやがて「通」になっていく。

 一方、やはり徂徠を源流として、中国白話小説が日本に流れこんできた。知識人たちによる唐話学の学習は、そのテキストにつかわれた白話を結果としてはやらせる。
 詳しいことは省略するが、岡島冠山、岡白駒らが出てしきりに中国伝奇小説の翻訳翻案を試み、そこでおこってきたことは、象徴的には『水滸伝』の解釈が変わってきたということだった。それまで反権力的な部分が切り捨てられて紹介されていた『水滸伝』は、日本に入ってきた李卓吾の解釈にしたがった新しい翻案のスタイルに切り替えられたのだ。そのスタイルはとりわけ建部綾足の『本朝水滸伝』に結実して、爆発した。この手法こそが上田秋成が継承したものなのである。
 だから秋成を読むということは、中国と日本の言語文化の百年にわたるシーソーゲームを読むことでもあったといってよい。これが
『雨月物語』を読むときの背景になる。しかしながら、これだけでは秋成は読めない。秋成には、こうした流れのどの位置に属した者をもはるかに凌駕する格別の才能があった。

 そこで『雨月物語』である。九つの物語からなっている。それぞれ別々の物語であるにもかかわらず、裏に表に微妙にテーマとモチーフがつながっている。そこに秋成の自慢がある。
 第一話、崇徳院天狗伝説を蘇らせる「白峯」で、不吉と凶悪が跋扈する夜の舞台が紹介される。読者はここでのっけから覚悟しなければならない。何を覚悟するかというと、幻想がわれわれの生存の根本にかかわっていることを覚悟する。なにしろ主人公は西行なのである。
 つづいて生者と死者の意志疎通をいささかホモセクシャルに扱った「菊花の約」が信義のありかたを話題にする。これが三島由紀夫が好きだった挿話であるのは、信義のためには死をも辞さないということが告示されているからでもある。しかし、信義は男と男のためばかりのものではない。
 そこで、信義と死の関係を男と女に移して「浅茅ケ宿」がはじまる。怪奇幻想には静謐なものもあるはずで、それを夫婦の日々にまでしのびこませた秋成は、ここに待ちつづける女を"真間の手児女伝承"で結晶化してみせる。
 待ちつづける女、宮木のひたむきなイメージは、溝口健二が映画『雨月物語』のなかで田中絹代に演じさせて有名になった。溝口が宮木をキャラクタライズするにあたっては、原作にはない大いなる母性をもちこんだ。そもそも溝口の『雨月』は原作をかなり離れたもので、モーパッサンさえ加わっている。

 「浅茅ケ宿」は水の女のモチーフで進んだのだが、次の「夢応の鯉魚」では水中に身を躍らせたあやしい画僧が主人公になる。
 中国の『魚服記』に取材したストーリーは、魚に愛着をおぼえる画僧が仮死状態のあいだにアルタード・ステーツをさまよって鯉魚となり、戒めを破ったため危うく料理をされそうになってやっと遊離の魂が肉身に戻るという顛末である。オウィディウスこのかたの変身物語の豊饒が語られる一篇になっている。
 変身と異界はもとよりつながっている。その連鎖はつづく「仏法僧」では、異界からかろうじて生還した男と高野山に秘められた異常を体験する"旅の怪異"に発展し、修羅道に落ちるというテーマになっていく。途中、空海と水銀伝説にまつわる異変がはさまれ、それが関白秀次をめぐる異様につながっていく。秋成、しだいに独壇場に向かうあたりだ。
 この修羅道の問題は、さらに「吉備津の釜」においては愛に裏切られた女の怨霊に転じている。女を怨霊にさせたのは主人公正太郎の浮気である。それも妻を欺き通し、騙して憚らない遊び心によっている。けれども話は裏切られた妻の磯良の復讐にはすぐには転ばない。読者はここでじらされる。そのうちに浮気の相手が物の怪につかれたように死んだ。
 このあたりから、秋成は文体を凝らして稀にみる恐怖の場面をつくりあげた。ラストシーンでは明けたとおもった空が明けず、血が一筋流れ、荒廃した家の軒先に男の髻一つが月明に照らされているところで終わる。『雨月物語』の雨月のイメージは、ここにおいていよいよ煌々と照る。

 読者の肌身が凍りつくとき、ここで一転、物語は「蛇性の婬」でさらに深まっていく。
 初めは那智詣での帰途に美しい男女の一対がファンタジックな出会いをおこし、夢とも現(うつつ)ともつかぬうち、ただ一振の太刀だけが残って、昨夜の宴の家が一瞬にして廃屋になる。この廃屋のイメージは、その後の日本文芸や日本映画の原イメージとなったものである。
 廃屋出現の謎は、いったん怪しい者の仕業とわかるのだが、ところが話はそこからで、翌年になってまた男は怪しい女に出会う。しかも女はあの仕業はやむなき仕業で理由があったというために、ついに結婚まで進む。女はしだいに禍々しい正体を指摘され、それなら男も改心するかというと、逆に哀れな女の性に吸引されていくという、徹底して不幸に魅入られた関係が三段階にわたって奈落に堕ちゆく構造なのである。
 しかも読者は魔性の女の一途にも惹かれざるをえず、ここに中国白話小説と道成寺縁起の奇怪な合体が完成することになる。もとより秋成の狙いであった。

 それでも物語の仕掛けはまだおわらない。
 異類との怪婚物語は「青頭巾」にいたって、ついに愛欲のために人肉を食して鬼類そのものと化した僧侶を出現させるのだ。この鬼僧を調伏するにもう一人の禅僧が登場し、ふたりが同じ寺で一夜を送るという世にも恐ろしいクライマックスは、月下に乱走する鬼僧が目の前にいるはずの禅僧の姿に気づかず、朝になって公案の歌を与えられてやっと静まる。まるで富永太郎か安西冬衛の現代詩さながらである。逆説的なことなのだが、鬼類が悟道をさえ覗くという結末なのである。
 こうしてやっと秋成は最終章を妙に安心できそうな「貧福論」と標題し、黄金精霊の未来史の予告ともいうべきを語る。
 これでさすがに読者はホッとするのだが、ところがよくよく読めば、それはふたたび冒頭の夜の舞台を思い出す予兆でもあったというふうであり、ついにわれわれは秋成の無限軌道の振子そのものとなる‥‥。

 『雨月物語』は中国と日本をつなぐ怪奇幻想のかぎりを尽くしている。それはホフマンやティークや、あるいはウォルポールやポオが、ゴシックでアラベスクな物語のかぎりを尽くそうとしたことに似ていなくもない。
 しかし、このホフマン=ポオ=ボルヘスふうの円環をなす九つの物語は、すでに述べてきたように日中にまたがる独自の夥しい本歌取りのハイパーリンク型の構造をもって、夥しい細部の幻想リアリズムで支えられているので、単純に世界文学の傑作と比べるのはどうかとおもう。『日本数寄』(春秋社)に書いたように、むしろ溝口の映画と比べたり、泉鏡花や久生十蘭と比べたりするほうがおもしろい。
 そのばあい、『雨月物語』が日本文学史上でも最も高度な共鳴文体であることにも目を入れこみたい。問題は文体なのである。
 なぜ文体かということは、秋成の生涯にわたって儒学・俳諧・浮世草子・読本・国学という著しい変遷を経験してきたことと関係がある。とくに宣長との論争、煎茶への傾倒、および目を悪くしてからの晩年に「狂蕩」に耽ったことを眺める必要がある。それらは国学にしても茶にしても、むろん儒学や俳諧にしても、文体すなわちスタイルの競争だったのだ。
 競争して、どうしたかったのか。秋成は狂いたかったのである。心を狂わせたいのではない。言葉に狂いたかった。スタイルを狂わせたかった。「千夜千冊」第425夜にふれておいたように、それは荘子の「狂言」の思想に深い縁をもつ。

参考¶『雨月物語』はどう読もうとおもしろいが、注解では中村幸彦校注の『日本古典文学大系』(岩波書店)が定番。現代語訳付では高田衛・稲田篤信『雨月物語』(ちくま学芸文庫)、高田衛ほかの『雨月物語・春雨物語』(完訳日本の古典・小学館)、青木正次『雨月物語』上下(講談社学術文庫)、浅野三平『雨月物語・癇癪談』(新潮日本古典集成)、大輪靖弘『雨月物語』(旺文社文庫)など。ぼくは石川淳の『新釈雨月物語』(いまは角川文庫)をごく初期に読んだことの影響がある。

管説日本漢文學史略(明治以後)

投稿日時:2014/05/09(金) 09:49

管説日本漢文學史略

~授業用備忘録~

明 治 以 後 (士林時代・ 主たる担い手は知識人)

 明治以後

   明治の漢詩

   明治の漢文

   明治の漢学者

   大正・昭和の漢詩

   叢書と影印和刻本

《閑話休題・6》

*代表的参考文献(昭和以後の通史)

 後記

 明治以後

 明治に至ると社会情勢が一変し、漢学は洋学に圧倒され衰微の道を辿ります。特に経史の学は不振を極め、大正・昭和にかけては、漢学の世界も大きく変化し、経子の学は中国哲学へ、詩文の学は中国文学へ、史の学は東洋史学へと分化し、個々に独立した学問分野として成立し、現在では所謂「漢学」と呼べる伝統的学問体系(経史子集を同時並行的に学び、漢詩・漢文を制作)は殆ど失われました。

 しかし、この様な経史の学の衰微に反し、逆に漢詩・漢文の方は、明治期に大流行します。漢詩では、多くの詩社が林立し、漢文では、重野成斎・中村敬宇・三島中洲・川田甕江・竹添井井らが、気を吐きます。

 この様に、江戸漢学の余勢の中で活況を呈した、明治の漢詩・漢文世界も、大正・昭和期に入ると、高尚な趣味として一部の人々に限られたものになってしまいます。

 明治の漢詩

 明治の前半期に漢詩壇が活況を呈した理由として、猪口篤志氏は、以下の四点を挙げています。

?当時の著名人、例えば幕末以来の諸侯(松平春岳・鍋島閑叟・山内容堂・伊達藍山ら)・維新の元勲(西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文ら)・政府の高官(勝海舟・巌谷一六・小原鉄心・土方秦山・中井櫻洲・長三洲ら)・学者(元田永孚・重野成斎・三島中洲・竹添井井ら)・軍人(乃木希典・山県有朋・樺山華山・谷隈山・広瀬武夫ら)が、善く詩を作ったこと。

?私塾の成立と、詩社の林立が見られたこと。

?発表機関としての雑誌や詩集の出版が容易になり、同時に新聞(毎日新聞・日本新聞・報知新聞・国民新聞など)が、漢詩欄を設けてその一翼を担ったこと。

?中国との交通が開け、人士の往来(日本で聞香詩社を開いた王仁成、清国公使館職員の黄遵憲や何如璋、清国に遊歴や留学した竹添井井・岸田吟香・宮島栗香・石川鴻斎・亀谷省軒・宮島詠士ら)が盛んになったこと。

 この四つの理由の中で、明治と言う時代の風潮を、最もよく表していると思われるのが、?と?です。

 明治四年に文部省が設置されて、学制が大きく変わると、知識と利益を重視した洋学が中心になり、漢学は制度上殆ど廃止されたも同然の様になります。これに抗するが如く多くの私塾が現れますが、その大半が幕末以来の碩学鴻儒の漢学塾です。そこでは広く漢学が講義され、漢詩・散文の制作が課せられていました。

 また明治五年には、藤野海南の主唱で友誼交流を旨とした「旧雨社」が創設され、その社盟には、重野成斎・松平春岳・岡鹿門・鷲津毅堂・阪谷朗盧・南摩羽峰・木原老谷・那珂梧楼・小山春山・川田甕江・中村敬宇・秋月樂山・村山拙軒・萩原西疇・依田学海・信夫恕軒・亀谷省軒・天岸静堂・平田虚舟・青山清幽・岡本韋庵・島田篁村・股野藍田・日下勺水・小野湖山・岡松甕谷・座光寺半雲・西岡宜軒・四谷穂峰・小永井小舟・森春濤らが、加わっています。

 当時、東京に存在していた私塾は、漢唐の注疏を好み古学を講じた安井息軒の三計塾・陽明学を説いた三島中洲の二松学舎・儒教道徳と六芸の実践こそが学問であると称した中村敬宇の同人社・古学の精密性と宋学の論理的思想性及び清朝考証学の合理性の兼有を述べ、『史記會注考證』の瀧川亀太郎や西村天囚が学んだ島田篁村の双桂精舎・古学と六芸の実践を旨とした塩谷箕山の晩香堂・後の東大教授で東洋史学者である市村サン次郎が学んだ小永井小舟の濠西精舎・山井清渓の清渓塾・大沼枕山の大沼学舎・岡鹿門の綏猷堂などが有り、更には箕山の長子塩谷青山の菁莪書院なども有ります。

 地方でも、新潟では桂湖村・小柳司気太・鈴木虎雄らを輩出した鈴木文台の長善館、埼玉では中島撫山の幸魂教舎、郷里の長野で子弟教育に尽力した依田稼堂の有隣塾、名古屋では佐藤牧山が門弟に教授し、京都の草場船山の敬塾、大阪では近藤元粋の猶興書院や、欧化主義を憤慨して雑誌『弘道新説』を発刊し、道徳を論じて漢学の普及に努めた藤沢南岳も私塾を開いていますし、岡山では陽明学を奉じた山田方谷の刑部塾が有り、九州では、門弟数千人に及んだ村上仏山の水哉園や、咸宜園の広瀬林外や広瀬青邨及び草場船山・長梅外・長三洲・釈五岳・谷口藍田・堤静斎・柴秋村等も詩名を馳せています。

 私塾以上に自由に作られたのが詩社で、最も設立の古い鱸松塘の七曲吟社(神林香国・大島怡斎ら)・交流の広さを誇った成島柳北の白鴎吟社(依田学海・瓜生梅村ら)・杜甫を宗とした岡本黄石の麹坊吟社(杉聴雨・日下部鳴鶴・矢土錦山ら)・蘇東坡を崇んだ向山黄村の晩翠吟社(田辺松坡・巌谷一六・古沢介堂・田辺蓮舟ら)・宋詩を尊んだ大沼枕山の下谷吟社(植村蘆洲・杉浦梅潭・嵩古香ら)・清詩を鼓吹した森春濤の茉莉吟社(丹羽花南・永坂石タイ・神波即山・奥田香雨・高野竹隠・徳山樗堂・森川竹渓・岩渓裳川・阪本蘋園・橋本蓉塘・杉山三郊ら)・唐詩を宗として関西で活躍した小野湖山の優遊吟社などが有り、交流合併を繰り返しつつ、最終的に明治の前半を風靡したのは、森春濤の茉莉吟社で、後期は春濤の子槐南の星社です。

 当時出版された漢詩関係の雑誌には、森春濤の『新文誌』・佐田白茅の『明治詩文』・大江敬香の『花香月影』・大久保湘南の『随鴎集』等が有り、また漢詩欄を設けた新聞には、森槐南を撰者とした毎日新聞・国分青厓を撰者とした日本新聞を初めとして、報知新聞・国民新聞・自由新聞・時事新聞等が有ります。

 要するに、明治の漢詩壇に在って、その中心に居て隆盛を唱導したのは、森親子であったと言えます。春濤の門下には、丹羽花南・神波即山・橋本蓉塘らがおり、槐南門下には、野口寧斎・大久保湘南・上村売剣らがいます。

春濤と槐南

森春濤(1819~1889)

 名を魯直と言い、尾張の人です。彼は、清朝の詩を推奨して一家をなし、その詩会には必ず美妓を侍らせて憚らず、世人は「詩会」と言わないで「桃花会」と囃し立てた、と言う一種の天才的漢詩人です。彼の茉莉吟社には、鷲津毅堂・巌谷一六ら、当時を代表する錚々たる漢詩人が参集し、春濤の天下と言うに相応しい様相を呈しています。彼は、明治八年に『東京才人絶句』』二巻を刊行して評判を得ると、『清三家絶句』や『清廿四家』を刊行し、自ら『新詩文』と言う機関誌も発行します。尚、彼自身の作品集に、『春濤詩鈔』二十巻が有ります。

森槐南(1863~1911)

 名を公泰と言い、尾張の人です。彼は、鷲津毅堂や三島中洲に学び、東京帝国大学文科講師になった人です。彼の星社には、田辺碧堂・土井(居)香国・森川竹渓らが集まり、更に父春濤の門人らが羽翼したため、明治の後期には、漢詩壇の一大勢力となります。彼には、中国の詩を解釈した『杜詩講義』『李詩講義』『韓詩講義』『李義山詩講義』『唐詩選評釈』等が有り、彼自身の作品集として、『槐南集』八冊巻が有ります。

その他の人々

副島蒼海(1828~1905)

 名を種臣と言い、佐賀の人です。彼は、佐賀藩の国学教授枝吉南濠の次男で、早くより家学を受け副島利忠の養子となって国事に奔走し、明治新政府では外務卿や内務大臣を歴任します。森一派に因る清詩提唱に席巻される明治詩壇に在って、漢魏の古調を強く唱えた人です。その書に、『蒼海全集』六巻が有ります。

嵩古香(1837~1919)

 名を俊海と言い、埼玉の東松山市の人です。真宗大谷派了善寺の第十代住職として生きた彼は、幼少より漢詩に親しみ、十六歳で漢詩を作り出し、大沼枕山に師事していますが、枕山自身が菊池五山に詩を学び、梁川星巌の門に入って詩名を馳せた人であれば、古香も星巌の流れを汲む詩人であると言えます。彼は、寺の有る東松山市から殆ど動くこと無く、江戸末から大正にかけて起こった事件や事象を、一万首を超える漢詩に詠じています。将に激動の時代を活写した詠史詩の雄であり、当時を代表する「方外の詩人」であると言えます。

秋月天放(1839~1913)

 名を新と言い、日田の人です。彼は、佐伯藩の儒者秋月橘門の子で、家学を継承しつつ広瀬淡窓に師事し、詩を善くした漢詩人として知られています。維新後は新政府に仕え、三河県知事・葛飾県知事・文部省参事官・女子高等師範学校校長などを歴任し、貴族院議員になっています。その書に、『天放存稿』一巻・『知雨楼詩存』十巻等が有ります。

大須賀イン軒(1841~1912)

 名を履と言い、磐城の人です。彼は、平藩の儒者神林復所の次男で、江戸の昌平黌に入って安積艮齋に師事し、帰郷して藩の督学となり、維新後は十年ほど悠々自適の生活を送った後に、仙台の第二高等学校(現、東北大学)の漢文担当教授となった人です。その書に、『イン軒文集』二巻・『イン軒詩集』四巻等が有ります。

土屋鳳洲(1841~1926)

 名を弘と言い、和泉の人です。彼は、九歳で藩校講習館に入り、相馬九方に就いて古学を学び、次いで但馬の池田草庵に就いて朱子学や陽明学を学び、後に岸和田藩の藩校教授となり、維新後は師範学校の校長などを歴任した漢学者です。その書に、『孝経纂釈』一巻・『晩晴楼詩鈔』二巻・『晩晴楼文鈔』三巻等が有ります。

末松青萍(1855~1920)

 名を謙澄と言い、福岡の人です。彼は、十歳の時に村上仏山に就いて漢学・漢詩を学び、上京して伊藤博文の知遇を得、官界に入った後に政界に転じ、逓信大臣や内務大臣を歴任した人ですが、同時に評論家・翻訳家・漢詩人としても活躍しています。その書に、『青萍集』四巻・『青萍雜詩』一巻・『青萍詩存』一巻等が有ります。

木蘇岐山(1857~1916)

 名を牧と言い、美濃の人です。彼は、儒者で大垣藩の侍読であった木蘇大夢の第二子で、漢学を野村藤陰や佐藤牧山に学び、典故考証に精通し詩を善くしています。維新後は上京して森槐南や矢土錦山らと交遊し、東京新聞の漢詩欄を担当して名声を得、富山で湖海吟社を、金沢で霊沢吟社を興し、晩年は大阪に住して病死した漢詩人です。その書に、『五千卷堂集』十七巻・『星巌集註』二十一巻等が有ります。

大江敬香(1857~1916)

 名を孝之と言い、阿波の人です。彼は、藩校修文館で漢学を修め、藩命に因り英国に留学、十六歳で慶應義塾に入り、更に東京帝大文科に進みますが、病気で退学します。その後、静岡新聞・山陽新聞・神戸新聞などで主筆・主幹を歴任した後に東京府庁職員となり、五年ほどで退職し以後は漢詩文の制作に専念し、菊池三渓を師として森父子らと交わり、漢詩雑誌の『花香月影』や『風雅報』などを刊行しています。彼が神戸で起こした愛琴吟社に出入りしていたのが、福井學圃・大久保湘南・佐藤六石・落合東郭・谷楓橋・森川竹渓ら、当時の若手漢詩人達です。その書に、『敬香詩鈔』一巻が有ります。

本田種竹(1862~1907)

 名を秀と言い、徳島の人です。彼は、学芸に志して阿波藩の儒者岡本晤堂に漢詩・漢学を学び、上洛して江馬天江や頼支峰らと交友を結びます。維新後は上京して官途に就きますが、退官後は詩文を事とした生活を送っています。その書に、『懐古田舎詩存』六巻・『戊戌遊草』二巻等が有ります。

 明治の漢文

 明治を代表する漢文の作者と言えば、重野成斎・中村敬宇・三島中洲・川田甕江・竹添井井の五人を挙げることが出来ます。

重野成斎(1827~1910)

 名を安繹と言い、薩摩の人です。彼は、十六歳で藩校造士館に入り、二十三歳で江戸の昌平黌に入ります。明治四年に文部省に出仕し、二十年に東京帝国大学文科教授となります。彼の著作には『国史眼』『皇朝世鑑』などが有り、作品集に『成斎文集』『成斎遺稿』が有ります。

中村敬宇(1827~1910)

 名を正直と言い、江戸の人です。彼は、昌平黌に入り佐藤一斎の教えを受けます。慶応二年に英国に留学し、帰国後は大蔵省に出仕し、その後東京帝国大学文科教授となります。彼の著作には『西国立志編』『自由之理』などが有り、作品集に『敬宇文集』『敬宇詩集』が有ります。

三島中洲(1830~1915)

 名を毅と言い、備中の人です。彼は、十四歳で山田方谷の門に入り、二十八歳で昌平黌に入り佐藤一斎・安積艮斎の教えを受けます。明治五年に司法官となりますが、十年に官を辞めて子弟の教育のために二松学舎(現在の二松学舎大学の前身)を設立し、その後東京帝国大学文科教授となります。彼の著作には『論語講義』などが有り、作品集に『中洲文稿』『中洲詩稿』が有ります。

川田甕江(1830~1896)

 名を剛と言い、備中の人です。彼は、山田方谷の門に入り、次いで昌平黌に入り古賀茶渓・大橋納庵の教えを受け、更に安井息軒・藤森天山に師事しています。明治十四年に内務省に出仕し、大学教授を兼ねます。彼の著作には『読史余談』『文海指針』などが有り、作品集に『甕江文鈔』が有ります。

竹添井井(1842~1917)

 名を光鴻と言い、肥後の人です。彼は、広瀬淡窓に学び、維新の時は藩命を以て活躍します。明治に入り、外務省に出仕して天津総領事など外交官として活躍し、十九年に東京帝国大学文科教授となります。彼は、漢詩文のみならず、経書の学にも造詣の深い人です。彼の著作には『左氏会箋』『論語会箋』『毛詩会箋』『孟子論文』『桟雲峡雨日記』などが有り、作品集に『独抱楼遺稿』『井井?稿』が有ります。

 明治の漢学者

 既に述べた様に、漢学は衰微の道を辿り経史の学は不振を極めます。初期には、周易の大家たる根本通明ら幕末以来の碩学鴻儒が気を吐きますが、学制が大きく変わった後は、誠に寥々たるもので、江戸の隆盛には比べようも有りません。

 江戸以来の昌平黌が廃しされ、東京帝国大学が明治十年に開設され、その文科の中に和漢文学科が設置されていますが、十六年までは講義は全て英語で行われています。そのため、和漢学の後継者不足が生じてその養成が説かれだし、十五年に古典講習科(甲部)と支那古典講習科(乙部)とが設置されます。当時の乙部の教授陣は、教授が中村敬宇・三島中洲・島田篁村で、助教授が井上哲次郎、講師に南摩羽峰・秋月韋軒・内藤恥叟・信夫恕軒ら、と言う布陣です。

 この新設科乙部の出身者が、その後の日本の漢学を担う人々です。『周公とその時代』の名著で中国にまで名の知れた林泰輔・『史記会注考證』を著した瀧川亀太郎・市村サン次郎・岡田正之・児嶋献吉郎・山田済斎・嶋田鈞一・安井小太郎等です。他方京都帝国大学では、『支那史学史』を著した内藤湖南(歴史)・『中国哲学史』を著した狩野直喜(思想)・『陶淵明詩解』『白樂天詩解』などを著した鈴木豹軒(文学)らが教壇に立ち、その後の京都支那学の基礎を作り上げます。

 また独学で経学や文学を修めて東洋大学の教授となったのが、『支那文学史』を著した古城坦堂です。更に美術批評を中心とした評論家で活躍しながら、同時に中国学にも造詣が深かったのが笹川臨風です。一方野に在って、朝日新聞社の記者として健筆を振るいながら『日本宋学史』を著し、大阪懐徳堂の復興に尽力して晩年には京都帝大で『楚辞』を講じた、市井の漢学者にして文芸家が西村天囚です。同様に、京都に住して在野の学者として研究と講学に従事しながら、詩書画三昧の生活を送って中国学の発展に大きく寄与したのが、大文人の長尾雨山です。

 この様な明治後半に在って、特筆すべきは井上哲治郎だと思います。彼は、明治三十年代に江戸の儒学を総括して発表しますが、それが井上の漢学三部作と称されるものです。

井上哲治郎と漢学三部作

 井上哲治郎は、従来の漢学者と異なり東大で哲学と政治学を専攻し、長期にヨーロッパ留学を行った、当時の超エリートです。彼は、明治三十三年に『日本陽明学派之哲学』(富山房)を、三十五年に『日本古学派之哲学』(富山房)を、三十八年に『日本朱子学派之哲学』(富山房)を上梓し、江戸一代の儒学を総括して見せます。

 彼がこの三部作を発表した理由は、その序文に因ると「当時の道徳実践の荒廃に鑑み、東洋・西洋の哲学を打って一丸となり、その上に出ることが今日の学問の急務である」と言っています。ここには、明治三十年代と言う時代背景が、色濃く反映されています。

 『日本陽明学派之哲学』では、中江藤樹を筆頭にその学派に連なる人々の来歴と業績を述べ、『日本古学派之哲学』では、山鹿素行から筆を起こして伊藤仁斎・東涯父子及び荻生徂徠などを論じ、『日本朱子学派之哲学』では、藤原惺窩・林羅山から水戸学までを述べています。

 著述の動機や背景などを云々せずに見た時、やや表層的な見方に過ぎる点も無い訳では有りませんが、それでも以後の日本漢学研究の一つの基礎を提供した、貴重な著作であると言えます。

 大正・昭和の漢詩

 明治後半から大正・昭和初期にかけて活躍した漢詩人には、津田天游・水谷奥嶺・日下勺水・股野藍田・岩溪裳川・福井學圃・落合東郭・渡貫香雲・大橋雲外・菊池晩香・戸田欽堂・土井香国・杉浦梅窓・長尾雨山・西村天囚・坂口五峯・佐藤六石・飯塚西湖・石田東陵・国分青厓・服部担風・田辺碧堂・磯野秋渚・藤野君山・仁賀保香城・館森袖海・国分漸庵・松浦鸞洲・滑川澹如・桂湖村・内藤湖南・久保天随・鈴木豹軒・土屋竹雨・岡崎春石・藤波千渓・坪井咬菜・園田天放・結城蓄堂・今関天彭・沢野江舟・西川菊畦・牧野藻洲・本城問亭・安井朴堂・松平天行・滝川君山・内田遠湖・川田雪山・山田済斎・加藤天淵・安達漢城・塩谷節山・矢野甘泉・木村霞邨・四宮月洲・伊藤虚堂・伊藤鴛城・森谷金峯などがいますが、漢詩を以て一家を張ったのは、岩溪裳川と国分青厓と土屋竹雨とで、また地方に於いて詩名を馳せたのが名古屋の服部担風と、九州詩壇の巨星を以て目された宮崎來城です。

岩溪裳川(1852~1943)

 名を晋と言い、兵庫県の人です。彼は、儒者であった父岩溪達堂から家学を受けて漢文の素読を習い、上京して森春濤に漢詩を学んで高足と称され、国分青厓と共に「二大詩宗」と並称され、芸文社顧問や二松学舎大学教授を務めています。彼の作品集に『裳川自選稿』が有ります。

国分青厓(1857~1944)

 名を高胤と言い、宮城県の人です。彼は、司法省第一期法学生となりますが、退学して日本新聞の記者となり、漢詩欄を担当して自らも発表し、当時の詩壇を賑わします。大正十二年に、大東文化学院(現大東文化大学)の教授となり、各詩社や雑誌『昭和詩文』『東華』などの顧問を務め、大正期の漢詩壇に君臨します。彼の作品集に『青厓詩存』が有ります。

服部担風(1857~1944)

 名を轍と言い、愛知県の人です。彼は、森槐南らに師事して雅声社を開き、一貫して愛知に在って作詩の指導に貢献した人で、昭和二十八年には日本芸術院賞を受賞しています。その書に、『担風詩集』七冊が有ります。

宮崎來城(1871~1933)

 名を繁吉と言い、十久留米の人です。彼は、久留米藩士で俳人であった宮崎松語の長男ですが、三歳で父母を失い、山下桃蹊や江崎巽菴らに就いて刻苦勉学し、性格は磊落で任官を好まず、日本全国や中国・台湾を遊歴して作詩に情熱を傾け、九州詩壇の巨星を以て目された漢詩人です。

土屋竹雨(1887~1958)

 名を久泰と言い、山形県の人です。彼は、明治四十二年に東京帝国大学法学部政治科に入り法学を修めますが、同時に岩渓裳川から漢詩を学んでいます。昭和三年に、漢詩雑誌『東華』を刊行しますが、この雑誌には中国の大家鄭孝胥・升允・汪栄宝なども投稿しています。昭和十年に大東文化学院教授となり、二十三年に学院総長となります。彼の著作には『大正五百家絶句』『昭和七百家絶句』『漢詩大講座』などが有り、作品集に『猗廬詩稿』が有ります。

  叢書と影印和刻本

 明治から大正にかけて漢学が衰微する中で、まるでその流れに反する様に、大型の漢文に関する叢書が作られます。また、江戸時代には経史子集を問わず多くの漢籍の版本が刊行された時代ですが、昭和に入ると、それらをテーマ別に集めて排印出版したり、原本を影印出版したりしています。以下に、その代表的なものを年代順に列挙します。

叢書部門

『蛍雪軒叢書』十冊、近藤元粋編、青木嵩山堂刊

 明治二十五年に出版された叢書で、中国の歴代の詩話五十九種に返り点を付し、合わせて近藤の評定を加えた和装本です。司空図の『二十四詩品』・歐陽修『六一詩話』・朱承爵の『存余堂詩話』・沈徳潜の『説詩?語』などが、収められています。近藤には、他にも『蛍雪軒論画叢書』六冊も有ります。彼は、明治期に多くの漢籍に訓点を付けて出版した人物で、その書は当時広く流布していました。尚、彼自身の蔵書は、現在大阪天満宮御文庫に収められています。

『漢籍国字解全書』四十五冊、早稲田大学出版部編

 明治四十二年から大正六年にかけて順次出版された叢書で、『書経』『詩経』『老子』『荀子』など経子が中心で、集のものは『楚辞』『古文真寶』『文章規範』『唐宋八家文』『唐詩選』だけです。本全書には「先哲遺著」と銘うった、江戸の儒者(林羅山・荻生徂徠・熊沢蕃山など)の国字解ものを集めた第一輯十二冊と、新たに注釈(菊池晩香・松平康国・桂湖村など)を加えた第二・三・四輯三十三冊とが有ります。

『漢文大系』二十二冊三十八種、服部宇之吉編、富山房刊

 明治四十二年から大正五年にかけて順次出版された叢書で、中国の古典を系統的に知るための基本図書を、権威有る原注(鄭玄注『礼記』・玄宗注『孝経』・許愼注『淮南子』・竹添井井注『左氏会箋』・太田方注『韓非子翼毳』など)とともに刊行することを、目的としています。編集の任に当たった服部は、全三十八種中の約半分十七種の解題を担当しています。

『少年叢書漢文学講義』二十六冊、興文社刊

 明治二十四年以来長期に渉って刊行された叢書で、本文に返り点・送り仮名を付け、通釈と語釈を加えてた和装本です。面白いのは、中国の漢籍以外に『日本外史』が加えられている点です。

『校註漢文叢書』十二冊、久保天隨編、博文館刊

 大正元年から三年にかけて順次出版された叢書で、毛利貞斎の『論語集註俚諺鈔』・勝田祐義の『孝経国字解』・素隠の『三体詩鈔』・釈笑雲の『古文真宝抄』などが、収められています。

『対訳詳註漢文叢書』四十冊、有朋堂刊

 大正八年から十四年にかけて順次出版された叢書で、注解と国訳とを載せています。本叢書は、一般的な漢籍以外に『女四書』『菜根譚』などを採取し、更に『日本外史』『先哲叢談』なども加えてあります。

『国訳漢文大成』四十冊、国民文庫刊

 大正十一年から順次出版された叢書で、経史子部二十冊と文学(集)部二十冊とで構成されています。全て書き下し文にして注釈を付け、原文は巻末に載せてあります。特に良いのは文学部門で、文言の『楚辞』や『文選』だけではなく、白話小説の『水滸傳』『紅樓夢』や元曲の『西廂記』『琵琶記』『牡丹亭還魂記』なども、含んでいます。本大成には和装本と洋装本の二種類が有り、更に続編の『続国訳漢文大成』には、陶淵明・李白・杜甫・白居易・韓愈・蘇東坡などの詩集や、『資治通鑑』『貞観政要』『二十二史剳記』などが、入れられています。

『日本名家四書註釈全書』十三冊、関儀一郎編、東洋図書刊行会刊、鳳出版復刻刊

 大正十一年から昭和五年にかけて順次出版された叢書で、江戸時代の儒者の四書に関する注釈書を集めたものです。正編は十冊で、十七人の三十二種が収められ、続編は三冊で、五人の十一種が収められています。

『日本詩話叢書』十巻、池田蘆洲編、鳳出版復刻刊 

 大正九年から十一年にかけて順次出版された叢書で、江戸時代の文人五十三人が著した詩話六十六種が、収められています。祇園南海の『詩訳』・山本北山の『孝経楼詩話』・市河寛斎の『談唐詩選』・菊池五山の『五山堂詩話』などで、原文が漢文のものには、書き下し文が付けられています。

『詳解全訳漢文叢書』十二冊、至誠堂刊

 昭和元年から三年にかけて順次出版された叢書で、全訳を施しています。本叢書は、一般的な漢籍以外に『日本外史』『日本政記』『日本楽府』『言志録』などを採取しています。

『崇文叢書』二輯、崇文書院編 

 昭和元年から七年にかけて順次出版された叢書で、日本の先哲の名著を集め返り点を付けた和装本です。第一輯十種、第二輯十三種の構成で、第一輯には、空海の『篆隷万象名義』・松崎慊堂の『慊堂全集』など、第二輯には安井息軒の『毛詩輯疏』・竹添井井の『論語会箋』などが、収められています。

『日本芸林叢書』十二巻、池田四郎次郎等編、六合館刊、鳳出版復刻刊

 昭和二年から四年にかけて順次出版された叢書で、日本の近世の漢学者・国学者の学芸随筆類を集めたものです。

『日本儒林叢書』九冊、関儀一郎編、鳳出版復刻刊

 昭和二年から順次出版された叢書で、日本の古今の儒家の名著を、随筆・史伝・書簡・論弁・解説の五部に分けて、収めてあります。

『漢詩大觀』五冊、佐久節編、関書院刊

 昭和十一年から十四年にかけて順次出版された叢書で、詩集三冊、索引二冊の構成です。索引は一句を基本として、一句の頭字の筆画順に並べてありますので、句から詩題や作者を知るのには便利です。詩集は『古詩源』『陶淵明集』『玉台新詠』『唐詩選』『三体詩』『李太白集』『杜少陵詩集』『黄山谷詩集』『陸放翁詩集』などが採取されています。

伝記資料部門

 江戸時代には漢学者に関する伝記資料として、原念斎の『先哲叢談』が有りますが、昭和に入り、大きく纏められたものが有ります。

『漢学者伝記集成』竹林貫一編、関書院刊 

 昭和三年の本で、江戸時代から大正年間死亡の漢学者三百八十一名の伝記で、年代順に排列してあります。

『漢学者伝記及著述集覧』小川貫道編、関書院刊

 昭和十年の本で、日本の漢学者の伝記と著述目録で、千三百名について、生地・生没年・学統・略伝・著書などが、記されています。

『近世漢学者伝記著作大事典』関儀一郎編、井田書店刊

 昭和十八年の本で、近世漢学者の伝記と書目が五十音順に配列記載されており、人員は二千九百名・書目は二万余種が記されており、付録として「漢学者学統譜」と「近世漢学年表」が、末尾に付けられています。

影印和刻本部門

 近年、影印による和刻本が多く出版されていますが、和刻本の原貌を窺うには便利です。江戸時代には、漢籍の和刻は言うに及ばず漢学者の著述も多く刊行されていますが、近年その原本を探すのは大変ですので、これら影印和刻本を利用すれば良いと思います。この影印和刻本を鋭意出版しているのが汲古書院で、その和刻本シリーズには、書誌学者長沢規矩也氏の解題が巻頭に付けられています。参考のために、それらを列挙しておきますが、出版は全て汲古書院です。

『和刻本正史』三十九巻・『和刻本資治通鑑』四巻・『和刻本経書集成』七巻・『和刻本諸子大成』十二巻・『和刻本漢詩集成』三十巻・『和刻本漢籍文集』二十一巻・『和刻本漢籍随筆集』二十巻・『和刻本書画集成』十二巻・『和刻本類書集成』六巻・『和刻本文選』三巻・『和刻本明清資料集』六巻・『和刻本辞書字典集成』七巻・『詞華集日本漢詩』十一巻・『詩集日本漢詩』二十巻・『総集日本漢詩』四巻・『日本随筆集成』二十巻・『近世白話小説翻訳集』十三巻・『漢語文典叢書』六巻・『唐話辞書類集』二十巻・『明清俗語辞書集成』五巻、等です。

 

《閑話休題・6》

 現代では、漢詩を作る人をあまり見かけませんが、それでも高尚な趣味として結構多くの人々が作っています。例えば、東京の湯島に有る聖堂(元昌平黌跡)には、「聖社詩会」と言うのが有り、財団法人斯文会の雑誌『斯文』には、そこでの作品が毎号載せられています。

 また財団法人無窮会の学会誌『東洋文化』にも「詩林」の項が有り、毎号八十首前後の漢詩が載せられています。尚、平成十五年には、「全日本漢詩連盟」が、旗揚げされています。

 一方、江戸以来の諸芸の中で、著しい発展を遂げたのが書です。現在の書道界の隆盛が、それを端的に示しています。幕末(慶応三年・1867以前)の生まれで、明治の後半から昭和の前半にかけて、書道教育や書製作で活躍した人々は、それこそ枚挙に暇がない程ですが、彼等に共通して見られる点は、自ら製作した漢詩や和歌を書くと言うことで、単なる書の表現のみに止まらず、言葉自体が自らの漢学や国学の教養に裏付けされており、書作品として如何に表現するかを追求する所謂「芸術書道」ではなく、学問と表現が混在した諸芸の一つである所謂「学芸書道」であったと思われることです。

 代表的な人としては、漢字の岡本碧巌・市河万庵・秋山碧城・平戸星洲・後藤潜龍・日下部鳴鶴・山内香溪・土肥樵石・小山雲潭・福岡敬堂・大邨楊城・野村素軒・川村東江・荒木雲石・香川松石・長岡研亭・三好芳石・高島九峰・石橋二洲・若林快雪・恒川鴬谷・西川春洞・川上泊堂・高山文堂・齋藤芳洲・樋口竹香・山田古香・前田黙鳳・金井信仙・玉木愛石・開沢霞菴・岡村黒城・日高梅谿・杉山三郊・中川南巌・久志本梅荘・市川塔南・岡本可亭・湯川梧窓・朝倉龍洞・山口豪雨・浅野醒堂・赤星藍城・亀田雲鵬・細田劍堂・田邨東谷・都郷鐸堂・角田孤峯・江上瓊山・貝原遜軒・高林五峰・高田竹山・天野東畊・柳田泰麓・大島君川・近藤雪竹・丹羽海鶴・広橋研堂・小室樵山・北方心泉・松田南溟・渡辺沙鴎・本田退庵・黒崎研堂・金子三沢・山本竟山・藤野君山・辻香塢・水野疎梅・大野百練・稲本陽洲・武田霞洞・中村春坡・杉溪六橋・諸井春畦・黒木欽堂・稲田九皐・林春海・岩田鶴皐・中村不折・浅野松洞・岡西鯉山・宮島詠士ら、和文の多田親愛・植松有経・跡見花蹊・小野鵞堂・阪正臣・大口周魚・岡山高蔭などが挙げられます。

 また篆刻では、原田西疇・円山大迂・山田寒山・浜村藏六(五世)・桑名鐵城・栗田石癖・寺西乾山・梛川雲巣・近藤尺天らで、明治初期生まれの人としては、足達疇邨・梨岡素岳・河井せん盧・園田湖城・石井雙石らが現れます。

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*代表的参考文献(昭和以後の通史)

*日本漢文に関する参考書は、分野・時代・対象等に因って、それこそ山の様に有りますが、ここでは、敢て昭和以降の代表的な通史的な書だけを挙げさせて頂きました。

『日本漢学史』牧野謙次郎著、世界堂、昭和三年。

『日本漢文学史』岡井慎吾著、明治書院、昭和九年。

『日本儒学史』安井小太郎著、富山房、昭和十四年。

『日本漢文学史』岡田正之著、吉川弘文堂、昭和二十九年。

『日本漢文学通史』戸田浩暁著、武蔵野書院、昭和三十二年。

『日本漢文学史講義』緒方惟精著、評論社、昭和三十六年。

『日本漢学』(中国文化叢書9)水田紀久等編、大修館書店、昭和四十三年。

『日本漢文学史概説』市川本太郎著、大安、昭和四十四年。

『日本漢文学史』猪口篤志著、角川書店、昭和五十九年。

『日本儒教史』市川本太郎著、汲古書院、平成四年。

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 後記

 本拙文は、授業での講義用の単なる備忘録的資料に過ぎない。筆者は、決して日本漢詩文や日本儒学の専家でもなければ、その分野に興味が無い訳では無いものの特段研究していると言う訳でもない。因って、本拙文には、新たな知見など何一つ含まれていない。全て先人の著書を参考にして、簡便に纏め縮め上げたものに過ぎない。専家の概説書や研究書は個々の分野毎に多く、それらを適宜参考にさせて頂いた。

 本来、本拙文は、学科編纂のテキスト原稿制作の副産物である。『中国学研究入門?』(新入生無料配布)のテキスト制作に当たり、「日本漢文」の項目の執筆依頼を夏前に受けた。枚数が原稿用紙20枚前後と決められ、しかも締め切りが夏休み明けと、時間と分量が限定た中で、一体何を如何様に書くか、一口に「日本漢文」と言っても、漢詩文や漢文史書の流れや、儒教思想の多様な展開、更には漢字に依拠した書文化の発展等々も有る。これらをどの様に分かり易く纏めるか、将と悩んだ。

 そこで先ず己自身が理解出来るように、各分野・各時代を簡便に纏めてみよう、更にそれを縮めようと考えたのである。その結果縮める前に出来上がった概略的且つ通史的な元原稿約300枚が、本拙文である。

 将に倉卒の間とでも言うべき、僅か夏休み中の二週間強で纏め上げたため、当然遺漏や先人の考えを誤解している部分等、瑕疵の点多々有ることは免れ難い。既にテキスト原稿が推敲された今となっては、この元原稿は、無用の長物に過ぎない。さりとは雖も、このまま屑箱に捨て去るのも些か惜しい。

 因って、授業用の備忘録として、敢て遺す事とした。全く以て汗顔の至りではあるが、駄馬の手す寂びとして御寛恕を切に請う次第である。

 思えば、今を去る三十五年程前に、故猪口篤志先生の日本漢文の授業を受け、故藤野岩友先生の平安朝漢文学の授業も受けたが、それ以来日本漢文などに携わることは、殆ど無かった。二十年程前に短大で数年話した(江戸時代のみ)だけで、以後は全くご無沙汰の限りを尽くしていた。

 所が二年前に、日本文学科から日本漢文学史の授業の依頼を受け、昔取った杵柄と押っ取り刀で引き受けさせて頂いたものの、悲しい哉、過去の知識など遙か忘却の彼方に消え去り、あわてて諸書を読み散らかして事に臨んでいる、と言う状況である。六十近くなっての再勉強、情けないやら悲しいやら、その反省も込めて原稿依頼を引き受けさせて頂いたと言う事である。

 何やら「もっと真面目に俺の授業を受けていれば、あたふたする事は無いんだ」、と猪口先生に叱責されている様に思えてならない。これも、先生の授業の末席で、「どうせ単位充当の授業」などと言って、ろくにノートも採らず半分近く寝ていた愚かな学生の、今になって与えられたレポートであろうか、何か奇縁を感じてならない。
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