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徒然日記

また日記のまとめ書きです。(笑) [徒然日記]

投稿日時:2014/06/14(土) 12:21

2014/6/11(水)は、関学「日本文学特殊講義」に出席。

今回の講義は、漢詩における「古典」が講義のテーマでした。

明治の文豪が、「江戸期の漢詩」をどう評価しているのかの講義。

例えば、正岡子規は、江戸時代の漢詩人である「菅茶山」の漢詩を好み、その情景を踏まえた俳句を作っている。

    ※『いくたびも、雪の深さを、尋ねけり』(明治29年 病中雪)

 「古代中国魯で、雪が一尺積もると瑞祥として喜んだ」との故事を、菅茶山の漢詩から学び、自己の俳句に用いたと考えられている。

 また、永井荷風は、江戸時代の漢詩人である「館柳湾(たち りゅうわん)を高く評価していたことなど。

 


菅茶山 ウィキペディアより引用しました。

 
 
『近世名家肖像』より

菅 茶山(かん ちゃざん(さざん)、延享5年2月2日(1748年2月29日)- 文政10年8月13日(1827年10月3日))は、江戸時代後期の儒学者・漢詩人。諱は晋帥(ときのり)。字は礼卿。通称は太仲・太中。幼名は喜太郎、百助。備後国安那郡川北村(現広島県福山市神辺町)の出身。

経歴
農業・菅波久助の長子として生まれる。茶山が生まれ育った神辺は、山陽道の宿場町として栄えていたが、賭け事や飲酒などで荒れていた。学問を広めることで町を良くしようと考えた茶山は、京都の那波魯堂に朱子学を学び、和田東郭に古医方を学んだ。京都遊学中には高葛陂の私塾にも通い、与謝蕪村や大典顕常などと邂逅した。
故郷に帰り、1781年(天明元年)頃、神辺(現在の福山市)に私塾黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開いた。皆が平等に教育を受けることで、貧富によって差別されない社会を作ろうとした。
塾は1796年(寛政8年)には福山藩の郷学として認可され廉塾と名が改められた。茶山は1801年(享和元年)から福山藩の儒官としての知遇を受け、藩校弘道館にも出講した。化政文化期の代表的な詩人として全国的にも知られ、山陽道を往来する文人の多くは廉塾を訪ねたという。詩集『黄葉夕陽村舎詩』が刷られている。(復刻版は葦陽文化研究会編、児島書店、1981年(昭和56年))

廉塾の門人には、頼山陽・北条霞亭など多数。墓所は神辺網付谷にある。
「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は1953年(昭和28年)に国の特別史跡に指定された。


日本文学特殊講義は、来週1回で終わります。非常に優れた講義でした。

近日に、全部の講義のまとめを行う予定です。


 

2014/6/12(木)は、『古事記』の関連本の読書。

引き続き、「古事記の文字世界」という本を読む。

色々と考えながら、ノートを取りながらの読書で、遅々として進まず、大学図書館に、貸出延長手続きを取りました。

 

2014/6/13(金)は、「年金生活者」の開始日です。

今日、初めての年金支給日でした。

いよいよ今日から、「年金生活」が始まります。

年間支給額は、現役時代の五分の一くらいですがから、厳しい生活をすることとなります。

併せて、市県民税も納税通知がきましたが、年金の2か月分越えの課税額でした。

まあ、しょうがないので、ボチボチやって行きます。

なお、午後からは、「日本書誌学」の講義に出席。

崩し字の2回目に挑戦しました。

この講義のまとめも、近いうちにやらなければ。

例によって、娘と一緒に大学へ行きました。「昼ごはん」は払ってくれたのですが、「コンタクトレンズ代」と「タクシー代(大学⇒西北)」は、負担させられました。(涙)

 

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